第76話
「あー……いいか? その辺で」
静寂を切り裂いたのは、一人の男だった。
この舞踏会の主催者、マルジャン王国第二王子、ヤシュムである。
不自然に周囲に人がいないロゼ達のもとに、護衛を連れ、颯爽と歩いてくる。ハリージュがすっと腰を折るが、ロゼは直立したままヤシュムを見た。
「今日はよくいらしてくれた。”湖の魔女”――いや、アズム夫人」
方々からまた悲鳴が聞こえてきた。ロゼはげんなりとした顔を浮かべる。
「まだそう呼ばれる立場ではありません」
「では、アズム夫人カッコカリ」
「……今日は魔女として招待を受けたと思っていたのですが」
不満を隠しもせずにロゼは言った。
ハリージュが言うには、ロゼが魔女として王宮の舞踏会に招待されるのは特別な意味があるらしい。魔女が招待されるなど前例の無いことではあるが、そもそも魔女が王宮騎士と結婚すること自体、前代未聞だ。
ハリージュの主人でもあるヤシュムが、ロゼを魔女として招待する――それは、王家が魔女の存在を容認するということに他ならない。
ロゼにはあまり興味の無いことであったが、ハリージュにとっては非常に大事なことでもあるようだった。ハリージュの思いを汲み、ロゼは心の底から仕方なく、ビュッフェに来たのであった。
「人の世には慣れたか?」
「人がまだ、魔女に慣れぬようです」
「魔女は龍や不死鳥のようなものだからな。存在は知っていても、誰もが触れることをためらう。ハリージュは良い杖を手に入れた」
「私はハリージュさんのそばにいることを決めましたが、それは王子のそばというわけではございません」
周りの貴族達にも聞こえるような声量で、ロゼはきっぱりと言った。
「薬が欲しければ、どうぞ湖まで足をお運びください」
慇懃無礼に答えるロゼを、ヤシュムが指さす。
「そなたの妻、手厳しいな」
「しっかりもので、とても助かっております」
人前だからか、ハリージュのヤシュムに対する棘も、なりを潜めている。えっへんとばかりに胸を張ったハリージュを見たヤシュムの首元には、しっかりと鳥肌が立っていた。
「ハリージュさん、やめてください」
首をふるふると振りながら、礼服の袖を引っ張ると、名残惜しそうにハリージュは胸を引いた。
ヤシュムは頬まで広がっていた鳥肌が収まった頃合いで、再びロゼに話しかけた。
「ならばその内、噂に名高い魔女殿の秘薬の世話になろう。夫の友人に、少しくらいの融通は利かせてくれるだろう?」
「金額は下一桁まで完璧に頂戴いたしますし、注文に優先度もありません。私は、魔女ですから」
ヤシュムが何故今日、ロゼを舞踏会に誘ったのか――そして魔女としての参加を許可したのか、ロゼは唐突に気付いた。
本当に彼が言うとおり、先日の詫びだったのか。罪人とばかりに塔に閉じ込められていたのはまだ記憶に新しい。
この国の頂点にいる王族でさえ、魔女は特別扱いをしない。その言葉と、彼の後ろ盾は、今後ハリージュの隣に立つロゼにとって、かなり有力な札となるだろう。
「仕方がない。引きさがろう――代わりに、踊ってはくれるだろう?」
「は?」
まるで宇宙語を聞いたかのように、ロゼは意味が理解できなかった。
踊る? 誰が? 誰と?
当然のように、ヤシュムから手を差し出された。ロゼは唖然としてヤシュムの手の平を見つめる。
踊りなど、見たのすら今日が初めてだ。自分が人と踊るなんて、想像もしたことが無い。
周りの誰もが、固唾を呑んで魔女の動向を見守っていた。
ロゼは逃げるように、一歩後ろに下がった。
そして、ぐいっとハリージュの背を押す。
「では、ハリージュさん。お願い致します」
「……ロゼ」
氷点下まで下がったハリージュの冷たい視線に、ロゼは内心で悲鳴を上げながら、ぶるぶるとローブの中で震える。こんな瞳も格好いい。
「願いを聞いていただけたなら、わ、私もあの件を……式での――誓約方法について、善処すると誓いましょう」
かつてロゼが、膝を抱えて「式でキスするなんて無理だ」と泣いていた件についてだと、すぐにわかったのだろう。ハリージュはこれ以上無いほどに深い皺を眉間に刻む。
「本当だろうな」
「魔女は約束を違えません」
「言質は取ったからな」
まずい約束をしたのかも知れない。ロゼは唇を噛んだ。だが、たとえどれほどまずい約束だとしても、ここで王子の手を取るよりは万倍ましだと思った。
ハリージュが鬼のような形相で、ヤシュムの手を取る。
ヤシュムは冷や汗を大量にかきながら、顔を引きつらせた。
「冗談だよな?」
ハリージュは無礼にも、ヤシュムに返事をしなかった。
ざわめきの中から微かに、遠慮がちな音楽が響き始める。
ヤシュムもハリージュも、天を仰いだ。終焉を飾るための音である。今後この楽曲は、二度と耳に入れたくないと二人とも思ったに違いない。
ざわめきが、悲鳴へと変わる。
ホールの真ん中に陣取ったハリージュは、まるで余命を宣告されたばかりの病人のような顔をして、二人でリズムを刻んでいた。
***
「だけどまぁ――それはそれ、これはこれ」
仲良く踊っている二人から、ロゼは冷めた視線を剥がす。
テーブルの上に置かれたままだったグラスを一つ手にとる。誰かがテーブルに置いていったのだろう。飲みかけのグラスを、ロゼはシャンデリアの光に当てた。小さな気泡がぷくぷくと浮いている。
ローブからこっそりと小瓶を取り出したロゼは、隠れてグラスに中身を注ぐ。
その時丁度、ヤシュムとハリージュが帰ってきた。
どうやら、一曲でさっさと帰ってきたようだ。
誰一人、彼らに話しかけるものはいない。腫れ物に触れるのを拒んだ誰もが、見て見ぬ振りをした。
「お前の嫁は無茶苦茶だ」
義務は果たしたとばかりのヤシュムが、ハリージュに吐き捨てる。今度ばかりは、ハリージュもロゼを擁護はしなかった。
「お疲れ様でした。どうぞ」
「ああ」
全く、とでもいいたそうな顔をして、ヤシュムがグラスを受け取った。
そして、ぐいっと一息に呷る。
「っ――?!」
何かを感じたのか、ヤシュムはグラスから唇を離した。だが、グラスの中身はもう消えている。グラスをテーブルに置くヤシュムの手は震えていた。
「ロゼ、何を……」
主人の様子に気付いたハリージュがロゼを見るが、ロゼは真っ直ぐにヤシュムを見ていた。
ヤシュムの目が、ギロリとロゼを睨み付ける。
「そなた、何を――!」
ロゼは広角を持ち上げた。人前で笑顔を見せるのは珍しい。
ギリギリと歯を食いしばるヤシュムの耳元に、そっと唇を寄せる。
そして、周りに聞こえないくらいの小さな声で返答した。
「――”魔女の惚れ薬”ですよ」
ヤシュムは、さっと怒りを引かせた。
異変を感じ取って駆け寄ろうとしていた護衛達に手をあげ、制する。その顔はかわいそうなほどに青ざめている。
ロゼはヤシュムの手に、そっと使い終わった小瓶を握り込ませる。
「大丈夫ですよ。さほど効かないという噂ですから」
ルゥルゥの作った”魔女の惚れ薬”は、一つだけロゼの手元にあった。
初めてルゥルゥと出会った場所――落とし穴の落ち葉の下に隠れていたのを、ロゼは探し出していたのだ。
持たされた小瓶がなんなのか気付いたヤシュムは、言葉にならずロゼを睨み付ける。
ヤシュムの目は血走り、息は荒い。
心臓が荒れ狂っているのだろう。シャンパンと共に摂取した唾液の主を捜すために、今すぐに走り出したくて仕方が無いに違いない。
一層声を潜め、ロゼは囁く。
「最初に入れられた一発、忘れていませんよ」
――ロゼはずっと根に持っていた。ヤシュムが詫びを口にしようとも、魔女に対する姿勢を改めようとも、ビュッフェに誘っていい感じになろうとも、ロゼは実は、ずっと怒っていた。
コルセットで引き締めたお腹が、今も痛い。
湖でゲオネスに殴られ昏倒させられた時についた痕は、未だに消えていない。骨しか無い痩せ細った女の体だというのに、思いっきり殴られたおかげだ。
目には目を、歯には歯を。
人と魔女の生きる世界が違おうとも、それが世の理だ。
記憶を無くすわけでも、体調を崩すわけでも無い。
――ただ、誰かに心底惚れ込んでしまうだけ。
魔女は唇をにぃと吊って、青白い顔をしている王子から離れる。
「誰に惚れるか、楽しみですね。可愛らしい女の子であることを、私も祈るばかりです」
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