第71話

 ハリージュは塔を蹴った反動で体を反転させた。

 同時にロープから手を離し、ハリージュがロゼの頭を抱きかかえる。


 空を見ていたロゼは、ハリージュの胸元しか見えなくなった。

 あっとロゼが思う間も無く、ロープを括っていた椅子の脚が折れて、浮遊感が再び襲う。


 ロゼは、ハリージュの頭に向けて手を伸ばす。


「なっ――」


 焦ったハリージュの声が耳元でする。

 次の瞬間、ドシンッと、二人は地面に落下した。


 さほど高い位置から落ちたわけでは無かった上に、ハリージュに抱きかかえられていたため、ロゼの受けた衝撃は大したものではなかった。


 しかしハリージュは、まともに衝撃をその身で受けてしまっているだろう。足腰が笑っているため、転がってハリージュの上から退く。

 ロゼの体が離れた瞬間に、ハリージュはロゼを抱き、そばにあった木の陰に隠れた。


 そしてロゼが口を開く前に、鬼の形相でロゼを睨み付ける。


「危ないだろう!」


 ハリージュが怒鳴った。

 その声量は抑えられていたが、隠しきれない怒りが潜んでいた。


「あんたの腕を、俺に、下敷きにしろと言うのか!」


 びくりとロゼの体が震えた。ハリージュに言われ、今頃になって自分がしたことを把握する。


 ロゼは呆然と自分の両手を見る。

 この両手は、たった二つしか無い自分の商売道具だ。

 万が一無事にこのまま塔から出られても、この両手が無くなれば、”魔女の秘薬”を作り続けることも、魔法をかけることも難しくなるだろう。


 魔女として生きてきたロゼにとって、魔女であることは非常に大きな意味を持つ。頑なに魔女でいたがっているのは、魔女以外の自分を知らないからだ。魔女としての自分を、誇りに思っているからだ。


 だから、ハリージュと結婚をしてもずっと魔女でいるつもりでいた。


 なのに――。


「……守りたかったんです」


 ポロリと、言葉よりも先に涙が零れた。


「勝手に、体が動いて……」


 信じられない思いで、ロゼは両手を見下ろした。こうしてロゼの腕が無事に動いているのは、単にハリージュが空中で受け身を変えてくれたからだ。



「――貴方は、私に魔法をかけましたか?」



 ハリージュは落雷を受けたような顔をして、ロゼを見た。

 ロゼ自身の戸惑いを感じたのだろう。ハリージュが優しくロゼの体を抱き寄せる。


「知っているだろう。俺には魔法はかけられない」


「なら、これはなんですか」


「だから、それが愛だろう」


 先ほど、愛故に身勝手で、道理の通らない真似をしてしまった男の言葉に、ロゼは呆れるほどに納得してしまった。


 愛とは、なんと恐ろしいものか。


 愛の恐ろしさを我が身をもって知ってしまったロゼは、ぶるりと体を震わせた。

 こんな風に道理のまかり通らない真似をしてしまうなんて――それではまるで魔法ではないか。


 幼い頃にティエンが読んでくれた、物語の数々をロゼは思い出していた。


 物語では、唯一魔法を打ち砕くのは愛だという。


 きっとそれは、愛だけが魔法を持たない人間にも使える魔法だったからに違いない。


「……ごめんなさい。痛いですか?」

 思いっきり体を打ち付けたハリージュの肩を、そっと撫でる。無謀なことをしたロゼのために、もしかしたら無茶な姿勢で落下させてしまったかもしれない。


「痛みは吹き飛んだ」

「愛で?」

「そうだ」

「魔女いらずですね」

「だが、あんたは必要だ」


 ハリージュがロゼを抱き寄せた。ロゼはおずおずと、その背を抱きしめ返す。

 力を込め、強く抱きしめ返したハリージュは、ハッと体を強張らせた。


「どうかし……」


「ハリージュ、そこにいるわね?」


 ロゼが尋ねるほんの小さな声よりも、もっと小さな声だった。大きな声で叫んだわけでも、声を張り上げたわけでも無い。

 だがその声は生い茂る木々の隙間を抜け、真っ直ぐにハリージュとロゼの元に降り注いだ。


 声の主――ルゥルゥは、後ろで引き留めようとするヤシュムなどものともせずに、塔の窓からこちらを見下ろしていた。

 見上げても、高い陽の陰が邪魔になり、王女の表情は見えない。


「出てらっしゃい」


 迷い猫を誘い出すかのような、甘く優しい声だった。しかしその声は、あまりにも人を従わせることに慣れきっている。


「あのシスコン王子め……足止めに失敗したな」

 ハリージュが舌打ちする。とんでもない暴言にロゼが無言を守っている内に、ハリージュは厳重に布で覆い囲んだ革袋を懐にしまう。

 そのままロゼを茂みに追いやり、自分だけが塔の下に赴いた。


「お呼びでしょうか。ルゥルゥ様」


 ハリージュがロゼを連れてこなかったことが不満だったのか、ルゥルゥは幼く可愛らしい声で問う。


「あらハリージュ。貴方、何をそれほど大事に隠しているのかしら?」

「婚約者です。目に入れても痛くないほどに可愛がっております」

「まぁそれはそれは。是非ご挨拶しなくては」

「恥ずかしがり屋なため、本日はご容赦いただけると嬉しいのですが」

「そこにいて! 私が下りるわ!」


 全くハリージュの話を聞かないルゥルゥに、ハリージュは頭を抱えた。ルゥルゥは既に窓から消えている。こちらに下りようとしているのだろう。

 窓からそろりと覗いているヤシュムに、ハリージュは特大の笑みを送った。親友の本気の怒りを感じ取ったのか、ヤシュムも大慌てで窓から離れる。

 きっと今頃、急いで階段を下りているだろう。


「ハリージュさん……?」

「ロゼ、すまない。顔を合わせることになった」

「それはいいんですけど……それよりそもそも、何故こんな無茶までして塔から逃げ出したんですか?」


 ルゥルゥに会うことなど、ロゼにとっては何も問題がないことだ。別に本当に「恥ずかしがり屋」なわけでもない。

 何もやましいことは無いのだがら、逃亡したほうが心証が悪くなりそうなものだ。


「ルゥルゥ様とあの状況で顔を合わせるのは、得策では無かった。それにロゼが一連の騒動を引き起こしたので無ければ、魔女を拘束していたのはヤシュムのためにならない――恐い思いをさせてすまない」


「そうですか……。後半の理由は業腹ですが、許すとします」


 ハリージュの言うことが本当なら、ヤシュムはロゼが無関係だと信じたから、行かせたということだ。


「そもそもこの辺り一帯の森は、王妃様の許可が無ければ入るどころか、近寄ることすら出来ない。曰く付きの場所でもあるから、普段ほとんどのものが気にすることも無いと油断していたんだが――確かにルゥルゥ様なら、お気になさるだろう。失念していた」


「好奇心が旺盛な方なんですね」


「普段は年に似合わぬ温厚さで、非常に接しやすいのだが……彼女は魔女を――」


 毛嫌いでもしているのだろうか。当たり前のように、次の言葉は簡単に頭に浮かんだ。初めてヤシュムに会った時の、侮蔑の視線を思い出す。


「まぁまぁまぁ……ハリージュ、いけませんわ。女性に手も貸さずに。騎士たるもの紳士でなくては」


 いつの間にか塔を下りてきたのだろう。少し息を切らした王女がこちらに歩いてくる。ロゼはハリージュの手を借りて立ち上がると、ローブを脱いだ。


「魔女とばれぬ方が、よいのでしょう?」

「――すまない。助かる」


 ヤシュムのために一肌――いやローブを脱いだロゼは、茂みにローブを隠すと茂みから姿を現した。

 普段着のドレスに、薄紅色の髪を流したロゼを見て、王女が驚愕の表情を浮かべる。


「――なっ」


「……え?」


 ロゼを見た王女が固まり、王女を見たロゼもまた固まった。



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