第13話
「……来る庵を間違えたかな?」
久しぶりにやって来たティエンは、ドアを開けざまにそう言い、外を確認した。
気の済むようにさせていたロゼは、呆れ顔で迎える。
「他にもこんな辺鄙な場所に住む魔女の家に、仕入れに出てるって言うの?」
「なんだいなんだい、ヤキモチかい?」
「……」
「僕としては大歓迎なんだが。しかし驚いた。まさかこの庵で、人の座る場所が出来ているのを、また見られる日がくるなんて」
祖母が生きていた頃を知るティエンは、片付けられているテーブル周りを見て大げさに驚いてみせた。
他は雑然としたままなのだが、明らかに人の暮らす空間となっているテーブルに興味津々だ。
チリンと来客を告げる鐘がなった瞬間、ハリージュだと思い、洗っておいたテーブルクロスをいそいそと敷いてしまったのだ。反論の余地はない。
「心境の変化です。それよりも、早く入って」
「おっと、すまないね」
そろそろ秋風も冷たくなって来ている。玄関から入る隙間風にロゼが身を縮こまらせていたら、ティエンは慌ててドアを閉めた。
「もうすっかり秋だねぇ」
ティエンの言葉の通り、森は赤く色づいていた。森に隠れた木の実を探しに、動物がカサコソと落ち葉を踏み荒らす季節。
ハリージュと出会ったのは、夏の初めだった。
一つ季節が流れようとしている事実に驚く。
「しばらくぶりだったね。夏の暑さで体は壊してないかい?」
そう言いながら、ティエンは席に着いた。
「あっ」
「? どうした?」
椅子に座ったティエンを見て、悲しく思うなんて馬鹿げている。
テーブルクロスの敷かれたテーブル。
そこに座るのは、いつも自分とハリージュだった。
ハリージュにとっては、なんてことないに違いない。
ロゼが勝手に、一人で特別な席に感じていただけ。
「いいえ。ちょっと」
「足でもぶつけた?」
そんなところ、というように肩をすくめると、ティエンが笑った。
「そこも片付けたほうが、いいんじゃないかい?」
ティエンの軽い口調を聞き流す。
席に通してしまったのだから、茶くらい出さねばなるまい。「お茶なんて出すようになったんだ!」と、これもまたからかわれるのだろう。
呆れに似た思いを吐息に変えて、ロゼは鍋を手に取った。
***
右手には焼きたてのパン。
左手には焼き林檎。
完全に騎士の出で立ちではないことは自覚しながら、ハリージュは森を歩いていた。
丸々の林檎をくり抜いて作られた焼き林檎は、素人目にしても抜きん出て美味しそうなおやつだと思えた。
シナモンや砂糖と一緒にじっくりとかまどで焼かれた林檎は、ハリージュの肥えた目をも楽しませる。
焼き林檎は籠の中に、二つ並んでいる。
店のおかみが転がらないようにと、隙間にビスケットを詰めて固定してくれている。
もちろんそのビスケットの代金も支払っているため、ハリージュは店にとって素晴らしい客といえた。
もうすぐで魔女の庵。この道も随分と歩き慣れたものだ。
桟橋に近づくと、目を凝らす癖がついてしまった。
何故かいつも、魔女はハリージュが家のノッカーを叩く前に……いやそれどころか、小舟に乗る前にこちらに気付くようだからだ。
今日は桟橋まで来ても、カーテンは閉まったままだった。
気付かなかったのだろうかと思った時、ハリージュは気付く。小舟が桟橋につながっていなかった。
「他の客が来ているのか……」
自分以外の客を見たことがなかったため、そんなものが存在することさえ忘れていた。
他の客の存在に、ほんの少し安堵する。
着るものにも困っているような言い方をしていたからだ。
そうだ、今日こそ惚れ薬を急かさなければならない。
ハリージュは気が緩んでいた己を叱責する。
薬を作り終える前に衰弱死でもされたらたまらないから、食事を運び始めたのだ。
林檎は栄養価も高く、魔女の好物だからちょうどいい。それ以上でもそれ以下でも無い。
「喜ぶだろうか、などと……」
思っていないと言い切るには、この二つの焼き林檎は少し無理があるだろうか。
考え事をしながら、一艘しかない小舟をのんびり待っていたハリージュは、顔を上げた。
魔女の庵の、玄関扉が開く音がする。
そして顔を出したのは若い異国風の男ーーと、魔女だった。
魔女はそのまま、出て行く男を見送るために桟橋まで付いて行く。
ハリージュはひどく驚いた。自分が帰る際に、あんな風に魔女に見送られたことはなかったからだ。
ずっと黒だと思っていた魔女のローブは、明るい日差しのもとで見ると、森の色だということを知る。
魔女と男は、庵を出たというのに今度は桟橋で話し込んでいる。
随分と長い別れの挨拶だ。
舟が来ないくらいで苛立ち始めるほど、心の狭い人間ではなかったはずだ。
なのに、ハリージュはなぜか面白くない心地で二人を見ていた。
すると、男がおもむろに手を伸ばす。
そしていつも深く被っている、魔女のフードに触れた。
ハリージュは一瞬、息をするのを忘れた。
それほどに衝撃だった。フードがはだけた魔女は、明るい日差しの下で顔を露わにしている。
手前の男の背中のせいで、二人がどんな表情をしているのかまでは見ることができない。
普段、深くまで被ったフードで隠している素顔が、さも当然かのように風に晒されていた。
魔女は男の手を払いのけた。
その仕草は、拒絶ではなく、過保護な母を迷惑がる年頃の娘のような気安さだった。
魔女はまた、フードを被る。
そして、野犬を追い払うかのように、小舟に乗った男に手を振った。
男はそれを別れの挨拶としたのか、小舟を漕いでやってきた。
森まで辿り着くと小舟から降り、待ちわびていたハリージュに、ステッキを持ち上げて挨拶をする。
「やあ、お待たせいたしまして。まさかこんな場所に来るタイミングが、他のお客さんとも重なるとは思いませんで」
「その気持ちはよくわかる。――では」
身分を隠しているハリージュは、端的に答えると男の横を通り過ぎた。オールを取り、支えにして小舟に乗る。
男に対してあまりにも素っ気なかったのは、詮索されたくないという理由だけではなかった。
ハリージュは困惑していた。
まるで、魔女の素顔を見ることが自分だけに許された特権かのように思い込んでいた自分に。
いや、現に唯一秘密を知っている自分だけには、素顔を見せてもかまわないのだ。それは特別なことに違いない。
だが、その特別さを、大事に抱えていた自分に驚いていた。
そして、秘密を知りもしないのに、あんなに心安く素顔を見ているこの男に。
「……貴方」
舟を漕ごうとしたハリージュに、男が声をかけてくる。
まだ何か用でもあるのかと、ハリージュが男を振り返ると、男は鷹のように目を鋭くしてこちらを見つめていた。
敵意でもありそうな視線だった。男は品定めするように、ハリージュを上から下まで見る。
不愉快に思いながらも、ハリージュが小舟の上で男の言葉を待っていると、男は突然にんまりと笑った。
「随分と、顔がいいですねえ」
ハリージュがバランスを崩す。
おかげで無様にも、湖に転げ落ちる寸前だった。
「ロゼにも、そう言われたのではありませんか?」
慌てて顔を上げると、男は未だ目を細めたままこちらを見ていた。
「やはり。ローブにテーブルクロスに、心境の変化なんていうから……ふふふ。いえいえ、すみません。こちらの話です。これは忙しくなりそうですねえ。先代には随分贔屓にして貰った恩があります。あれこれと、買い揃えなくては」
ハリージュのあずかり知らぬところで上機嫌になった男は、ルンルン気分で森に消えていった。
その間もハリージュは、間抜け面で小舟の上に突っ立っていたが、やがてオールを漕ぎ出した。
いつもよりも水が重く、漕いでも漕いでも進まない気がした。
だが、進まないのはいっそ好都合な気さえしていた。
魔女に会って、なにを話せばいいのか、それさえもわからなくなっていたのだから。
「いらっしゃいませ」
小島に辿り着くと、初めて桟橋で魔女に出迎えられた。
あの男の見送りのついでに。
きっと、ハリージュの姿が見えていたから、仕方なく。
かなり面白くなかった。
持ってきた焼き林檎を、このまま湖に投げ捨ててやろうかと思ったくらいには。
「……今のは?」
「他のお客様のことは、ちょっと……」
「いや、そうだな」
「何か、彼が失礼でも?」
まるで身内の不始末を詫びるような態度が、ハリージュは心底気に入らなかった。
虫の居所が悪かったので、ハリージュもロゼのフードを引っ張ってやった。なんの抵抗もなく、するりと脱げる。
「……お客様?」
ハリージュの前では脱ぎ慣れたのか、訝しがるだけで被り直そうとはしない。
少し溜飲の下がったハリージュは、無言で籠を二つ差し出す。
すると、ロゼは神から恵みかのように、恭しく受け取った。
はしたなくもこっそりと、籠に敷かれているクロスをつまみ、中を確認する。
相変わらずの無表情だが、これは喜んでいる顔だとハリージュも知っていた。
ハリージュは、そっと口にする。
「ロゼ」
びくり、と大げさなほどに魔女が驚いた。
引きずっているほど長いローブのせいで正確にはわからないが、林檎一個分くらいは飛び跳ねたように見えた。
振り返った顔は驚愕に染まっていて、目はあらんかぎりに見開かれていた。
「……というのだな。魔女殿の名は」
溢れそうなほど開いている目がなんだかおかしくて、ハリージュは口の端を上げた。
「これから、そう呼んでも――」
「ダメです」
完全なる拒絶である。食い気味でさえあった。
ムッとして、ハリージュはロゼを睨んだ。
嘘をつけないロゼは、本心からハリージュには名前を呼ばせたくないと思っているのだ。あの男には、呼ばせているくせに。
「ならば返せ」
「えっ……まさか、これを?」
我が子を人質にされたかのような、悲壮な声だった。
毒気を抜かれ、矛を収める。
「冗談だ」
足早に庵に向かうハリージュに、何か言い返したいようだったが、ロゼは口をつぐんだ。籠を大事そうに抱きかかえながら、付いてくる。
玄関を開け、ハリージュは今度こそ、隠しきれない動揺を感じた。
テーブルの上に、二つのカップが置かれていたのだ。
みぞおちのあたりを手で押さえた。ぎゅっと、強く握りつぶされたかのような痛みを感じる。
「どうなさいました?」
入らないのか、とロゼが背後から言外に伝えてくる。
「……いや、今日は、もう」
「へ?」
ロゼはぽかんとしている。
ハリージュは、無様な自分に舌打ちをしたい気分だった。
今日はもうも何も、来たばかりである。
ただ、パンと焼き林檎を渡しただけだ。
あぁ、焼き林檎を覗いていたから、バレてしまっているのだろう。林檎は二つあった。今日もいつものように、ハリージュはここで食べるつもりだったのだ。
この、特別な椅子で。
なんてことはないはずだ。誰が座っても問題ない。誰が彼女の顔を見ようとも、名前を呼ぼうとも、ここで茶を出されようとも、何も関係のない話のはずだ。
他の客なんて見たことがなかったから。
だから自分だけが特別なのかとーー
「どうかなさったんですか? お体が?」
常にないハリージュに、ロゼも心配し始めたらしい。
ロゼの様子に、ハリージュも幾分か冷静になる。
「ああ……そういえば、胸のあたりが」
「胸焼けです? お酒を?」
「昨晩、少し」
「胃の調子を整えるお茶を煎じます。それだけでも飲んで行かれてください」
「……ああ」
ロゼが台所に立つ。その後ろ姿をぼんやりと見つめながら、ハリージュはゆっくり頷いた。
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