第37話
チッチッチッ――と、 アズム邸の廊下に鎮座する、立派な柱時計が秒針を刻む。
「……そろそろいいか?」
壁と同化せんばかりに気配を消し始めた魔女に、遠慮がちにハリージュが尋ねた。
「ええ。ご用件はなんでしたっけ」
「あんたは本当に、俺なんかどうでもいいんだな……」
どうでもいいわけがあるか。どうでもよければ、どれほどよかったか。
これっぽっちも意味のわからないハリージュの愚痴に、ロゼは胡乱な目を向けた。これほど心がドッテンバッタンと騒がしいというのに、ハリージュは全く理解していないようだった。
「彼女は、あんたに対していつもあんな態度なのかと聞いたんだ」
「あんなと言いますが、魔女だと逃げ出さなかっただけ、自分の仕事に誠実だと思いますが……」
実際、まるで本当の「お嬢様」のように迎え入れようとするターラ達の方が、よほど変わっている。
ターラ達に親しくされればされるほど、ロゼは緊張するし、気が抜けない。これまで人と深く長く接してこなかったロゼにとって、”嘘をつけない”という弱点を握られぬように、接するのは非常に疲れることでもあった。
「一言、言っておこう」
「そんな大げさな」
「あんたに対することで、大げさすぎることなどあるものか」
よくわからないが酷く大事にされているような気持ちになった。ロゼは眉根をぎゅっと寄せ、口をひん曲げながら声を絞り出す。
「程々に……程々にお願い致します」
「わかった」
貴族の家の仕組みに詳しくは無いが、ロゼは使用人のことを多少ならば知っている。魔女の家に馬鹿正直に本人自らやってくる貴族は少ない。”魔女の秘薬”を求める貴族の手足となって働くのは、主に下級の使用人達だった。その使用人は、貴族にとって信頼を得られなければすぐに家を追い出されてしまうくらいの価値しかないのだ。
自分の判断が、善良な誰かの人生を左右させるなんてこと、ロゼには荷が重すぎる。
ほっとして体から力を抜くと、ローブの中で、ずるりと服が肩から落ちるのを感じた。元々骨のような細身な上なで肩なロゼにとって、服がずれることはよくあることだった。
ローブに手を突っ込んで、服を引き上げる。が、留められていない部分の後ろ襟が広がり、またずるっと落ちる。
「何をしているんだ?」
ローブの中で何やらもぞもぞとしているロゼを、不審な目でハリージュが見下ろしている。
「えっ、いえ、あの――」
ドレスも部屋も、ハリージュに用意されたものである。
ボタンのことを伝えないために、話をすり替えれば、ハリージュへの不服ととられるかもしれない。
世話をしてもらうというのは、なんと窮屈な環境なんだとロゼは戸惑った。これまで気ままに過ごしていれば、嘘をつかずとも話題を逸らすことなど造作も無かったことなのに、どんどん人と接することが難しくなっていく。
そしておかしなことに、そんなに面倒なことが、それほど苦では無い。
「ははっ」
結局ロゼは、乾いた笑いを漏らした。完全に訝しんだハリージュは、片眉を器用にくいっと上げる。
「何だ?」
「あーえっと……ボタンが」
目を明後日の方向に泳がせたロゼを見て、ハリージュが目を眇めた。
「……まさか、留めていないのか?」
「へい……」
小さな返事を聞くと、ハリージュはロゼの腕を引っ張った。
およそ上品とは言えないエスコートだが、ロゼは唯々諾々と従った。何故だかもの凄く、逆らってはいけない気がした。
ハリージュが扉を開き、部屋に入る。連れて来られたのは、どうやらリネン室のようだった。
ロゼの部屋のすぐ前にいたので、人目を避けるためならば、ロゼの部屋が一番近かっただろうに、何故ここなのだろうか。
何気なく聞こうとしてハリージュを振り返れば、ひどく機嫌が悪そうな顔でこちらを見下ろしていたため、ロゼはきゅっと口を引き結んだ。沈黙は金なり。
「ローブを」
「へ?」
考え事をしていたため、何のことかわからずに聞き返せば、ハリージュは何故か鳩尾に拳でも見舞われたかのように苦々しい表情をしながら、最後まで言った。
「――ローブを
全てを赤裸々に言わせてしまったことを、ロゼは激しく後悔した。
やましいことは無い。なにしろ、今から脱がそうとしているのではなく、着衣を手伝おうとしてくれているのだ。それは間違い無い。
なのにロゼはハリージュの言葉で、足の爪の先から頭の天辺までピシリと固まった。産毛一つ揺れていないだろう。
ギクシャクとしながら後ろを向き、そっとローブを肩から下ろした。
晒された背中は、全てではないがいくらかは素肌が見えているだろう。自分でどのぐらい、きちんと留められていただろうか。少しでも肌は隠れているか、それとも露出しているのか。彼の視線を意識すればするほど、肌に熱が集まっていくのがわかる。
ハリージュはおもむろに手を伸ばすと、神妙にロゼのボタンに触れた。
ぷつり、とボタンが外れる気配がして、ドレスの締め付けがゆるくなった。
なんだそれは、話が違うじゃないか。何故脱がされているんだと焦っても、何一つロゼの口から出ることはなかった。目を見開き、口を引き結び、ハリージュの手の感触を一つ一つ追うことしか出来ない。
ハリージュがドレスの布地を掴む。頭の中が大混乱しているロゼを知ってか知らずか、ハリージュの手つきは酷く慎重だった。熟れた桃の皮を剥くよりも、優しい手つきだったに違いない。
持たれていた布と布が持ち上げられ、ボタンが一つずつ引っかけられていく気配がする。先ほどボタンを外したのは、ロゼが違う
二人の呼吸の音と、衣擦れの音だけが明け方のリネン室に響く。
なんだか、空気が薄いのではないかとロゼは不安になり始めた。ハリージュの手先を、ハリージュの息づかいを意識すればするほど、ロゼの呼吸が浅くなる。
ロゼの首辺りのボタンを留め終えたあとに、ハリージュの手の動きが止まった。
終わったのだろうか。聞こうとして口を開くが、口の中がカラカラで上手く声が出なかった。身じろぎすると、ハリージュの指先に触れそうで動けない。
ロゼはそのまま、数秒間待ち続けた。
「……終わったぞ」
ロゼが長々と感じていたほど、長い時間ではなかった。
十秒か、十五秒か――たったそのくらいの間だったのに、ロゼはどっと疲れてしまった。
一体、何を見ていたのだろうか。ボタンが全て揃っているか、確認してくれていたのだろうと思い込むことにした。
「ありがとうございます。助かりました」
本当はさほど不便に思っていなかったので、留めてもらわなくてもよかったのだが、ハリージュの気が済んだのならそれでいい。そう、そんなことはもうどうでもいいから、ロゼは今すぐこの場から立ち去りたかった。
この部屋の空気には、目に見えない何かが籠っているような気がしたからだ。
頬を手の甲で触れると、酷く熱かった。
この様子では、首まで真っ赤だろう。恥ずかしくて、俯きがちになる。
終わった、と言ったのはハリージュなのに、ハリージュは身じろぎ一つしなかった。ハリージュが扉の前に立っているので、ロゼが退室するためには動いてもらう必要がある。
だがそれを、伝えるには少しばかり勇気が必要だった。何故かはわからないが、ロゼの知らない何かに、ロゼは完全に気圧されていた。
まんじりともしない時間が流れる。息苦しいほどの圧迫感に、振り返ることが出来ない。
「……あの。怒って、いますか?」
勇気を出したロゼが、俯いたまま、背後に立つハリージュに尋ねた。
「いや、全く」
「いえ、でも……??」
でも?? とロゼは首を傾げる。
ハリージュの声色は、確かに怒気を孕んでいなかったが、ならばこの空気はなんだというのだ。
ロゼが困惑していることに気付いたのだろう。ハリージュが、身じろぎをする気配がする。
「こういう」
「っ――」
あろうことか、ハリージュはロゼの襟の隙間に指を滑り込ませ、うなじに触れた。
そのまま、指がロゼの首を沿う。全身が一気に粟立つような感覚に、ロゼの膝から力が抜ける。
「ことをしたくなるのを、我慢している。わかったか?」
「へ、へい」
へなへなとその場にへたり込みながら、ロゼは後ろの首を両手で覆った。
先ほどから続いた沈黙は、ハリージュが真っ赤になっていたロゼの首を見下ろしていたために発生していたのだろう。
思えば、ボタンを留めてもらう間、ハリージュの指先が肌に擦ることは一度も無かった。人のボタンを留めたことは無いが、細心の注意を払っていなければ触れてしまうに違いない。
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