第18話
たらいを下げ、ラウーのぬくもった足を布で拭く。
そのまま、分厚いキルトで二重にも三重にも巻いていると、ラウーの声が上から降ってきた。
「妾が誰かと、尋ねないのか?」
「ラウー様と伺いましたが」
ロゼの返答に、ラウーは困ったように眉を下げた。
寸分の狂いも無く綺麗に整えられた眉が不安げに下がっているのは、ひどく不釣り合いで、あどけなく見える。
普段ならば多くのものを傅かせる、どこぞの姫なのだろう。
だが今は、侍女も召し使いもおらず、彼女を守る物は一枚の林檎色のローブだけ。こんな場所に一人でやってくるのは、簡単なことでは無かったに違いない。
「尋ねた方がよろしかったでしょうか? ですが基本的に、魔女はお客様を――この庵に訪れる方を詮索したり、他言したり致しません。魔女の秘薬を頼る方は、自身ではどうにもならない、切実な願いをお持ちですから」
ロゼは彼女の名前以外、何も知らない。
どんな悩みを、どんな望みを抱えているのか、言っても良いし言わなくてもいい。
ロゼはただ、依頼された薬を作るだけ。
ラウーを慰めるつもりで言った言葉だったが、彼女の心には違うように響いたらしい。
「切実な願いさえ持っていれば、人の心を歪めるような薬を欲するのも、許されるというのか?」
心細ささえ伺わせていた表情は、嘲るようなものへと変わっていた。触れれば、ひやりとしそうな冷たさだ。
魔女の秘薬を蔑む時に、人がよく使う表現だった。
ロゼはこれまでに何度か、そういった類いの言葉を受け取ってきたことがある。
仕方が無い。魔法が使えない人間に、魔女の秘薬はたいそう胡散臭く感じられることだろう。
剣を操れないものが、剣を卑怯だと罵り、恐怖を覚えるのと同じ。
「ならば、切実に生きたいと死に抗う病人に、薬師の薬を渡すことを、貴方はためらいますか?」
「薬師の見立てと同じと申すか」
「私的には、なにも変わりません。心と体に特別な効果を与えるもの。それが、薬です」
ラウーはまた、戸惑ったように顔を歪ませた。
今にも泣き出しそうに、頬がひくつく。
「そして魔女にとっては、この庵にやってくるお方は皆、
大金持ちの、を心持ち大きな声で、じっくりと言い聞かせる。
ラウーはぷっと小さく吹きだした。大きな口を開けて「あはは」と笑う。
「そうか、
「ええ、もちろんです」
笑って欲しくて言った言葉だが、何故だか自分の狙いと外れたところを笑われている気がする。
ロゼが客に対して、これほど親身になることは珍しい。客にはドアも開けてやらないし、椅子さえ引いてやらないのがデフォルトだ。
だがラウーには、何かしてあげたいと思わせる、人を惹き付ける力があった。
うっすらと涙を浮かべるまで、思う存分笑ったラウーは、俯きながらロゼに話しかけた。
「妾はそなたの薬を欲した」
しっかりと、彼女の告白に込めた思い一つ取りこぼさないように、ロゼが頷く。
先ほど魔女の秘薬を糾弾した時、ラウーが拒絶したのは、魔女や、魔女の秘薬では無く、それを求める人間の心だった。
それが本人だということは、そう意外な事では無い。
「遠くないうちに、妾は嫁ぐ。遠くだ。ずっとずっと、遠い場所。もう二度と、この地を……ずっと、愛し、守り続けてきたこの地を! 踏むことは無いかもしれん」
胸の内に溜まった激情を、吐き出すかのような声だった。
気持ちの昂ぶりを制御するように、ラウーは口調を改めた。
「いずれ何処かに――家の為に征く心積もりはあった。だが、見積もりが甘いことは、往々にしてあるものだ。その内の一つが、今後の自分の全てを決めてしまう、
「――聞きましょうか?」
「ああ、聞いてくれ。妾は、誰かにきっと聞いて欲しかったのだ」
握りしめられた少女の手は、まだ女性らしいふくよかささえついていない。ロゼは自分の肩にかけていたローブを、そっとラウーにかけた。
「嫁ぐ相手は、四十も上の
茶目っ気を浮かばせる余裕が出てきたのか、ラウーは尖った八重歯を見せて笑う。
「……覚悟は出来ていると高をくくっていても、あちらでの生活を想像するだけで怖じ気付く。愛した家族も、友も連れて行けぬのなら、何か一つ、よりどころを持っていたかった――。そう。妾が欲したのは、魔女、そなたの作る――」
惚れ薬だ。
珊瑚色の唇が綴った言葉に、ロゼはぱちりと一度瞬きをした。
元々需要の高い薬ではあるが、近頃とことん、縁がある。
「ラウー様ほどの美貌があれば、魔女の秘薬も霞んでしまうでしょう」
「何、惚れさせるために使うのではない」
「え?」
「妾が、惚れるために、使うのだ」
「惚れる、ために?」
「妾さえ、男を愛していれば……あちらで何があっても、頑張ろうと思えるだろう? 友がおらずとも、家族に二度と会えずとも――何が起きても、何をされても、妾は笑顔で居続けねばならない。男を愛すことは、その拠り所となる」
暖炉の火が、ラウーの瞳をゆらりと揺らした。
擦り切れそうなほどに着古したロゼのローブに包まる小さなラウーの肩には、それほど重いものがのし掛かっているのか。こんな年で、そんな場所に嫁いでいかねばならないラウーにかける言葉が見つからず、ロゼはただ目を細めた。
「名を捧げても、体を捧げても、心だけは妾の自由に出来ぬ。だから、そなたを頼ったのだ。魔女よ」
ロゼは魔女だ。
魔女は国に属することはないし、教会で洗礼を受けることも無い。
だから、ロゼにとっての王も神も存在しなかった。
けれど今、ロゼは初めて、そういった存在に近いものの光を見た気がした。
人々が蔑み、自らの目的のために使う魔女の秘薬を――希望のように言ってくれたラウーに頼られたことが、心から誇らしく思えた。
「……光栄です」
「上出来だ」
心からぽろりとこぼれたロゼの言葉に、ラウーはにかっと笑った。
「あぁ。全て話したらスッキリした。こんな風に、心を開いて、人と話すことは初めてだったのだ。好きな道を歩いたのも、一人になったのも――初めてだ。昼はそれが珍しくて、しばしぼんやりしていたら、いつの間にか陽が落ちていた」
ラウーは晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
何をするにも一人で、いつも一人だったロゼとは対照的な生き方だ。
しかし、彼女の生き方を羨ましがるには、少しばかり事情を聞き過ぎてしまった。
茶でも淹れようと台所に向かうと、チリンと来客を告げる鐘の音がする。
また客だというのか。なんだか今日は随分と騒がしい日だ。
窓から、薄暗い森を覗き込む。客は有り難いことにランタンを持っていたので、すぐに誰だか知ることが出来た。
「ラウー様。馴染みのものが来たようです。断って参りますので、どうぞ室内で待たれていてください」
「馴染みの? わかった」
素直に頷いたラウーを残し、玄関の扉を閉める。
ロゼはランタンを持って小舟に向かった。
すると、森からロゼを見つけたハリージュが大きく手を振る。
「ロゼ! 出てきてくれて助かった。舟が無いからどうしようかと――」
「どうか落ち着いてください。申し訳ないのですが、本日は――」
「すまないが急を要するんだ。失せ物を探したりする薬や占いは無いか。道具や材料が足りないのであれば、すぐに――……」
突然夜中に押しかけてきてどうしたどうした、と唖然としているロゼにかまわず話し続けていたハリージュだったが、途中で言葉を失った。
一体今度は何があったのかと、ハリージュの視線を追うと、庵の玄関が開いている。
「おーい」
庵から漏れる微かな光に照らされた少女が、庭にぽつんと立っていた。
赤いローブをはためかせながら、手をぶんぶんと振っている。
「……ビッラウラ様っ」
きつく噛み締められたハリージュの歯の隙間から、怒りのため息と共に、聞いてはならない名前が零れた。
いくら国に属していなくても、住んでいる森の隣に建っている――言うなればお隣さんの――名前くらいなんとなく知っている。
それが王族ともなれば、尚更。
「……捜し物についてですが」
「すまない。必要なくなった」
そのようですね。ロゼはそっと、口を噤んだ。
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