第四章 マネキンになった魔女
第50話
「――ぎゃわああああああ!!」
とある日の朝早く。
まだ日も昇っていないような時間に、ロゼの悲鳴がアズム邸の廊下に轟く。
バサバサバサと、今まで聞いたことが無いような音を立てながら、魔女のローブが翻っている。
「おっ……とっ!?」
廊下を歩いていた執事のサフィーナの隣を、ロゼが凄い勢いで走り抜けていく。
大股で走るロゼの顔色は真っ青で、尋常で無い汗をかいていた。生きてきて、これほど懸命に走ったことは無い。
それほど必死に足を動かしていたというのに、現実とはかくも残酷なものである。
「わあああ?!」
ロゼは、後ろから追いかけて行っていたハリージュに、簡単に捕まえられた。猫の首根っこを持つように、ぶらんと空中にぶら下がる。
唖然とした顔でこちらを見るサフィーナに、せめてもの救いを求めたロゼは、慎ましやかな視線を送った。
だが、無情にもSOSは届かなかったようだ。サフィーナは持っていた書類に目を向けると「えーっと、次は何をするんでしたかな……」と呟き、そそくさとその場を立ち去ってしまった。
ロゼを肩に担ぎ直したハリージュは、そのままズンズンと廊下を突き進む。ぷらぷらと両手足を揺らしながら、去りゆくサフィーナが振り向いてくれることに一縷の望みをかけて、後ろ姿を見つめていたが……彼は最後まで振り向くこと無く、廊下の角を曲がっていった。
――現在の状況はともかく、思いが通じ合っているとわかってから、ハリージュはまるで恋人のようにロゼを扱った。
いやこれまでも正真正銘の恋人だったのかもしれないが、ロゼはやはり、ハリージュの言うとおりどこか気持ちが追い付いていなかったようだった。
ロゼにとって、長年ハリージュを好きなことはデフォルトでも、ハリージュから好かれていることはデフォルトでは無かった。
同じ思いをハリージュが抱いていると認識はしていても、実感は出来ていなかったのだ。
元々スキンシップに遠慮が無かったハリージュは、かのスキヤキ事変が起きてからというもの、比べものにならないほど堂々と触れてくるようになった。
だが一線を保たれた触れ合いは、猫がじゃれ合うように、甘く優しいものだった。
手を繋がれる度、足が触れ合う度、首を撫でられる度に、むず痒い羞恥と共に愛情も募った。
だけれどロゼは、このひなたぼっこのような居心地のいい恋愛ごっこが、ハリージュの懸命な我慢によって成り立っているのだと、全くこれっぽっちも微塵も知らなかった。
――バタン
ドアを閉める音が、ロゼの現実逃避を終わらせる。無言のまま自室に戻ったハリージュが、乱暴に扉を閉めのだ。
拘束を解かれたロゼは慌てて逃げ出す。
しかし未だかつてない全速力は、ロゼの足にダメージを負わせていたらしく、すぐに床にこけてしまった。
なのにハリージュは助け出すどころか、威圧的なオーラを放ちながら追い詰めてくる。
ロゼは匍匐前進で何とか扉まで逃げるが、ドアのところで捕まった。床に這いつくばっているロゼの両側に、ハリージュはダンッと力強く両手を突いた。
「ひぃっ!」
完全なる恫喝である。
盗賊団のボスだって、もう少しまともなゆすり方をするだろう。
ハリージュの方も見ることが出来ずにブルブルと震えるロゼの首に、暖かくて、酷く柔らかい何かが触れた。
それが唇だと理解したロゼは、一瞬で硬直する。熱いハリージュの吐息が耳にかかり、ロゼが叫んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい! 私に非があります。許してください! ごめんなさい!!」
***
――その日の朝も、ロゼはいつも通りの時間に目が覚めた。
夢見のよかったロゼはいい気分で、ベッドから下りる。そしてなんとなく、一枚の扉の前に来た。
この扉は、ロゼとハリージュの部屋を繋ぐものだ。
将来夫婦になることを見据え、ロゼはこの部屋を与えられていたのかもしれない。ハリージュとの続き部屋に、えも言えぬ喜びが湧く。
ロゼは扉の鍵を回し、開けた。
開いた小さな隙間から、こっそりとハリージュの部屋を覗くと、彼は既にもう起きていた。
「――起きたのか」
驚いた顔をして、こちらを見ている。デスクに座り、何か書き物をしていたようだ。
「はい」
「どうした。何か用事か?」
「お邪魔しても?」
ロゼの問いは、二人の関係が変化していることを如実に表していた。
以前ハリージュに「入るか?」と尋ねられた時、ロゼは二人の関係が変わってしまう気がして、ほんの少し恐ろしかった。ハリージュが頑なにロゼの部屋に足を踏み入れなかった理由が、今ならわかる気がする。ロゼが婚約者としてでは無く、食客として居座ると言ったぐだぐだ魔女のままだったからだ。
「――ああ。上着を羽織ってから、来るといい」
ハリージュは口の端をあげると、柔らかい声で許可を出す。
ロゼは部屋に戻りショールを手にして、ハリージュの部屋へと渡った。本人にはもうばれているのに、誰かに内緒にするかのように、ほんの僅かに足音を気にしながら。
「おはようございます。近づいてもかまいませんか?」
「かまわない」
椅子に座るハリージュの元に、ロゼは近づいた。
近づきすぎれば書き物の中身を目にするだろうと配慮したロゼに、ハリージュは自分が何をしていたのか、見やすいように体を避けてくれる。
「結婚を知らせる手紙を書いていた」
「知り合いが多いと大変ですね。今日はお仕事はまだなんですか?」
「ああ、まだ大丈夫だ」
「そうですか」
沈黙が流れる。だけれど、ロゼはこの沈黙が嫌いではない。
「後で伝えようと思っていたが、今夜客が来る」
「では、席を外した方がいいですね」
「いや、いてくれ」
魔女の自分がいるのはあまり喜ばしいことではないだろうと辞退したロゼを、ハリージュが引き留める。
人のしきたりでひしめく屋敷のことは、全てサフィーナが仕切っている。
そのため、アズム夫人でも無いロゼが招待客をもてなすことは無いと思っていた。
「……私も、ですか」
人の習わしに疎いことは、折り紙付きである。その上、引きこもりの顔見知りには、そういったことには若干の時間を有する。
そう、せめて十日ほどくれていれば、ロゼとてさすがに心の準備ぐらいは出来ていただろうに。
「あんたも見知った顔だ」
まさかまたあの無礼王子では無かろうな、とロゼは顔をしかめるが、ハリージュは何も言わなかった。
一般的なお嬢さんと同じように、ロゼが来客を喜ぶとでも思っているようだ。
大金を抱えた客なら好ましいのにな。とロゼは心で洩らす。
なんとなく弄ぶように、桃色の毛先を摘まんだ。そういえば、髪を櫛でといてもいなかった。今さらながらに思い出し、ロゼは手ぐしでときながら、ハリージュの背後に回る。
ハリージュの背中を見ていると、無意識に体が動いた。寄りかかるように、大きな背中にくっつく。
二の腕から感じるハリージュの背中は、先ほど夢で見たままに暖かい。
ロゼは人知れず、口をヘにゃりと綻ばせる。
「……ロゼ?」
後ろを振り向けばロゼを落としてしまうため、微動だに出来ないのだろう。ハリージュの声は酷く困惑気味だった。ロゼはまたそれも面白くて、肩を揺らして笑う。
「――ご機嫌だな」
「夢を見ました」
「どんな」
「ハリージュさんが、おぶってくれていた時の夢です」
ロゼが、ハリージュと初めて街に出かけた時のことだ。
はしゃぎ疲れ、帰りの馬車で眠ってしまったロゼを、ハリージュが背負って庵まで連れて帰ってくれた。
その時に、街の人と触れ合い「ハリージュさん」と呼ばれる彼の姿を見て、ロゼはこの屋敷へ来ることを決めた。
「嬉しかったんです。とても、久しぶりだったから」
「――誰に背負われたことが?」
何故か緊張して尋ねるハリージュに、ロゼは首の力を抜いて、こてんとくっついた。
「おばあちゃんです」
「……そうか」
ほんの少しだけ安心したような、だがかなり脱力したような声だった。しかしロゼは頓着しなかった。
いい夢を見た上に、その背中はこんなに温かくて、懐かしくて、そしてロゼの手に届くところにある。こんな幸運を、ロゼは手にしているのだ。嬉しくて仕方が無かった。
ロゼは体の向きを変えると、ハリージュの首に真正面から抱きついた。
硬直したハリージュに気付くことなく、ロゼは思うままに、夢見心地のとろけた声と吐息をハリージュの耳に注ぎ込んだ。
「もっと触れててもいいですか?」
なんてことを言ったばかりに、死に物狂いの追いかけっこに負けたロゼは、壁ドンどころか、床ドンに近い状態で、ハリージュに迫られていた。
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