第四章 魔女と約束の惚れ薬

第15話


「お待たせ致しました。お約束の薬が完成致しました」


 事務的な声色と顔つきで、ロゼは深々と頭を下げた。

 自分でドアを開けるようになったハリージュが、ドアノブを持ったまま、玄関で足を止める。


「こちらがご依頼いただいておりました、惚れ薬です。ご確認をお願い致します」


 ローブの隙間から、小さな瓶を取り出した。

 真っ白な両手に載せ、すいと突き出す。


「伝統的な方法にしたがい、特別な調合で、確実な魔法によって作られました。心と体に強く刺激を与えるため、性的欲求を高める効果もございます」


 後ろ手でドアを閉め、眉をつり上げたハリージュに、慎重に言葉を続ける。


「とはいえ勿論、媚薬効果は副産物です。惚れ薬を飲まされた相手は半日の間、飲ませた相手を愛しく思います。心の底から、骨の髄から、魂の根幹から愛した結果、人間が本来持つ欲求が膨れ上がり、性欲の抑制欠如――」


「わかった、わかった。それ以上その話題はいい」


 ハリージュはどこか焦りつつ、ロゼの差し出していた薬を受け取ると、いつもの席に腰を下ろす。

 今日も持ってきていた手荷物を、遠慮無くテーブルの上に置く。


「半日と言ったな。期間はそれほどに短いのか」

 待ち望んだ薬が手に入るというのに、ハリージュはさほど喜んだ顔ではなかった。


 効能がお気に召さなかったのだろうか。確認しもせず、こんな高価な薬を頼むからだ。ロゼはこっそりとへそを曲げた。


「先ほど言ったとおり、半日の間、使用されたものは使用したものを、世界中の誰よりも愛します。恋い焦がれた憧れの君よりも、長年連れ添ったパートナーよりも、血を分けた兄弟よりも、日夜教えを請うた師よりも、乳を含ませている我が子よりも――そんな記憶が、永遠に残ります。心に、体に、一生消えない染みとなり、存在し、成長し続けるのです」

「なるほど……使用方法は?」

「惚れ薬を、使用者の体液と摂取させてください。自分が口を付けたグラスに薬を落とし、相手に飲ませる方法が一般的ですね」

「わかった。今後、誰かから差し出されたグラスは、絶対に受け取らないことにする」

 ハリージュが冗談を言って笑った。

 今日初めて見られた笑顔だったので、ロゼは臍を曲げていたこともコロッと忘れて、嬉しくなった。


 だって、ハリージュと会えるのは、今日で最後なのだ。


 この四年、一度だって偶然街で出会うことはなかった。

 ならばこれからだって、もう二度と偶然街で会うことは無いだろう。


 ロゼは彼との決別の覚悟を持って、ここに立っている。

 きゅっと唇を引き結んで気合いを入れると、ロゼは戸棚をごそごそと漁る。


「もし効能がご心配でしたら、砂時計一回分だけ効く、こちらのお試し用のサンプルで……」


「なんだ。飲んでくれるのか」


「え?! 私が飲むんですか?!」


 あまりにも驚きすぎて、ロゼはローブを踏んづけてつんのめりそうになった。持っていた極小の小瓶をぎゅっと握りしめる。


「俺が飲むはずがなかろう」

 さも当然のように言われる。確かに、これから誰かを惚れさせようとしている人間が、試しに他の誰かに恋をするのは変だ。


 さすがに、心に作用する薬の被験者になれと言われたのは初めてだった。

 ロゼが嘘をついていては、薬の効能を確かめられないからだ。


 確かに、ロゼが嘘をつけないと知っているハリージュにしか、確かめられない方法だろう。


「まぁ、いいですけど……。どうせ私には、あまり意味もないですし」


 既にハリージュを好きなロゼが、ハリージュを好きになる薬を飲んだところで痛手はない。むしろ、薬を飲んだロゼを見て、効能を確信できればいいのだがと、不安になる始末だ。


「なんだ。魔女の秘薬は、魔女には効き目がないのか?」

 そういうわけではないので、ロゼは薬を用意する振りをして返事をしなかった。


 カップを用意するロゼの手先を、ハリージュも興味深そうにしげしげと見つめている。

 いつもの手順なのに、緊張から手元が狂いそうになる。


 ようやく淹れ終わった紅茶を、ハリージュに渡すと、彼は一瞬訳がわからないと言った風に小首を傾げた。


「なんだ?」

 なんだと言われても。惚れ薬の使用方法は説明していたはずである。


「唾液を摂取させていただかないと……」

 ロゼが気まずそうに告げると、ハリージュはやっと事の次第に思い至ったようだった。どうやら、ロゼが惚れ薬を試飲した場合、惚れられるのが自分だとは思っていなかったようだ。


「なるほど」

 ハリージュはカップを受け取り、さして迷いも無く、くいっと飲んだ。

 このお貴族様にとって、年頃の少女に惚れられることなど、日常茶飯事なのだろう。全く女の敵である。


 対して、照れたのはロゼだった。ロゼの手に戻ってきたのは、好きな人が口付けたカップ。


 これは早く終わらせてしまわねば、無表情を貫くことが厳しくなってくるだろう。

 惚れ薬を二滴だけ飲みかけのカップに入れる。

 砂時計を無造作にひっくり返すと、ロゼは無心で紅茶を飲み干した。





 自分の失敗に気付いたのは、カップの底を見た瞬間だった。


「魔女殿?」


 ハリージュの声がする。

 低くて、甘いその声は、耳の産毛までもを撫でるようだった。


 自分の手腕を、魔女の秘薬を、舐めていたわけではなかった。


 ただ、既に恋をしている相手に、これほどの恋情をさらに募らせるなんて、思ってもいなかったのだ。


 ――なんて、素敵な人なんだろう。


 抑えていた気持ちが溢れる。


 ――魔女なんかを気に掛けて、いつも優しくしてくれて。


 いつもなら、心に蓋をしていた気持ちだ。彼の前では見て見ぬ振りをしていて、一人の時にこっそりと思い返しては、淡い片思いに満足する。

 そんな気持ちを、今は薬のせいで剥き出しにされてしまっている。


「どうした」

 ロゼに変化が無いことを不審がっているようだった。


 だが、そんな声さえロゼを溶かす。

 愛しさに頬が緩みそうになるのを、抑えられない。


 薬は買って貰わなくてもかまわないが、駄目な魔女という烙印だけは押されたくない。

 彼に、魔女であることを見損なわれたくなかった。


「こちらを向け」


 向けるはずが無い。

 こんなの、隠しようが無い。


 薬が効いてることをわかってもらわねばならないのに、顔を見ることが出来なかった。ロゼはフードを深く被り直すと、端を持ってぎゅっと顎までひっぱる。


 ――好きだなんて、絶対に言いたくない。


 望みの無い恋を伝えられるほど、ロゼは無邪気でも、若くも無かった。

 ただ傷つかないように、自分を必死に守ることしかできない。


 ――薬のせいだと開き直ればいいのに、そんな度胸もない。だって、本当に好きだから。


「向けと言っているのに、隠れるな」


「い、いやです」


 無様なほどに、声は掠れ、震えていた。


 その声に驚いたのだろう。無理矢理顔を上げさせようとしていた、ハリージュの手がピタリと止まった。


「あー……そうか」

 酷い沈黙だった。あまりにも無残な時間が流れる。砂時計の砂が流れる、微かな音さえ聞こえてしまうほどの静寂だった。


 ロゼは顔どころか、耳まで真っ赤になっていることが、火照った体からわかっていた。じっとりと、全身が汗ばむ。少し動くだけで、お腹の奥が物欲しげに疼く。


「というと、今の魔女殿は、その。俺の事が好きなのか?」


 ――なんてことを聞くんだ。


 信じられなかった。馬鹿か? 馬鹿なのか? いいや、馬と鹿に申し訳ないほどに、彼は最低のクソ野郎に違いなかった。


 ほんの少しの時間とは言え、自分のことを好きになった女の子にかける言葉ではない。特に、ロゼに限っては長年片思いしていた相手だ。


 なんてデリカシーのない大クソ虫野郎なんだと心で毒を吐き続けても、ロゼの出せた答えはこれだけだった。


「……はい」


 四年間の片思いを伝えるには値しない、なんて情けない返事。


 弱々しいその声は、静寂に負けて、消えてしまいそうだった。


 けれども、悔しさと愛しさを抑え込んで、精一杯振り絞った返事は、ハリージュまで届いたらしい。


 彼が息を呑む気配を感じた。

 こんな馬鹿な質問をするくらいなのだから、彼もいつになく、動揺しているのかもしれない。


 いや、ハリージュにとっては効果の程が大事なのだ。

 ロゼが彼を好きかどうかは、何を置いても確認したいことだろう。


 いいや、それでも。やっぱり大クソ虫ウンコ野郎だとロゼは叫びたい。


 しばしの沈黙の後、ハリージュがそっと声をかけてきた。


「触れるのは、嫌か?」

 とても声を出せる質問ではなかったので、ロゼは首を大きく横に振って答えた。その予感だけで肌が粟立ち、彼の指先を今か今かと待ち望んでいる。


 ロゼの答えを確認すると、ハリージュは一国の王女に触れるかのように慎重に、ロゼの腕に触れた。

 そして優しくリードして、ロゼを椅子に座らせる。


 ロゼが戸惑っていると、両手をフードの端からそっと外される。触れられた場所が痺れるように疼いた。口が渇き、無意識に舌先で唇を舐める。

 ずっと強く握り込んでいたせいで、手の筋肉が痺れるように震えていた。


「すまない。この薬を飲んだことで、体に負担はあるのか?」


 かじかんだ手を見て、ロゼはようやく自分が酷い緊張状態にいたことを知った。そしてそれを、ハリージュが案じていたことも。


「……ありません。ただ、切ないだけ」

「切ない?」


 今まで聞いたハリージュの声の中で、一番優しい声だった。


 泣いている子供を慰めるような、手のかかる妹の我が儘を聞くような、そんな愛に満ちた声に感じる。

 背筋が震えた。快楽ともいえる甘やかさが流れ込んでくる。

 嬉しさと切なさがロゼを貫き、あまりの衝動にロゼは涙をぽろりとこぼした。


「貴方には、好きな人がいるから」


 堪えていた言葉は、涙と共にぽろぽろとこぼれ落ちる。一度堰を切ると、もうダメだった。あぁ、好きだ、好きだ、好きだ、好き。

 涙に隠れて、我慢していた愛が溢れ出る。


 ハリージュが、慌ててハンカチを取り出す。

「どうしてそう思う」

「だって、惚れ薬を買いに来たでしょう?」


 ぎゅっと目頭に力を入れる。泣いているせいで鼻声になり、まるで甘えているような声だった。


 こんな自分を見せたいわけじゃなかった。

 唇をぎゅっと噛む。嗚咽が、唇の隙間から漏れていく。


 途方に暮れたような顔をして、ハリージュはロゼの涙をハンカチで拭った。


 優しい腕に縋り付きたい、ただ本能のままに彼に抱きつきたい、少しの隙間だって埋めたい。


 触れて欲しい、抱きしめて欲しい、口付けて欲しい。


 だけど、そんなこと、言えるはず無い。

 精一杯の自制心で堪えたロゼは、大きく首を振る。


「やだ、やめて。優しくしないで。期待させないで」


「なんっ……! だいたい、この薬は――」


 ハリージュは言葉を止めると、ぐっと歯を食いしばった。

 握り拳を作って何かに耐え、真剣な面持ちでロゼを見つめる。


「わかってほしい。これは、俺が使うものではない」


 ロゼは心から驚いて顔を上げた。

 林檎よりも赤くなった頬が露わになる。涙に濡れた瞳は、ただ見つめるだけでも、熱くとろけた眼差しだ。

 身のうちを焦がす恋を閉じ込めた視線を送られたハリージュは、息を呑んだ。


「そ、うなの?」


 きょとんとしたまん丸な目から、涙が転がる。

 濡れたロゼの目に映ったハリージュが、苦笑した。


「そうだ」

 心が乱れているロゼにしっかりとわからせるためか、ハリージュが強く頷く。


 いつの間にかハリージュが、ハンカチを持っていない方の手で、ロゼの頬を覆っていた。手の平が触れている場所が、じんじんと熱を送る。鼻腔をくすぐるのは、嗅ぎ慣れないハリージュの香り。

 ロゼの心のもっと奥が、ずくりと疼く。


 ハリージュの太くしなやかな親指が、ロゼの目から流れる涙を拭った。


 言いようのない喜びが、波打つようにロゼに押し寄せてくる。


「……嬉しい」


 ハリージュを見上げながら、ロゼはふにゃりと笑った。

 赤らんだ頬が、形を変える。


 体重をハリージュの手の平に載せると、その手を掴んで、唇を寄せた。心から溢れ出る喜びのままに、ちぅと小さく吸う。

 あたたまりきった唇は柔らかく、涙で濡れてしっとりと潤っていた。唾液が滑る感触が面白くて、唇の内側の柔らかい場所で、ハリージュの手を味わう。

 ハリージュの手の甲に歯を当てる。何かが少し満足したかのように、ロゼの中が震える。


 ロゼが、弄んでいたハリージュの手から顔を離した。名残惜しげにハリージュの手を指先で撫でながら、潤んだ瞳で見上げる。

 ハリージュは何処か、呆然としてこちらを見ていた。


「ハリージュ様」


 彼の体が緊張に固まる。


「どうか、一度だけでも。ロゼ、と」


 長年の訓練を思わせるハリージュの硬い手が、愛おしい。ロゼは目尻を彼の手に擦り付けながら、懇願した。

 信じられないほどに、自分の声が甘くとろけていた。こんなはしたない真似をと思うのに、自分の意思ではもう抑えられない。


「……呼んでも、いいのか」


 ハリージュの喉仏が上下する。

 欲望の望むままに、ロゼは微かに頷いた。

 密着したハリージュの手に、ロゼの肯定が伝わる。


「――ロゼ」


「はい」


「ロゼ」


「はい」


 吐息だけの笑みがこぼれる。目尻はすっかり、とろりと溶けきっている。


 恍惚とした表情でロゼが見上げていると、ハリージュの体がふいに動いた。


 ハリージュは、ロゼが抱き込んでいた手の向きを変え、ロゼの顔を持ち上げる。また頬に触れられ、ロゼが喜びから、細く震えた息を吐き出す。


 甘やかな心地を甘受しているロゼに、ハリージュがゆっくりと顔を寄せた。


 濡れた吐息が重なる。


 お互いの唇が触れ合いそうになる、その時――



「ご満足いただけましたか」



 ハリージュの唇を、ロゼの手の平が覆っていた。



 いつもの、無表情を貼り付けたロゼの、冷静な声が庵に響く。


 砂時計の最後の一粒が、そっと下に流れ落ちていた。





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