第20話


「……だからって、もう来たんですか」

「すぐに来ると言っただろう」

 むすっとしているのは、つい先ほどラウーを送って帰ったハリージュだ。

 別れてから、時間はさほど経っていない。


 夜の客は珍しくないとは言え、流石に驚いた。

『またすぐに来る』の、またがいくらなんでも早すぎる。


 それほど急ぐ用事が、何かあったのだろうか。

 この頃はいつも昼に来ていたし、城から森の外れまではやはりそこそこ距離がある。


「ラウー様は……」

「送り届けてきた。騎士は俺だけではないし、あとは任せている――それよりも、本当に迷惑をかけた。保護して貰えて助かった。心から、感謝する」

「いえ。私にとってもお客様ですから」

「すまない。もう抜け出すことは流石に無いと思うが……いや、これまで一度だって、あのお方はお転婆など、されたことはなかった」


 だからこそハリージュは、あれほど血相を変えて探していたのか。日頃、品行方正なものほど、思い切りがいいと聞く。

 まさか彼女が護衛の目を掻い潜って、城から抜け出すなど予測さえしていなかったのだろう。上を下への大騒ぎだったに違いない。


「それより、こんな時間から何処かへ出かけるのか?」

 ぽけっと突っ立ってハリージュを見上げていたロゼは、自身の格好を思い出した。夜の森の寒さに負けぬよう、冬毛の熊のようにパンパンに着ぶくれている。


「えぇ、はい。これから湖に……」

「こんな夜中に?」

 怪訝な顔をしたハリージュは、さっとロゼの足下に目をやった。不思議に思い、ロゼも足を見下ろす。


「……替えのブーツは、あるようだな」

「失礼なことをおっしゃりますね」

「仕方が無いだろう。以前、ローブは――」

「あれはっ……!」


 ハリージュがいるとも知らずに、のうのうと湖で泳いでいた自分の失態を思い出す。瞬時に顔を赤らめたロゼは、言葉が続かずに、わなわなと唇を震わせる。


「わかった、わかった。普段は忘れている。ただ慌てていたせいで、先ほど借りたブーツを持ってくるのを忘れて。一足しか無いのであれば、寒いだろう?」

 ハリージュに身の回りのもの、特に衣類の心配をされたことが、ロゼの羞恥を更に煽った。


「ご心配くださらずとも、替えの衣類ぐらい、送ってくれるものがおります」

 カッとなって、強い口調で言い切る。

 薬を飲んでからというもの、感情が素直になりすぎだ。ハリージュ相手には、あまり上手く無表情が装えなくなっていた。


 送ってくれるのは、もちろんティエンだ。

 ロゼにそれ以外の親しい知り合いは皆無と言って良い。


 ティエンは旅をしながら行商しているため、こちらに寄れない時もある。そんな時でもロゼが便りを出せば、何処にいても必ず、必要なものを送ってくれる。


「……その服や靴も、贈られたものなのか?」

 先ほどまでの気安い雰囲気を消したハリージュは、何故かしかめっ面を浮かべている。


 突然の変化について行けずに、ロゼはまごついた。

 ロゼの強気な態度に臍を曲げるほど、狭量な人では無かったはずだ。それとも、魔女の購入経路でも怪しんでいるのだろうか。違法なことはやっていない。はずだ。多分。おそらく。


「先ほどラウー様に差し上げたアザラシのブーツは、送られてきました、けど」

「差し上げたと言ったな。ではあれは、こちらで預からせてもらう」

「ええ、はい。まあ、それは、どうぞ」

 元々そのつもりで王女の足を守らせたのだ。

 惜しくは無いが、ハリージュの物言いがつっけんどんなままなのが気になる。

 しかしそれ以上何かを言うつもりはないようで、ロゼは苦し紛れに夜の闇を指さした。


「それで、えーっと……ついてきますか?」


 ランタンを持ったままだったハリージュが、大きく頷いた。




***




 ハリージュを連れて、夜の湖に舟を出す。

 木々に囲まれた細波一つない湖は、まるでインク溜まりのように真っ黒だ。慣れぬハリージュには、今が何処に浮いているかもわからないだろう。

 自分が漕ぐと言ったハリージュを座らせて、ロゼがオールを持って立っている。

 繊細なオール捌きで、目的の場所まで舟を泳がせた。


「ここです」

「ここに何が……」


 あるというのか、そう言おうとしたハリージュは口を噤んだ。今まで雲に隠されていた月が、そっと顔を覗かせていたのだ。空と湖の両方で輝く月は、丸く輝いている。


 湖面に月の道が出来ている。その道を寸分違わず通った小舟は、輝く月のもとで止まった。

 懐から小瓶を取り出したロゼが、小舟から腕を伸ばして、月を掬う。


「惚れ薬の材料なんです。企業秘密なので、内緒にしてくださいね」

 ロゼが、誰にも聞かせないようにそっと囁く。

 掲げた小瓶の中では、掬い取られた月の光がまだキラキラと輝いている。


「綺麗でしょう」


 ゲテモノばかりの、魔女の製薬素材の中でも、月の光は一等美しい。

 瓶を顔に近づけ、間近で眺める。うっとりと呟いたロゼを見て、ハリージュも頷く。


「……ああ」


 同調された事が嬉しくて、ロゼは夜の湖でこっそりと笑った。




***




 庵に戻って、光と水を分ける作業に取りかかる。

 鮮度が命だ。ハリージュのことなど構っている余裕は無い。

 魔女の大釜コールドロンをかき混ぜていると、熱い視線を感じた。無視をし続けていたのだが、一度気付いてしまえば忘れたふりをするのは難しい。

「そんなに見ないでください。手元が狂います」

「帰れ」とは言えない自分が情けなかった。魔女は本心では無い言葉は、口に出せない。


 ハリージュはロゼの真剣さを感じ取り、そっと視線を逸らしてくれた。


 というのに、続く沈黙に耐えきれずにロゼがまた口を開く。


「黙られると、緊張します。何か話しててください」

「存外、面倒なやつだな」

 がーんと思っても、心には出さない。


 ぐるぐると、釜をかき混ぜ、浮いてきた光をくるくるとスピンドルに紡いでゆく。


「……魔女の魔法を見るのは初めてだ」

「人に見せるメリットはありませんから」

 面倒だと言ったくせに、ロゼの言うとおりにしてくれたハリージュに、視線も向けずに返事をする。


「――そうか。……そういえば、客が訪ねてくるのが、ロゼにはわかるのか?」

「何故です?」

「いつも窓から覗いているだろう」

「気付いていたんですか」

「当然だ」


 細々とした糸のような光となって、紡がれていく月の光。

 手に纏わり付きそうな光を、慣れた手つきでスピンドルに纏わせる。


「目がいいんですねえ……森に誰かが来ると、そこの柱にくくられている鈴が鳴るように、ご先祖様が魔法をかけてくれているんです。偶に、獣が来ても鳴りますけど」

「……以前、森の岸に客が来るとわかるようにしてあると言っていたものか?」

「……」

「……ロゼ。聞いているか?」

「すみません。真剣なので話しかけないでください」

「おい」


 結局、ロゼがハリージュに返事が出来るようになったのは、作業が終わってからだった。


「……それで、なんでしたっけ」

 スピンドルを大きな硝子瓶に仕舞いながら、ハリージュの方を向く。彼は、自分でここまで持ってきた椅子に座り、呆れたような顔をしてこちらを見ていた。


「――あんたがマイペースなのを、思い出させてもらったよ。ありがとう」

「どういたしまして」

「……それで、鈴はいつまで鳴るんだ?」

「いつまで、とは?」

「……まさか、こんな真夜中は鳴らないだろう?」

「こんな時間まで居座っているお客様が、それを言いますか」


 今度呆れたのはロゼだった。

 一体何の用があって、こんな時間までいるのかはしらないが、もう驚くほどに夜は深い。日はとうに変わっているだろう。


「鳴りますよ。朝でも、昼でも、夜でも。それに、魔女を訪ねてくる人は夜に多いですから。すぐに起きれるように体も慣らしています。この辺に住んでる魔女は、もう私だけですから」


 暗に長居していることを責められたハリージュは、居心地の悪そうな顔をしていたが、徐々に表情をかたくしていく。


「では何年も、まともに寝ていないというのか?」

「寝てはいますよ。起きられるようにしているというだけで」

「それをまともに寝ていないと言うんだ」


 ガタン、と音を立ててハリージュが椅子から立ち上がる。

 常に貴族然としているハリージュが、そんな無作法な真似をしたのは初めてだった。


 驚いているうちに、ロゼは手を掴まれる。大きな手の平が、ロゼの枝のように細い手を引く。


 魔女の庵は狭い。部屋はドアで区切られておらず、寝室も、衝立で隠したスペースに、ちょこんと小さなベッドがあるだけだ。

 先ほどラウーを座らせていたそこへ、担ぎ込まれる。


 ドサリ、と音を立てておとされた。


「寝ろ」


「なっ――?!」


 びっくりして起き上がろうとすると、上から塞ぐようにハリージュが覆い被さってきた。一瞬でロゼは固まる。ベッドに肘をついたまま、微動だにできなくなる。


「寝るんだ」


 予想もしていなかったハリージュの行動と、あり得ない構図に、ロゼは目を白黒とさせる。


「こんなに細い体で飯もろくに食わず、毒にもなるような薬を扱ってるくせに、夜もろくに寝ていないだと……?」


 真っ向からの正論に、ロゼは目線を下げた。

 額がくっつきそうなほど、ハリージュとの距離が近い。


「けど、それは、でも、騎士であるお客様も――」

「俺達には代わりがいる。休暇もある。だが、あんたはいつも、一人で――」


 ハリージュが言葉を止めた。

 ようやく今が、どういう姿勢か理解できたようだった。


 ロゼは、ハリージュの目がゆっくりと見開かれていくのを、至近距離で見つめていた。ハリージュの長い睫に縁取られた瞳の中に、自分が映っている。

 薄紅色の髪をした魔女は、驚きと混乱で涙を滲ませ、唇を震わせている。


「……」


「……」


 互いに沈黙を守った。それは非常に賢明な判断と思えた。


 数秒後、ハリージュは、獰猛な獣を前にしたかのように細心の注意を払って身を引いた。

 ほんの少しでも重心がぶれてしまえば、世界が滅亡するとでも言いたげなほどの、慎重さだった。


 ベッドに横たわるロゼの上に、膝立ちで乗り上がっていたハリージュの両足が、床についた。


 世界滅亡の回避を確認し、二人同時にため息を漏らす。


「……今の今では説得力が無いかもしれんが、寝ている女性に手を出すような、卑怯な真似はしない。誓う」

「……それは、わかっています。心配していません」


 神妙に言ったハリージュに、こくこくこくと小刻みにロゼが頷いた。ハリージュのこめかみがピクリと一度だけ動いたが、ロゼの態度には概ね満足したようだ。


「なら、眠れ。来客があれば、鈴が鳴るのだろう? そうすれば、舟で迎えに行く。心配いらない」


 きっと考えることは、沢山あった。

 彼の前で眠るような無作法はできないし、ラウーのことがあった後で疲れているだろうハリージュに、そこまで甘えられない。それに、ここでまた彼に頼ってしまえば、一人で過ごす夜が苦しくなる。


「何も考えず、安心して眠れ」


 だけど、心の奥底まで染み入るような、体全身にゆきわたるような優しい声が、ロゼの瞼を撫でた。


 湧き出る安堵に逆らえず、ロゼはそのまま、夜の旅に舟を出した。





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