第一章 ③
そこは、正確に言えば屋上ではなかった。ビルの建設が途中で打ち切られ、天井を造って貰えなかった階層が雨風に晒されてしまったのだ。そして、今は地獄へと化していた。
恢は両手を空にして〝それ〟を眺める。彼の後ろに立つレミリアは吐き気を堪えるかのように口元に右手を当てていた。だが、それでも鼻孔を抉るのは酷い悪臭だろう。生ごみを炎天下に放置して豚の糞尿に混ぜても、ここまで劣悪にはならない。
肉片を彩る鮮血の鉄錆、垂れ流れる胃液の酸っぱい臭い、擂り潰された脳味噌の生臭さ、破れた腸から零れる糞や尿、焦げた皮膚の臭い。様々な臭いが混ざり合い、凄惨な光景に横たわる狂気を加速させてしまうのだ。
広い部屋あるいは屋上に人間の破片が無数に散らばっている。少なくとも、ここに十人以上がいただろう。千切られた頭部、白濁した眼球、壁に張り付いた手足、血管、砕かれた骨の残骸。濃密な死が逃げ場を失って溜まる一方だった。元は悪人だから苦しんで当然。そう考えることすら馬鹿らしくなるような光景を前に、恢は黙って煙草を吸う。コンクリートの灰色に赤や肌色、黄緑、黒、クリーム色、色々な死が醜く豪快に模様を描くのだ。今にも、死した者達の悲鳴が耳に届くかのよう。そうして、まだ〝事件〟は終わっていない。
「出来るものなら、どこから取り寄せたのか聞きたかったな。これだけ上等な物は、滅多にお目にかかれない」
部屋の中央に、ジェラルミン製のケースが転がっていた。鍵は外され、潰れた蝶のように開いている。中身が半分、零れていた。それは、人間の心臓を葡萄のように繋げたようにしか見えない〝何か〟だった。模造ではない。しっかりと脈動しているのが視認出来る。
心臓葡萄が脈動する度に、周囲の魔力密度は高まっていく。廃ビルを一つの異界と化し、内部にいた人間を魔物が食らい、栄養源としているのだ。それは、食虫植物の行動と良く似ていた。
煙草の煙が彼にとって唯一、自分が自分である空間を作ってくれる。日常の匂いが傍にあるからこそ、理性が保てる。
「自己魔力補完式の『魔女の道具』か。この糞ったれども。この街に地獄でも造る気かよ」
後頭部をガリガリと掻き、恢は毒づく。
こんな事件、専門家を呼んでほしいものだ。
ああ、それは自分か。と、恢は煙草を咥え直す。
「最後に見た時よりも酷いわね。あれ、どうにかなるの?」
レミリアが寒さに震えるように声を掠れさせる。
恢は火球を生み出し、そこへ右手を突っ込んだ。
「……どうにかなるじゃない。どうにかしないといけないんだ」
苛立ちと怒りが腹の底にどす黒い熱を生む。恢の右手が構えるのは、三五七マグナムを扱う回転式拳銃界のロールスイス。コルト社のコルトパイソン。クラシックな木製のグリップで、そのボディは熟練工の手作業で製造と調整が施されており、高級品である。
全長約二百四十一ミリ、重量約千百グラム。装弾数六発。銃身の上部には弾丸発射時の熱で起こる陽炎を防ぐための冷却装置、ベンチレイデッド・リブが備わっている。また、発射時の反動を抑えるためにエジェクター・ロッドを収めるシュラウド部分をもう一つの銃身のように伸ばし、故意に銃身を重くしているフルラグ銃身だ。
撃鉄を起こす。それは、僅かな音だった。しかし『魔女の道具』は見逃してくれなかった。心臓葡萄を黒い霧が多い、さらに増大。中から跳び出したのは、赤い幻影。業火を纏う豹のような怪物が恢へと迫る。
引き金を絞る指が止まる。咄嗟に、左手が動く。コートの内側から引き抜いたのは、水が入った試験管だった。コルクを抜かず、手首のスナップだけで炎豹へと投げつける。
硝子は砕け、中身が地獄の炎に飲み込まれる。大さじ三杯分にも満たない微々たる量だ。鋼鉄さえ融かす高熱を前に、文字通りの焼け石に水――のはずだった。
あれだけ轟々と燃えていた炎が内側から溶けるように消滅する。豹の動きが不自然に停止する。恢はコルトパイソンを向け、引き金を優しく絞った。
腕に鋭い衝撃が走る。発砲の反動を利用してスライドが後退するワンクッションがある自動式と違い、回転式は反動が手に刺さるのだ。
だが、フルラグ機構だからこそ片腕で御せる。全弾六発を全て、豹へと打ち込んだ。音速超過のホットロード式三五七マグナム弾が魔物の上半身をポップコーンのように吹き飛ばす。恢の後ろに立っているレミリアには、肉片一つ、当たらなかった。
これで、魔物の数は一体減り、十体増えた。心臓葡萄が、恢を脅威と認識したかのように脈動を高める。ジェラルミンケースが上下に撥ねるほど暴れ出す。
二首の鰐。腐った熊。巨大な狼。有象無象の魔物が黒い霧から次々と生み出されるのだ。レミリアが短い悲鳴を上げ、カチカチと歯を鳴らす。小さくて面白い音だった。
「ちょ、ちょっとちょっと! これ、貴方一人で本当に勝てるの!? い、今からならまだ逃げられるわよ? ここは一時的に撤退するのも選択肢なんじゃないかしら?」
レミリアの提案を、恢は鼻で笑って一蹴する。
むっとするレミリアへと、恢は告げたのだ。
「時間がないよ。そろそろ、限界なんだ」
訝しむレミリア。恢は『魔女の道具』を睨みつけたまま、コルトパイソンを地面に投げ捨てた。
「異界化っていうのは、すぐに浄化しないと世界に傷が残るんだ。下手すると、ここら一帯に近付いただけで神隠しが起こるような現象が発生するかもしれない。だから、珈琲を淹れる時間さえ許されていないんだ」
魔物が心臓葡萄を護るように陣形を固めていく。恢はバニラフレーバーの香りを吐き出し、ゴキゴキと指を鳴らす。いち早く男に跳びかかろうとした魔物、鰐と鮫を足して一で割ったような怪物が突如、弾かれたように後退する。他の魔物も、今までの威勢はどこにいったのか攻めるのを躊躇っていた。まるで、恢と自分達の間に絶対的な溝があると、ようやく思い出したかのように。しかし、もう遅い。リリスの銃口は絶対に獲物を逃しはしないからだ。
その身体に充足するのは戦意と殺意。鋭利な刃のごとく研ぎ澄ましていく。
鍛え上げられるのは五感。恢は今、真っ向から世界に喧嘩を売っていたのだ。魔物へと、堂々と言い放つ。
「手前ら。この世界で遊びたいのなら、俺が遊んでやるよ」
彼の手によって引き抜かれたのは、散弾銃のイジェマッシ・サイガ12。散弾銃の機構としてポピュラーなポンプアクション式ではなく、ガス圧を利用した機構を持ち、突撃銃として有名なAK47に酷似した外見を持つ。
ロシア生まれで、AKシリーズの高い安定性を引き継いでいる。全長約千百四十五ミリ、重量約三千八百グラム。装弾数、八発プラス一。
突撃用散弾銃とでも呼ぶべきか。恢は膝を軽く縮め、思い切り地面を蹴った。敵の群れに肉薄すると同時に発砲する。
一発の銃声に九つの弾丸が乗る。ゆえに、銃声には嵐の欠片が込められたかのような禍々しさがあった。退魔式のダブルオーバックは掠めただけでも下位魔物の血肉を霧散させるだけの威力を持つ。ならば、その粒が群を成せばどうなるだろうか?
腐臭を漂わせる半身腐った熊型の魔物が両腕を振るう。眼球や口腔から蛆虫を垂れ流し、吠えかけ、そのまま上半身が綺麗に消失した。まるで、見えない砲弾でも通り過ぎたかのように。
銃口から壁まで一直線、直径は太いところで一メートル弱。射線上にいた魔物が等しく攻撃を喰らった。
もはや、それは点で狙い、線で撃つ銃撃ではない。
線で狙い、面で撃つ三次元的〝超火力〟攻撃だった。
イジェマッシ・サイガ12は、ガス圧を利用したセミ・オートマチック。いちいち、ポンプ部分を手で動かす必要などない。引き金を絞るだけで散弾が放たれる。
「――さあ、どうした糞ったれども。このままだと、惨めに元の泥に戻るだけだよ? 俺を殺してみろ。この俺が手前らの敵だ!!」
魔物は人の言葉を理解しない。
それでも、その人間が身に秘めた心を測る。
恢の獰猛な殺気に触発されたかのように、彼へと一斉に襲いかかるのだ。
突撃用散弾銃を捨て、恢はさらなる猛追を繰り出す。
右手が握るのは、自動式拳銃・CZ75。旧東諸国・チェコスロバキアから生まれた異例の名銃。鋼材から削り出されたフレームは、極限の精度を追求。握りやすいグリップが命中精度を約束する。装弾数十五プラス一。九ミリパラベラム弾。
左手が握るのは、自動式拳銃・グロック17。オーストリア生まれの次世代銃。軍用プラスチックのフレームは、熱帯、冷帯、砂漠地帯、どんな場所にも対応する。撃鉄を持たないストライカー式。装弾数十七プラス一。九ミリパラベラム弾。
片や旧時代の覇者。片や新時代の姫君。今、時間と空間さえ飛び越えて両者が銃口を揃える。『女帝の
グリップ同士を軽く接触させる。両腕を左右に広げて発砲。宙からの奇襲をグロック17が撃墜、下からの肉薄をCZ75が妨害する。前後左右へと腕が動く。その度に、脚が幾何学的な精密さを以ってステップを刻む。時に大きく背中を逸らし、時には首を捻る。肩を入れ、腰を回し、めまぐるしく発砲体勢が切り替わる。彩るのは緋色と濃い橙色のマズルフラッシュ。飾るのは絶叫、咆哮、死と生が重なるような交錯の間隙。
戦っていると言うにはあまりにも流麗で、
踊っていると言うにはあまりにも豪快で。
恢の戦闘方法はいたってシンプルだった。敵の攻撃を捌き、確実に当てられる機を見抜き、撃つ。膨大な過去から限定的な未来を予測し、今に賭ける。たった、それだけの繰り返しだった。
対応して攻撃する。
攻撃して対応する。
僅かなミスが死に直結する戦場において、それがどれだけ困難だろうか。
そして、彼は、いつも〝そんな賭け〟に勝って来たのだ。
CZ75。グリップは前後幅を狭くし、丸みを描くことでダブル・カーラムだろうが握りやすい。特に初期型、旧式と呼ばれるバージョンは自動式拳銃としての最高峰に登り詰めた。
グロック17。寒冷地が多いオーストラリアで生まれた、プラスチックフレームの優等生。軽量でありながらフレームが衝撃を吸収してくれるお陰で使い勝手が良い。また、引き金に重なるようにデザインされたトリガー・セーフティにより、暴発の恐れも少ない。
いくら、退魔の力が付与されようが射撃とは、銃の性能が物を言う。ゆえに、恢は銃選びに余念がない。掃討屋に選ばれた銃器は等しく、敵を討つだけの実力を秘めている。
真鍮製の空薬莢は地面に当たると同時に色を失って消える。
偽の金は粒子となって消える一瞬、天使が泣くようにとけるのだ。
それは、あるいは、元は女神だったリリスが、己が子の最期を看て涙を流しているのだろうか。
攻撃を続けているのは恢だ。だが、均衡は崩れない。彼が倒す度に魔物が『魔女の道具』から補充されるからだ。
「このままじゃ、ジリ貧だわ。あれだけ大見得切ったんだから、何とかしなさい!」
悲痛な叫び声。レミリアに発破をかけられた。恢は煙草を吸ったまま、口の端を歪めるように笑ったのだ。
「なーに、これからが本番だ」
銃弾の数は少ない。恢は久しぶりに『
「――我が内に眠る魔神へと乞い願う。目の前の障害を撃ち払うだけの力を我に与えよ。リリスの祝福を、此処に証明する。咲き誇れ『
紅蓮の火球が、魔神が齎す奇跡が一段密度を増して展開される。恢は勝利を確信して右手を伸ばし、背後から聞こえた悲鳴に心臓を凍らせた。それは、いつもの彼なら有り得ないミス。詠唱をする数秒間、内側へと意識を集中させ過ぎたがために外側への注意が散漫になった。それでも、これまではずっと独りだった。だからこそ、支障はなかった。
一秒。振り返り、駆け出す。二秒。ナイフを引き抜き、眼前の魔物を斬り捨てる。三秒。涙を浮かべて腰を抜かしたレミリアに手を伸ばす。そして四秒――。
「……悪い。もっと……君に…………注意を払うべきだった。これは、俺のミスだ」
戦場で、恢は魔物と死の絵札を押し付け合っていた。魔物は強者を相手にするのは愚策だと言外に告げんばかりに、レミリアを襲ったのだ。彼は辛くも間に合った。少女には傷一つなかった。ただし、その対価は、男の左胸に深々と穴を開ける。蜘蛛にも似た魔物の脚が一本、長大な槍と成って背後から心臓を突き刺したのだ。血が喉奥から逆流して、塊となって吐き出される。恢の口からポトリと、アークロイヤルが落ちた。
大きく目を見開いたレミリアに『大丈夫だよ』と、伝えたかった。なのに、声は掠れ、言葉になってくれない。どんどん身体は冷たくなり、とうとう四肢から力が抜けていく。支えるものがなくなって、重力に引かれるように蜘蛛の脚が抜ける。大きな身体が床へと倒れた。
絹が裂けるような叫び声は遠く、彼は瞼を閉じぬまま〝死んだ〟のだ。
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