第二章 ◆


 フーフー。ズズ、ズルルルルルル。世界で最も売れたカップ麺である初代カップヌードルを割り箸で啜りつつ、レイドは隣を一瞥する。ライラがとんでもなく不機嫌だったのだ。親の仇を見るような目で麺を啜るさまは頬に殺気がピリピリと当たって痛い。腹が減っては戦ができぬと夕食を用意したのだが、こちらの彼女様はどうやらお気に召さないらしい。

 あるいは〝場所〟のせいだろうか。ここは、室内ではなく室外である。とある食料品会社のビルの屋上で二人、壁に背を預けて立ったまま行儀悪くラーメンを啜るのだ。無論、褒められるような行為ではなく、むしろ不法侵入で訴えられる。もっとも、証拠を残すような真似はしない。ゆえに、この空間は二人だけの時間だった。

 レイドの方は几帳面で、ゴミは放置せずコンビニの袋に纏めている。男が苦笑を零していると、ライラが不満を零した。

「……ソフィアの小娘から押し付けられた仕事のせいで、私達はこんな寒空でインスタント麺か。まったく、身分の差が肌に染みるな」

 彼女の言う通り、ここで〝野営〟しているのはソフィアからの命令である。日本の夏、それも夜中となれば蒸し暑く、御世辞にもすごしやすいとは言えない。命を下した本人が、クーラーが利いたホテルで毛布を被りながら眠っているとなれば、ライラの不満は推して知るべしだろう。足元に置いてあるLEDランタンから発せられる光が女の影を細長く伸ばし、竜の首となって闇へと溶ける。怒りがそろそろ沸点に達しそうだからと、レイドが口を挟んだ。

「けれど、こうやってライラと二人きりの時間を過ごすのは嫌いじゃありませんよ」

 ライラが、盛大にむせた。ラーメンの汁が少しだけ地面に零れる。涙目になった女は、わなわなと口元を震わせたのだ。

「どうしましたライラ。まさか、鼻に蚊でも紛れこみましたか?」

「げっほげっほ。この馬鹿者が! 変なことを口走るな!!」

 目尻の涙を手の甲で擦りつつ、ライラがレイドを睨みつける。男は黙り込んだものの、どうして彼女は〝たま〟に、こんな風に動揺するのだろうかと首を捻った。

「そういえば、ソフィアが言っていましたよ。あの恢という男は〝面白い〟と」

「アイツの基準で〝面白い〟か。ならば、私達〝人間〟の基準ならば、とんでもない強敵というわけか。ふん、忌々しい。この日高市が〝儀式〟に最適なのだろう? 龍脈が整っている大地に悪魔憑きの番犬か。上手く事が運んだ試しはあまりないが、これは流石に面倒だな。正直、怖くてたまらないよ」

 そう言いつつも、ライラの口元には肉食獣としての笑みが湛えられていた。戦いを楽しめる心とは、それだけで刃である。レイドは、生まれながらの戦士に遠い景色でも眺めるような視線を向ける。この戦いは愚かな一人の〝我儘〟だ。逃げられず、ゆえに、どうにかしなければいけない。彼女に頼らなければいけない自分の無力が恨めしかった。

「ライラは強いですね。貴方のように戦えない自分の身が憎たらしいです」

 しかし、随分と長い時を過ごした戦友であるライラは、レイドの謙遜に顔を顰めた。露骨な、不満の発露だった。

「……本当にそう思っているのなら、それは愚かなことだ」

 ラーメンを啜ろうとしたレイドの手が止まる。ライラが大きく首を傾けて残っていた汁を全て飲み干した。塩辛い褐色の汁、その最後の一滴まで胃へと落とす。元々、カップヌードルは外で食べても許される食事だからこそ、ある意味で正しい行為だった。

「貴様が〝戦えない〟だと? 戦いとは何も、戦場で血を流すだけではない。策を練り、戦わない戦いをすることこそが、武人の本懐だ。私こそ、貴様が羨ましい。私は、結局、血で血を洗い流すような戦いの中でしか己を活かせない。私はどこまでいっても刃を捨てられない」

 声は静かだった。ただ、レイドの胸によく響いた。

「私〝達〟だから戦えるのだ。それを忘れるな、レイド。貴様がいなければ、私はただの刃に過ぎない。頭がない竜がどうやって空を飛ぶと言うのだ?」

 ――割とストレートな〝告白〟だった。しかし、想いは四割ちょっとしか伝わらなかった。

「ありがとうございます、ライラ。貴女と出会えてよかった」

「ふん。いちいち大袈裟なのだ、貴様は」

 そう言いつつも、満更でもなさそうにライラは微苦笑を浮かべる。

 ただ、二人とも分かっている。この戦いに〝清々しい勝利〟などない。

 必ず死ぬ。相手が悪魔憑きだから、それだけが理由ではない。ソフィアが舞台の主軸である以上、崩壊は免れない。

 ああ、だからこそ、今だけは安らぎを感じたい。レイドは、そう願わずにいられなかった。

(叶うのなら、僕は君だけでも救いたい)

 愛しい者を救いたいのは、それだけで〝罪深い〟のだろうか。

 ならば、この世界に神などいない。自分自身で何とかするしかない。

「……レイド。一つ、いいだろうか」

 ライラが神妙な面持ちで言う。幕末の剣客がごとき鋭い眼光に、仲間であるはずのレイドは背筋に冷たいモノを感じたのだ。彼女は『剣の化身』『魔刃の打ち手』『絶望の柄』さまざまな通り名がある。二十年前の大戦を生き延びた英雄の一角だ。レイドは無言で、頷き言葉の続きを促す。彼女は大仰に言ったのだ。

「このカップ麺。お代わりが欲しいのだがどうすればいいだろうか」

 知るか阿呆。と、レイドはライラの後頭部にチョップを飛ばしたのだった。

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