第一章 ⑨


 何故だろう。妙に、時間が過ぎるのが早く感じられた。恢とレミリアは、昼飯を済ませてから一度アパートに戻って荷物を置き、近所のスーパーへと足を運んだ。夕食の材料を買うためである。


「ビール、買い過ぎじゃないの?」


「今日だけで飲むわけじゃないからいいの」


「もう。大人って屁理屈が好きね」


「レミリアちゃんも、お菓子とか買っても良いぞ」


「……まあ、たまにはいいかしら」


 恢が押すカートへと、レミリアがお菓子を入れる。チョコ系の御徳用サイズだった。秘密にしたいのか、何を作るかは教えてくれない。なんでも『出来てからのお楽しみ』らしい。


(まあ、スパゲッティ用のパスタ買ってるし、麺類なんだろうな。ピーマンにマッシュルームにベーコンに、トマトケチャップ。……うん。多分、ナポリタンだな。気付かないふりしていた方がいいんだろうなぁ)


 気付かれないように恢はレミリアを一瞥する。さっそく、サマードレスに着替えていたのだ。少女の姿が眩しくて、ちょっとだけ目を細める。陽気に鼻歌を刻む様子は、なんと健気か。

 だからこそ、想う。どうして、彼女のような子供が苦しまなければいけないのだろうかと。


(情報が少な過ぎる。せめて、どの組織が狙っているかだけでも調べないとな。……やっぱり、レミィを頼らないといけないんだよな。いや、アイツなら良いって言ってくれるだろうけど、仕事な以上、何か見返りがないとな。俺、アイツに何をしてやれるんだ?)


 問題は山積みだ。恢はレミリアの背中を眺めつつ、眉間に深い皺を寄せる。


「あなた、何ぼーっとしてるの? まさか、もうお腹空いちゃったとか? ……ちょっと」


 コツンと脇腹を小突かれる。恢がはっとするも遅い。レミリアが唇を尖らせていた。


「悪い。ちょっと、別のことを考えてた」


「……それって、私のこれからのこと?」


 子供だろうと女か。勘の鋭さに恢は目を丸くするばかりだった。遠くからコロッケを買えだの肉を食えだの陽気な歌が流れている中で、二人を取り巻く空気だけが冷たく、重くなる。レミリアが右手に持ったポテトスナックを棚に戻し、別のスナックをカートに入れる。


「やっぱり、負担なのよね。ごめんなさい。自分の身を自分で護れないなんて、恨めしいわ」


「レミリアちゃんが気にすることじゃない。罪もない子供を狙うような大人がいるのがいけないんだ。だから、君は安心していいんだ。頼むから、そんな悲しい顔をしないでくれ」


 辛そうに顔を伏せる少女の姿が痛々しかった。彼女は何も悪くないのだ。悪いのは全部、彼女を売ろうとした組織に他ならない。腹の底から燃え上がるような怒りを覚えると同時、恢は、棘が付いた縄で胸が締め付けられるような痛みに、奥歯を強く噛み、耐える。きっと、レミリアはもっと苦しいはずなのだ。小さな身体が抱える不幸の重さは、なんて理不尽なのだろう。

 

 二人の関係は歪だ。恢は、レミリアに不安を与えないために傍にいる。しかし、彼が傍にいるということは、いつ危機が訪れるか分からないということだ。抜き身の刃は悪さをする人間を斬れる。だが、温もりを与えることは出来ない。


 それでも、恢は精一杯笑ってみせる。大人が子供を助けなければ、誰が助けられる? 顔を下げたままのレミリアの頭を、男はそっと撫でたのだ。少女がビクッと肩を震わし、けれど拒絶はしなかった。


 無骨な手から伝わる柔らかさ、温もりに、レミリアの命が透けて見えるかのよう。彼女に何かあったらと思うと、心臓の内で焦燥感が燻ぶるのだ。


「子供扱いされても、困るんだけど」


「まあ、実際子供だからな」


「ふーん。パン屑ぼろぼろ零すような男から子供扱いされたくありませんよーだ」


 舌を出して〝べー〟と可愛い挑発。恢はレミリアの頭から手を離して――そのまま抱き寄せた。ちょうど、胸に押し当てるように。


 急に抱き締められたレミリアの顔が、急速に朱へと染まっていく。


「ちょ、ちょっと、あんた。まさか、本当に私のことをそういう目で――」


「――制約解除。起動術式は『真緑姫の揺り籠ドライアド・クレイドル』。第五階位の解放を告げる」


 黒く短い恢の髪が初夏の若葉を思わせるような真緑に変わり、一気に伸長する。拡散し、増加し、構築する。瞬く間に織りあげられたのは、彼と彼女を覆う積層の防護壁。レミリアが唖然と目を瞬かせ、半秒後、爆音。大気が振動し、世界が悲鳴を上げるのだ。地震よりも鋭く、短時間の内に衝撃が重なる。それはまるで、ダイナマイトでも投げつけられたかのように。


 五秒か、十秒か。恢は攻撃の気配が消えたことを確認して緑髪の障壁を解いた。腹部に違和感を覚え、視線を落とし、今度は男が息を飲む番だった。


 レミリアの細い腕が恢の腰へと回されていたのだ。身長差がある。身長差がある。身長差がある。それは猛烈に〝不味い体勢〟だった。くわえ、少女はぎゅっと瞼を閉じていた。総身を震わしている。男はまず深い呼吸を二度、三度、繰り返す。身体の内に溜まった余分な熱を吐き出すために。ようやく、周囲の状況を観察する程度には冷静さが蘇った。


 まるで、重機関銃の掃射でもくらったかのよう。恢が立っている位置から数十メートル先、商品の陳列棚は破壊され、レジは破壊され、壁まで破壊されている。


 酒瓶が派手に吹っ飛び、菓子は四散し、カップ麺の死体が転がっている。不幸中の幸いか、泣き叫ぶ子供はいても、傷付いた人間の姿は見えない。


 小規模の嵐と例えるのが正しいだろうか。いいや、これは自然災害と一緒にしてはいけない。こんな人の悪意が詰まった攻撃など。


「……レミリア。ちょっと走るぞ」


「え? きゃ、きゃあああ!?」


 レミリアの腕を強引に剥がし、そのまま背中と両膝を支えるように抱く。所謂〝御姫様抱っこ〟と呼ばれる行為だった。


 恢の両脚が地面を蹴り、パニックに陥った周りの全てを置き去りにして外へと出た。そのまま駆け出し、地元民しか使わないような薄ら寂しい通りを突っ切る。その速度、軍用に調教された魔犬・ブラックドックにも劣らない。井戸端軍法会議をしていたオバチャン達が、巻き起こった風に髪やスカートを押さえてギャーギャー喚いていた。


「なに、なになになに~~~! いったいなんなのよ! 私、今、どうなってるのよー!」


「ほら、舌噛むぞ。……どうやら、敵さんの方から挨拶してくれたらしい。五階位の防御で揺らされるなんて久しぶりだったよ。この前の魔物なんて、子供騙しに思えるくらいの強敵登場だな」


 顔を青褪めさせるレミリアが、恢の首へと両腕を回す。


 ここは住宅街の直ぐ傍で、廃ビルではない。他者の生活が近い。だからこそ、非日常の落差が焦燥感を掻き立てる。


 怯えるレミリア。


 恢は少女の耳元で囁いた。


「……やっぱり、怖いよな」


「こ、怖くなんてないわよ!」


 子供が見せる精一杯の虚勢。ただ、恢が戦う覚悟を固めるには十分だった。護るべき命の脆さが、レミリアの存在が男の背中を押した。自分があまりにも〝現金〟で、泣きたい程に笑いたかった。


 戦うのは金のためだった。誰からも評価されず、ヒーローには成れない。だから、大金でも貰わなければ掃討屋など〝やってられない〟。しかし、今はどうだ? 莫大な報酬があるわけではない。むしろ、レミリアのために色々と金を消費している。だというのに、ちっとも、勿体ないなんて思わない。思えない。むしろ、彼女が笑顔になれるのなら安いとさえ感じる。


 それはきっと、贅沢だった。こんな自分が望むのは愚かで、馬鹿馬鹿しくて、阿呆らしいだろう。だから、嬉しいなんて口が裂けても言えない。レミリアの〝不幸〟を喜んではいけないからだ。ならばせめて、この瞬間の選択肢だけは間違えてはいけない。


 背骨に空気が送り込まれる。そう錯覚してしまうほど、背中に力が入った。獣は四足歩行が大半で、二足歩行の獣も前傾姿勢が常だ。背中の毛を逆立たせるのは警戒するためだ。敵へ警告するためだ。邪魔をするなら容赦しないと脅すためだ。


 原初の時代に生まれた獣の〝法〟が、恢の戦意を如実に現世へと引き結ぶ。


「と、ところで、今からどこに行くっていうのよ。まさか、このまま逃げ続けるってわけじゃないわよね?」


「敵の気配は〝見えている〟。あっちが先に喧嘩を売ったなら、丁重に買わせて貰うさ。ただし、もう返品は不可だ。……あいつらに、俺の戦い方を教えてやろう」


 そうして、恢は路地裏へと足を踏み入れる。日が当たらず、空気が滞っているのかジメジメと黴臭い。背の高いビルが並び、まるで迷路のよう。日高市には、ここ数年の区画整備によって〝このような場所〟が多い。ようやく、男はレミリアを下ろした。少女はサマードレスの皺を手で直しつつ、彼の傍を離れようとしない。


「なあ、レミリアちゃん。今更なんだけど、あまり俺を怖がらないでくれると助かる」


「え? あなた、何を言って――」


 レミリアの返答を待たず、恢は戦う力を解放する。


 彼は今、人間の枠を大きく飛び越えた。


「――制約解除。起動術式は『骸童子の蒐集義体ボーン・ユニバーサル・フレーム』。第二階位の解放を告げる」


 コートを破り突如、恢の右肩部分から骨が飛び出した。しかし、それは敵からの攻撃ではない。陶器よりも艶かな五指は花のように開く。彼は彼の意思で第三の腕を生やしたのだ。真っ白な骸骨の腕は悪魔憑きに与えられる特権の一つ『魔造回帰モデル・アウター』による異形の肉体変化。スーパーで見せた緑髪の防御壁も〝これ〟だ。悪魔憑きは魔物の〝特徴〟を身体に取り込めるのだ。


 二本の〝右手〟が熱を忘れた火球に突っ込まれ長物の銃器を引き抜いた。それは近接戦の銃器・短機関拳銃サブ・マシンガン。それも、ギャングやマフィアに重宝されたトミーガン――トンプソン・サブマシンガンの内の一丁、M1928である、円筒のドラム・マガジンに装填された四五ACP弾の数、百発。骨の指が手動安全レバーを外し、肉の右手がグリップを握る。


 シカゴタイプライターとも呼ばれた短機関銃を二本の右手で支え、恢の双眸は冷たい光を帯びる。


 まだまだ洗練されたとは言えない豊満なボディ・スタイル。M1928ほどドラム・マガジンが似合う短機関銃もそうそうないだろう。四五ACPの重さを、全身で表すかのようだ。


 男の視線が自然とレミリアに向けられる。少女は息を飲み、言葉を失っていた。それも当然か、と自嘲が口元を歪めさせた。骨の腕が生える光景を見て、恐怖を抱かないはずがない。怖がられるのは慣れていても、これには流石に、こたえた。


 だからこそ、レミリアが口にした言葉に、今度は恢が息を飲む番だった。


「ねえ、恢。それって、痛くないの?」


「              え?」


 一瞬、何を言われたのか分からなかった。恢が目を瞬かせると、レミリアがジロジロと骨の腕を観察する。まるで、自由研究でも始めた小学生のように。


「うわ、皮膚突き破って骨出てるわよ、これ。それに、服が勿体ないわね。まさか、戦う度に買い替えてるの? 大雑把っていうか豪快っていうか。まあ、恢らしいけどさ」


 言葉の一つ一つが恢の心を覆い尽くそうとした外皮に当たり、ボロボロと剥がれ落ちる。冷酷になるタイミングを失って、足元がフワフワした。レミリアに、怖がっている様子はなかった。たったそれだけで、どうしてこんなにも動揺してしまうのだろうか?


「レミリアちゃんは、これを見ても恐くないのかい?」


「そうね、ちょっとだけ気持ち悪いかしら。夜中に見たら悲鳴を上げるでしょうね。……けど」


 少女は言葉を切り、恢から視線を外す。まるで、直接言うのを恥ずかしがっているかのように。戦火が近い。直ぐ傍まで近付いている。掃討屋の右腕が二本、弾かれるように動いたのだ。


「――戦う貴方を怖がるなんて真似はしないわ。だって私、恢のことが割と気に入ってるもの」


 地面と水平に伸びた右腕二本が支えるM1928が銃火を咲き乱す。分速五五〇発のフルオート。音速に届かない四五ACP弾は衝撃波を生み出さず、銃声は重厚で轟雷に似ている。


 銃身の先端に、発砲時の発射ガスをスリット状の穴から逃がして反動を軽減、銃身の跳ね上がりを抑えるマズル・コンペンセイターが装着されているお陰で、フルオートながら弾を狭い範囲に〝纏められる〟。二本の腕でしっかりと銃を固定しているのなら、尚更だった。


 レミリアが両手で耳を押さえ、固く瞼を閉じて五秒。恢はようやく発砲を止めた。足元に散らばった真鍮製の空薬莢が星屑のように融ける。


 悪魔憑きの双眸が〝それ〟を睨みつける。彼我の距離、目測で三十メートル。路地裏の奥に人影があったのだ。


 ゴシックロリータを纏う小柄な少女の姿に、恢は目を瞠った。まるで、これから仮装パーティーにでも出掛けるかのような格好の少女がニコニコと笑っている。赤銅が美しい左右非対称アシンメトリーのツーテールを楽しそうに揺らし、装飾過多な日傘をクルクルと回しているのだ。ターコイズ・ブルーの瞳がこちらを見ている。


 だが、姿が人なだけで中身が〝化け物〟なのは明白だった。恢は引き金に指をかけたままだ。


 ただの小娘が日傘を盾にして魔弾の猛火を防げるはずがないからだ。レミリアを背中に護るように、恢は一歩前に出た。背筋に嫌な汗が滲む。目の前の名前も知らぬ少女が纏う空気は冷たく、粘ついていた。一呼吸する度に、この路地裏一帯が別世界へと成り果てるかのように。


 夏の熱気は遠い。だが、静寂とは程遠い。掃討屋として培った勘と経験が心と脳の内で、最大警報を掻き鳴らしていた。恢は左腕から全ての力を抜いてだらりと下げる。右腕二本はトンプソン・マシンガンを保持したまま銃口を固定する。


「貴方が〝恢〟だね。私はソフィアだよ。よろしくね!」


 仲良くする気など毛頭ないから、恢は自分の言いたいことを口にした。


「サブマシンガンから撃たれた四五口径を難なく防ぐか。手前、もしかして俺と〝同類〟か?」


「んふふふふ。さーて、どうだろうねー。なんだったら、試してみようか? それとも戦うのが怖い? ……もしも、君が大人しく言うことを聞いてくれるならさー」


 ソフィアの視線がレミリアへと向けられる。少女の顔が、恐怖で強張った。彼女も恢と同じく、異変を感じ取っていたのだ。


「そこのレミリアちゃんを渡してくれるなら、見逃してあげるけど?」


「お断りだ馬鹿野郎」


 再度、フルオートの掃射。ソフィアがくるりと日傘を前に突き出して盾にする。四五口径の魔弾が軽々と弾かれてしまう。『女帝の闇宮リリス・ハート』によって生み出された銃器は、射出された弾丸が持つ物理的エネルギーに比例して退魔の威力を高める。逆を言えば、それ以外の現象は全て、自然法則の〝枠〟に縛られる。もしも、あの日傘が異能抜きで純粋にレベルⅢAのボディーアーマーに相当する耐久値を秘めているのなら、四五ACP弾で貫徹するのは難しい。しかし、日傘に防がれた弾丸の〝動き〟がおかしい。まるで、分厚いゴムにでも弾き返されたかのように軌道を逸らされ、地面やビルの側面に撥ね飛ぶのだ。


 ならば、それ以上の力を行使するまで。恢は弾薬の切れたトンプソン・マシンガンを足元に捨てる。白骨の腕を保持したまま、紅蓮の火球を展開、新しい銃器を現世に召喚した。


 まず目につくのは四十センチ強の太く長い銃身。後部のボルト・ハンドル。そして、拳銃用のグリップ。あまりにも奇妙な取り合わせである。黒き問題児の名はドミネーター。日本ならば〝コルト・ガバメント〟の愛称で知られる自動式拳銃が、スライドと銃身を取り払われ、単発式のボルトアクション式拳銃にカスタマイズされたのだ。このド変態を開発したのは、拳銃のアクセサリー等を製造販売している老舗、パックマイヤー社である。全体的なサイズだけを考慮すればトンプソン・マシンガンよりも小さい。しかし、薬室に秘めた弾薬に違いがあった。


「重さ九・八グラム。秒速八百メートル、オーバー。小銃用弾薬の三〇八ウィンチェスター弾。単純な物理的エネルギーだけで比べるのなら、四五ACP弾の六倍近くある。レベルⅢの防弾服だろうが、防ぐのは難しい。ほら、捌けるものなら捌いてみろ」


 人間ではなく、熊か猪にでも向けるべき銃口を前にしても、ソフィアは笑みを絶やさない。


「よーし。じゃあ、これを〝花火〟にしよう! 私達の戦いを飾る序章の盛大な鐘にしよう」


「随分と物騒な花火だな。……まあ、いいだろう。この一発で終わるのなら、安いもんだよ」


 人外同士の決断は、生死さえも軽い。


 そして、両者は逃げたりなどしない。


 固い引き金を絞る。銃声は迅雷と化した。骸骨の腕で支えてなお、銃身が上に撥ねるのを抑えきれない。肘にスタンガンでも押し当てられたかのような衝撃が一瞬、走った。三〇八ウィンチェスターが大気を切り裂き、抉りながら疾駆する。振動する大気の波が破壊された衝撃波、つまりはソニックブームさえも退魔の力を得て肉薄。秒速八百メートル。音さえ置き去りにされた無音の死が、ソフィアが握る傘へと直撃し――黄金の細波が地面に溜まった埃を洗い流す。強風が狭い路地裏を満たし、レミリアが両手でスカートを押さえて悲鳴を上げた。


 一瞬の攻防は一瞬で片付いた。恢は色を失いつつある小銃弾用拳銃を肩に担ぎ、忌々しそうに嘆息を吐き出したのだった。


「……そうか。そうなのか。そういうことか。こいつは、随分と面倒な敵が現れたもんだなー」

「んふふふふふふ。凄い凄い! お父さんも喜んでるよー。君は、凄い奴だなーって」


 ソフィアの手から傘がすっぽ抜けた。天高く宙を舞った傘が風にあおられて、導かれるように恢の数歩手前に落ちた。日傘には拳大の穴が開いていた。しかし、それだけだった。防御は貫徹した。しかし、標的を傷付けるには足りなかったのだ。


 恢は大きく息を吐き出し、深く吸い直す。ドミネーターを捨て、白骨の腕も解いた。久し振りに出会った強敵を前にして、あくまで彼は冷静だった。


(流石に、ここで仕留めるのは難しいな)


 ワクワク顔のソフィア。


 恢は新しい銃を召喚しない。


 怯えたレミリアが傍にいるからだ。


「ここで勝負するには、俺もお前も〝狭い〟だろう。今日のところは、一先ず仕切り直しといかないか? 半端な戦いをするのは俺にとっても、手前にとっても好ましくない。だろう?」


 恢の提案に、ソフィアが『うーん』と唇に右手の人差し指を当てる。すると、まるで耳元で誰かに囁かれたかのように頷き出したのだ。


「うんうん。もう分かったよ〝お父さん〟。今日は、まだ駄目なんだよね。はーい。じゃあ、今日はこれで御終いね。バイバイ! 恢、レミリアちゃん。――また今度、遊ぼうね?」


 そうして、日傘を失ったソフィアがパチンと両手を打ち鳴らす。すると、周囲の影が煮詰まって収束したかのように、少女の身体を黒い霧が包み込んだ。また、パチンと音がする。影は一瞬で霧散し、もうどこにも彼女の姿はない。


「逃げ足が速いな。糞ったれ。敵も〝魔人〟ってわけか。こりゃあ、本格的に対抗措置を考えないと、厄介かもしれないな」


 後頭部をガリガリと掻き、恢が顔を顰める。ようやく、レミリアへと向き直り、激突。少女が男へと全力でダイブするように抱きついたのだ。まるで、今直ぐに温もりを感じないと凍死してしまうかのように。


 涙はなかった。だが、そっと触れた頬は、驚く程に冷たい。レミリアの顔は強張り、血の気が引いていたのだ。人間、恐怖を感じれば熱病のように汗が噴き出す。それを過ぎれば、今度は全身が急速に冷えていくのだ。


 レミリアが右も左も分からないと、必死に恢へと抱きつく。あまりにも、少女は弱い。なのに、あんな至近距離で両者の殺意をまともに〝受けて〟しまったのだ。配慮のなさに、己への後悔と怒りが前頭部に溜まっていく。


「……ごめんな。怖かったよな。大丈夫だ。俺がいる。レミリアちゃんを必ず護るよ」


 彼女の身に降りかかる不幸から護るように、恢はそっとレミリアの頭を撫でた。すると、もう限界だと枯れていた涙腺がとうとう緩み、少女は静かに嗚咽を零したのだった。


 ――彼女のために、俺は一体、どれだけのことをしてあげられるだろう?



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