第一章 ◆


 レミィから連絡が入った《清掃婦》が到着する十数分前。廃ビルの中は未だに死が充満していた。そして、常人であれば近付くことすら躊躇うような場所に一人分の人影があった。

 クルクルくるくる。独楽のように傘が回る。


 くるくるクルクル。彼女も一緒に回るのだ。


 時折、グチャグチャと水っぽい音が重なる。


 時折、ジュルジュルと粘っこい音が重なる。


「くふふふふ。いいね、いいね。ねえねえ、見て見て、お父さん。こんなに食べ残しがあるよ」

 歳は十代中頃から後半だろうか。身長は百五十センチ前後と小さい。髪は春の夕焼けを濃く煮詰めた赤銅の鮮やかさ。正面から見て右手側が肩にかかる長さ。左手側が腰の半ばまで伸びている左右非対称アシンメトリーのツーテールである。ぱっちりと開いた愛らしい瞳は晴れた空よりも深く青を映したターコイズ・ブルー。肌は白く、健康的な赤みが差している。可憐でありながらどこか妖艶で、その美貌は、男性を惑わせて底無し沼に引き摺りこむ妖精が如き魅力があった。


 服装もまた一風変わっていた。日本でも近年にかけて有名になりつつあるゴシックロリータ、通称ゴスロリ風のドレス。黒糸が紡ぐスカート部分は膝まで覆い、銀の鎖が幾重にも巻かれていた。手首まで隠す袖から肩、背中にかけて、赤いリボンで飾られている。胸元は白いフリルがあしらわれ、豊満に育った二つの果実が惜し気もなく外気に晒されている。革のブーツまで黒で統一され、金色の靴紐は夜空の向こうに帰るのを忘れた流星か。右手に持った傘は日除け用だろう。あれだけ無駄に豪勢な装飾が施された傘など、雨の日に差せば作った職人から打ん殴られるに違いない。


 彼女はソフィア。本当の意味でレミリアを追う者〝達〟だ。少女は大切な父へと楽しげに語るのだ。


「私もね、すっごくすっごく驚いたんだよ? だって、まさか《魔女の道具》が暴走するなんてねー。こーんな三流組織に任せたのが失敗だったなー。レイドもライラも、なんだか最近抜けてる気がする。せっかく、準備が整いそうなのに」


 ぷくーっと頬を膨らませるソフィア。その横顔は、歳相応で、我儘で、それでも憎み切れない愛らしさがあった。


 回る、回る、世界が回る。


 踊る、踊る、世界が踊る。


 むせ返るような血臭。目を覆いたくなるような人間の残骸。靴裏は汚れ、一歩踏み出す度に肉と血が擦れる。


 歌う、歌う、世界が歌う。


 叫ぶ、叫ぶ、世界が叫ぶ。


 ソフィアはまるで、城の天辺には素敵な宝物でもあるかのように上を目指す。どんどんと階段を上るのだ。やがて〝屋上〟に辿りつく。そこは一層、死が煮詰まっていた。中央にジェラルミンケースが転がっている。そのすぐ傍に干乾びた〝何か〟が落ちていた。


 少女は視線を落とし、じーっと凝視し、ややあって、がっくりと肩を落とす。どこか悔しそうに、どこか楽しそうに、その場で地団太を踏んだのだ。


「消えてる消えてる、全部消えてる。あの子が食べたのかなー? もうもう、少しぐらい私のために残してくれても良いのに。お腹が空いた! お腹が空いた! お腹が空いた!」


 濡れた所で暴れるものだから、滑った。ゴスン! と盛大に後頭部を床に打ちつけてしまう。


 思わず身悶えるような痛みだろう。しかし、ソフィアの顔から表情が抜け落ちた。まるで、自分が人間ではないことを思い出した人形のように。少女の服が汚れる、髪が汚れる。双眸がグルグルと不規則に動き〝それ〟を見付けた。右手を伸ばし、躊躇いもなく掴み取る。生温かく、湿っていて、弾力がある。少女の顔に、表情が戻る。まるで、山の中で団栗を見付けた子供のように、無邪気に笑う。――それは、指だった。人差し指か、中指か、薬指か。根元から鋭いナイフで両断されたのだろうか。それとも、魔物に食い千切られたのだろうか。


「うふふふふふふふふふ、はははははは。やった、やった、やった! これは〝大丈夫〟だね」


 そして、ソフィアは、まるでアイスキャンディーでも食べるかのように他人の指を咥えたのだ。横向きになり、首を大きく揺らして頭を振りながらしゃぶるのだ。表情は恍惚と淫蕩に染まる。唾液に血が混ざり、泡となって口元を濡らす。一頻り舐めると、今度は真珠のように白い歯を突き立てる。皮膚を剥き、薄ピンクに赤が混ざった肉に齧りついた。筋張った筋肉を丹念に口内で解きながら咀嚼する。ガリガリと骨を削り、軟骨を砕き、小魚のように丸呑みしてしまう。すると、今度は別の肉片を口に入れた。眼球も、胃も、肝臓も、脳味噌も関係ない。人間だった欠片を無我夢中で掴み、食べ、己が内へと取り込んでいく。


 先程、彼女はこの惨状を見て〝食べ残し〟と言った。つまりは、そういうことなのだ。


 汚れた床も舐める。唾液がコンクリートの隙間に絡み付き、糸を伸ばす。


 それでも、空腹は満たされない。きっと、ここに元いた黒服二十名が揃っていても、足りはしなかっただろう。


「酷い有り様だな、ソフィア」


 ハスキーなアルトボイスに、少女が顔を上げる。入口の傍に、二人が立っていたからだ。


 レイドは困ったように苦笑している。


 ライラは呆れたように顔を顰めている。


 ソフィアは身体を起こし、ぱーっと笑う。


「お兄ちゃん、お姉ちゃん! もう、遅いよ。私、待ちくたびれちゃったー」


 今到着したばかりのソフィアがコロコロと表情を変える。ライラは片目を閉じ、周囲を一瞥する。そして、少女と同じくケースへと視線を向けた途端に、忌々しそうに口元を歪めたのだ。


「やはり、奪われていたか。いや、この場合は壊されていたと言った方が正しいだろうな。まあ、構わない。どうせ、アレを手に入れない限りは他の全ては〝保険〟に過ぎない」


 レイドが神妙な顔付きで頷いた。そして、ソフィアと目線を合せるかのように膝を折る。


「今日のところは帰りましょう。明日、一度〝彼〟に接触するつもりです。それからでも、準備を始めるのは遅くない」


「はーい、分かりましたー!」


 元気に手を挙げるソフィアを見て、ライラが小馬鹿にするように鼻を鳴らしたのだった。


「ホテルに戻る前に口元を拭いておけ。ハンバーガーを食べた狸だろうと、そこまで口は汚れないだろうからな」


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