第一章 ⑦
翌日の早朝。恢は起き上がると同時に猛烈な眩暈を覚え、倒れこむように後頭部で枕を叩く。
頭が、頭蓋骨の内側から木槌で叩かれているかのように痛む。どうやら、二日酔いらしい。決断力のない男は自分を納得させるために酒を飲み過ぎたのだ。
ここは、恢が住むアパートである。トイレと風呂は別で、部屋は二つだ。彼が眠っていたのが玄関から見て一番奥にある四畳半の和室。そして、真ん中にある六畳の洋室には――。
起こさないように、慎重に。恢は足音を完全に殺して扉をスライドさせる。いつもはリビングとして利用している洋室には、テーブルとソファ、テレビがあるだけだ。しかし、今日は少しだけ違った。ソファに、タオルケットをかけて眠っている少女の姿があった。
静かな寝息。規則正しく上下する胸郭。無防備であどけない眠りの姿。
そして、それを眺める無駄に体格の良い男、神凪恢二十五歳男性。
警察が訪れれば、問答無用で手錠をかけられるだろう。それだけ、危ない構図だった。どうやら、よほど疲弊していたのだろう。起きる気配がまるでなかった。
やれやれとばかりに肩を竦め、恢は台所へと向かう。二日酔いでも腹は減る。なにより、レミリアのために朝食を準備しなければいけない。
誰かのために食事を用意するなど、初めてのことだった。恢はコップで水を一杯飲み干してから冷蔵を開ける。
「……コメントが難しいラインナップだな。子供って、朝に何を食べるんだ?」
昨日の食べっぷりから察するに、あまり好き嫌いはないと判断する。恢は適当に食材を冷蔵庫から取り出していく。
そして、十数分後。
「分かった。貴方って実は、大して頭が良くないんでしょう」
起きたばかりのレミリアがテーブルに用意された朝飯を見て、辛辣なコメントを飛ばしたのだ。見事、恢の左胸に着弾する。
焦げ目がついた山盛りのソーセージ。
目玉焼きを作ろうとして黄身が破けたから途中で掻き混ぜたスクランブルエッグ。
サラダに使う野菜は千切った方が美味しいのよ。とレミィの言葉を信じて千切ったセロリ。いや、この場合はグチャグチャに折れた緑色の〝何か〟か。そもそも、セロリ一個でサラダにカウントして許されるのだろうか。
無事なのは、食パンと麦茶だけだった。
「なんか、色々と済まん。これは俺が処理するから、レミリアちゃんの分は近くのコンビニで買って来るよ」
そうして、恢が財布を持って出かけようとした時だ。レミリアが、当然のように食パンにバターを塗り始めた。
「住む場所も用意して貰ったのに、そこまで我儘を言うほど私も馬鹿じゃないわよ。それに、美味しそうじゃない。ほら、ぼーっと立ってないで、さっさと座りなさいよ」
正座した少女に促され、恢は大人しく座った。テーブルを挟んで対面するレミリアが麦茶を注いだコップを差し出してくれる。はて、この部屋の主はどちらだっただろうか?
いただきます、をして食事が始まった。レミリアが待ってましたとばかりに、トーストへとバターを塗った。さらに、黄金に輝くマーマレードをたっぷりと重ねる。スプーンで丁寧に、端っこまで淡く混ざった領土を広げる。
両手でトーストを掴み、上機嫌で眺めるレミリア。
どこか慎重に、そして大胆に大きく口を開けて齧りつき、喜色満面に顔を綻ばせる。余程、美味しいのだろう。上半身が左右に揺れるのだ。そんな様子が面白くて、手元を見るのを忘れた恢はソーセージにケチャップを豪快にぶちまけた。出し過ぎた分をスクランブルエッグに避難させる。
「……ところで、さ。服とか、日用品が欲しいんだけど買ってくれないかしら。払ってもらった分は、ちゃんと返すから、駄目?」
「それぐらい良いよ。流石に、高級なブランド品が欲しいって言われたら困るけど」
「安い物でいいわ。私が着れば、ただのワンピースでも極上のドレスに見えるもの」
大した自信である。もっとも、割と間違っていないから将来が恐ろしい。それだけ、少女の容姿は素晴らしいのだ。希代の
「じゃあ、ご飯食べたら買い物に出かけましょう。お昼は、そのまま外で食べて、夜は私が作るわ。あっちに居た頃は、料理当番だったの。ちょっとは自信あるんだから」
「そうなのか? それなら、頼もうかな」
あまりにも穏やかで、温かくて。恢は冷えた麦茶を一気に胃へと流し込む。すると、レミリアが思い出したかのようにジト目をつくったのだ。
「それと、私が居候している間は煙草禁止ね。ベランダでなら吸って良いわよ」
「……寛容な判断、ありがとうございます」
本当に、どっちが部屋の主が分からなくなる恢だった。
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