第五章 ①


『恢。ソファだと眠り難いから、そっちの御布団が良いわ』

 その日、レミリアが枕を抱えて、恢が布団を敷いた和室へと脚を踏み入れた。すると、彼が何か言うよりも先に彼の枕へと己の分を並べたのだ。

『……流石に、並んで眠るのは不味いんじゃないかな。ほら、一応、男と女だし』

『じゃあ、恢は私が寝違えてもいいの? いいじゃないの、減るもんじゃないし』

 俺の精神はガリガリと削られているんですけどね。そう思いつつも、恢はレミリアを拒絶しようとはしなかった。彼がロリコンだからではない。少女があまりにも寂しそうに瞳を潤ませるからだ。ここまでされて彼女を〝独り〟にはさせられない。

 日本の夏、それも夜はお世辞にも過ごしやすいとは言えない。

 蒸し暑い室内で二人、タオルケットだけを腹にかけて横になる。レミリアは実に楽しそうで、恢はやれやれとばかりに苦笑を浮かべているのだ。

『ねえ、恢。この街で夏祭りとかないの? 私、金魚掬いがしてみたいわ』

『うーん。どっかの神社でやってると思うな。けど、金魚掬いはあんまりすすめられないな。ああいう店で使われてるのって、基本的に外ればっかだし』

『そんなことないわよ。ちゃんと育てられるわ。それで、綿飴を買って、射的もやって、それに焼きそばも食べたいわ。明日、調べてみましょう』

 元気に溢れた少女の声が心地良く、恢の意識はどんどんと落ちていく。どんどんと、夢の中へと沈んでいく。


 ――覚醒は、死にたくなるような痛みの爆発と同時だった。


「                                   がっ!?」

 空気の塊が肺を一瞬、内側から押し上げた。恢は電極を刺された蛙のように身体中を痙攣させる。視界がぐるっと反転して数秒。鼓膜を震わしたのは、優しく潤んだ声だった。

「恢! ちょっと恢! 私の声が聞こえるの? 恢ったら!」

 肩を揺さぶられ、霞んでいた視界がようやく現実世界へとピントを合わせる。恢の顔を覗き込んでいたのは、目も眩むような美女だった。コバルトブルーの淡い瞳に、眩しい金色の髪。バー『蒼い鳥』のマスター、レミィである。男は目を瞬かせ、首を傾げたのだった。

「レミィ。お前、どうしてこんなところにいるんだ?」

 寝惚けた男へと、レミィは全力の張り手をぶっ放す。右頬へとクリーンヒット。再び、意識を失いかけた男へと馬乗りになって首根っこを引っ掴んで揺らすのだ。

「しっかりしろ神凪恢! リリスの契約者! 悪魔憑き! 地獄の銃声! レミリアちゃんはどこにいるの? 奪われたの? だったら、とっとと連れ戻しに行きなさい!!」

 レミィの言葉が、少女の名前が、恢の後頭部を幻想の鉄槌で打ん殴ったのだ。双眸の中に芯が戻る。女が退くと、男はふらりと立ち上がった。だが一瞬、バランスを失いかけ、慌てて彼女が支えてくれた。まるで、吐くほど酒を飲んだ翌日のように気持ち悪い。だんだんと、記憶がよみがえる。あの時、ライラに刺されて、レミリアの悲痛な声を聞いて。

「俺、負けたのか……」

「まだ、決まっていないわ」

 強気なレミィの言葉が頼もしかった。恢は周囲を見回して愕然とする。あの時はまだ、太陽が昇っていた。しかし、今は闇色のカーテンで閉じられた世界。つまりは、夜中だった。

「午後九時過ぎ。その様子だと、随分と眠っていたらしいわね。眠っただけで済むなんて、馬鹿らしいけど」

 語るレミィの視線は恢の胸元へと向けられていた。

「……信じられないわね。あんたを傷付けた術式って、妖精の円舞模様フェアリー・サークルレベルの反則級でしょう? それも、吸血鬼さえ死ぬ心臓を貫かれて生きてるだなんて。悪魔憑きの力を除外する聖なる加護。それさえも退ける。流石は、ソロモンの魔神さえ超える原初の女帝ってところかしら。そもそも、リリスは元から悪魔だったわけじゃない。だからこそ、邪悪な概念が薄まったのかしら? 出来るものなら、今直ぐに研究でも始めたいところだけど」

 どれだけ急いで来てくれたのだろうか。レミィの格好はバーの時と同じ、黒と白の正装である。女はズボンのポケットから取り出した〝それ〟を恢へと押し付けた。コルクで封がされた試験管。中には濃い琥珀色の液体で満たされている。

「私が調合した秘薬よ。味がきついけど、我慢して全部飲みなさい。まだ、妖精の毒は抜けていないわ」

 言われた通りに、恢はコルクを抜いて一気に試験管の中身を喉奥へと落とし、悶絶。脳髄に直接、味が染み込んでくる。馬鹿みたいな甘味、辛味、酸味、苦味が嵐となって駆け巡るのだ。

「げっほげっほ。なんだこれ、ウィスキーに何か混ぜたな? 目が覚めるような味だよ」

「暫くしたら、気分もマシになるわ。それ一本で、国産の車が五台は買える値段よ」

 そんなに高いなら、ワインが飲みたかった恢だった。男は口元を拭い、レミィから離れて独りで立つ。幾分か、脚に力が戻っていた。

「レミリアちゃんを探しに行く」

「どこにいるか分かるのかしら?」

 痛くて苦い沈黙が恢の頭に圧し掛かった。すると、レミィが呆れたように嘆息を零す。

「レミリアちゃんなら、ここからそう離れていない場所にある潰れた遊園地にいるわ。今からなら、まだ間に合うかもしれない」

「その情報はありがたいけど、お前は中立の立場だろう? グレーゾーンだなんて言えないぜ」

 ゴキゴキと首を鳴らし、恢は身体の調子を確かめる。まだ、力は使える。心臓はすでに新しい物へと換装されている。まだ、戦える。まだ、レミリアのために銃を握られる。

 レミィの顔から一瞬、表情が抜け落ち、一気に爆発したのだった。

「ふっざけんじゃないわよ! あの連中、とんでもない悪党だわ。いいわね、恢。絶対にレミリアちゃんを連れ戻しなさい。じゃないと、許さないわよ。地獄まで追いかけてあんたの魂粉々に砕くわよ。悪魔憑きの魂砕いて珈琲入れたら、閻魔様も喜びそうね」

「分かった。分かったから落ち着けよ。……ともかく、俺がやることは何も変わってないんだろう?」

 恢は煙草を口に咥えて火を着けた。

 アークロイヤルのバニラフレーバーが肺腑を満たす。

 彼の双眸がだんだんと戦意の炎を滾らせる。それは、地獄の底を焦がす灼熱だった。

「あいつらに教えておこう。リリスの銃口からは、誰も逃げられないってな」

 神凪恢の反撃は〝ここ〟から始まる。


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