第三章 ◇


 ハイビスカスが咲き誇るパジャマに着替えたレミリアが長い髪へ丁寧にドライヤーを当てていた。櫛を使って梳きながら丁寧に。ソファに座って澄まし顔をつくるのだ。しなやかな指、風呂上がりで火照った頬。しっとりと瑞々しい肌。ここがボロアパートだとは信じられないような気品が狭い洋室に溢れている。ただ、その表情には拭いきれない曇りがあったのだ。

(そりゃあ、我儘よね。駄目ね、私。恢の優しさに甘え過ぎちゃいけないわ。あの人は、ボロボロになっても私を護ってくれた。私が我儘を言うと、多分、精一杯叶えようとする。けれど、それじゃあ駄目なの。ただでさえ負担なのに、これ以上、恢の負担を重ねたくない)

 それが、子供の判断か? レミリアは孤児院で育った。自分よりも幼い子供が大勢いた。そして、彼女は孤児院が人身売買の組織と繋がっていることをおぼろげながらに勘づいていた。だからこそ、子供のままではいられなかった。幼い顔付きには相応しくない大人びた表情は、痛々しい程に儚い。

 なのに、どうしてだろうか。もっと恢に甘えたいと胸が締め付けられるように苦しいのだ。

 不安だからこそ、敵が怖いからこそ、安心出来る相手を求める生理的な防衛反応かもしれない。ただ、本当にそれだけか? 恢の傍にいたいと想うのは、本当に〝それだけ〟のことなのか?

「レミリアちゃん?」

「ひゃっ!?」

 後ろから急に声をかけられた。思わず声が裏返ってしまったレミリアが振り返ると、そこには恢が立っていた。その身体からは、微かにバニラにも似た香りがする。ベランダで一日に二本だけ喫煙を許したのだ。寛容な心を持つのが、女の義務だからだ。

「もう。急に後ろから話しかけないでよ。びっくりするじゃない」

「あー、ごめん。あのさ、色々と考えたんだけど。いいかな?」

 大真面目な声の質だったから、レミリアはドライヤーを止めた。ほとんど乾いた髪に手櫛を入れ『まあ、聞いてやっても良いけど?』と上から目線の態度を作る。恢はカーペットが敷かれた床に胡坐をかいた。それでもまだ、彼の視線の方が高い。

 硬質的な眼光。無骨で大きな手。短い黒髪。恢を構成する全てに視線が巡る。たったそれだけで、胸がドキドキするのだ。

「ど、どうかしたの?」

「いや、その、えーっとな」

 言い淀む男。喉奥まで出て来た言葉を何度も飲み込みかけるように、恢が視線を泳がせる。

「ほら、はっきりと言いなさいよ。私、まだ洗濯物にアイロンかけてないんだから」

 まるで、隠し事をする子供を窘める母親のようである。ややあって、恢が小さな声で言ったのだ。

「明日、遊びにでかけないか?」

 息を飲んだ。まるで、小さい悲鳴だった。レミリアが言葉を失っていると、男は困ったように右手の人差指で頬を掻いたのだ。

「君が嫌じゃなければ、繁華街の方に行ってみないか? まあ、強制はしないけど――」

「――行く! 絶対に行くわ! 後でやっぱり駄目って言ってももう遅いんだからね!」

 ぐいっとレミリアが恢に顔を近付ける。少女の剣幕に、男は上半身を仰け反らせたのだ。コクコクと何度も頷く掃討屋。言質はすでに、掌握されている。

「それって、デートよね!」

 恢の顔がだんだんと蒼白に染まっていき、顔面にびっしりと汗が噴き出すのだった。

「いや、そうじゃないよ。あのね、レミリアちゃん。誤解だからな? 誤解だからな?」

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