第五章 ⑥


 魔女や魔術師に崇拝された女神ヘカートの名を冠する狙撃銃、PGM社の長距離狙撃小銃Mini Hecate 338。ボディを軽量化と耐久性の点からアルミ合金を使用した現代の名銃だ。フランスで生まれた魔女が祝福する、大口径の三三八ラプアマグナム弾の速度は音速の三倍。六百メートル以内の距離なら、敵が音を感知するよりも早く死が訪れる。『女帝の闇宮リリス・ハート』により強化された魔弾はまさに、敵へ静寂な死を与える死神だった。本来なら、二脚を使って腹這いになりながら撃つ銃だ。それを恢は、新しく生やした骨の腕で強制的に固定し、立射で狙撃した。彼我の距離はたった、二百メートル。ただし、レミリアを背負ったまま走り続けた状態で、周囲の魔物に牽制をいれながらだ。

 全長約千二百九十ミリ、重量約六千二百グラム。アルミ合金が使用され、重量がおさえられている。フランスの次世代を担う優等生だ。ボディから数センチ浮いた銃身が熱を持ち、陽炎を纏っている。立て続けに十発も撃てば、銃身は目玉焼きが焼けるほどに熱を持つのだ。

 たとえ『女帝の闇宮リリス・ハート』で退魔被甲された状態でも、発射された弾丸は自然界の影響を受ける。彼の能力はあくまで、射出された弾丸が持つ物理的エネルギーを退魔の力に換算する能力だからだ。重力による落下、風に傾き、距離にズレ。当てるのは狙撃手の役目だ。それはつまり、彼が異能による補助や銃器の性能を差し引いても、熟練の軍人と遜色ない腕を持っている証拠である。彼は、条件次第では、千メートル先だろうが〝当てる〟のだ。

 透明な砂礫へと回帰する銃器を地面に捨て、恢は煙草を口に咥えようとして、レミリアに後ろ髪を引っ張られた。

 その時だ。後ろからガリガリと小気味良い音が聞こえたのは。振り返ると、そこには魔物よりもなお、暗く冷たい怪物がいたのだ。

「おいおい、まだ懲りねえのかよ。手前も難儀なものだな。……ベルエオだったか? 正直、レミリアを苛めた奴の名前なんて口に出したかねえが、どうせ今日で最期だ」

 魔物の群れを掻き分けるように、怪物が、ベルエオが恢達の前に立ちはだかる。その姿を見て、レミリアが短い悲鳴を上げた。

「恢、あれ、おかしいわ。とけてる」

 彼女が言った通り、ベルエオの肉体は〝融けて〟いた。まるで、ガスバーナーで焙られたプラスチックのように。数百年も生き続けたのだ。今日まで動いていただけでも奇跡だろう。

「どんなに辛くても、今日で報われるって思えば頑張れるもんだ。けれど、希望が奪われれば精神的な反動は大きい。そういうことだろうよ」

 レミリアのような〝処女〟を手に入れられなかったからこそ、ソフィアと結合し、醜くも生き長らえて来たのだ。しかし、ソフィアはもういない。一度破けた革袋は何度でも穴が開く。そして、中身は必ず零れてしまうのだ。

「れぇええええええええみぃいいいいいいいいりぃいいいいいあぁああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」

 動く汚泥が、少女の名前を呼ぶ。化け物としての形さえ失われつつあるベルエオはレミリアにとって、侮蔑対象でしかない。必死になって、恢の背中にしがみ付くのだ。

「恢、負けちゃ駄目よ」

「……そいつは、当然」

 右手に新しく展開されるのは、H&K社のMP7。P90と同じく個人防御用火器パーソナル・ディフェンス・ウェポンに数えられる。グリップが弾倉を兼用するデザインとシステムは自動式拳銃と同じだが、そのサイズはサブマシンガンと同等の四百十五ミリ、肩に当てるストック部分を伸ばせば六百三十八ミリに達する。小口径高速弾である四・六ミリ×三〇弾の速度は音の二倍強。片手で構え、恢はベルエオへと銃口を向けたのだ。

「とっとと、退場して貰おうか」

 分間九百発の連射は弾倉に込められた四十発の弾丸を百分の五秒で吐き出してしまう。

 ベルエオの肉体へと突き刺さり、蜂の巣にする。しかし、周囲の魔物が一斉にざわめきだした。数秒後、恢は敵に背中を見せてでも逃げるべきだったと後悔することになる。

 まずは、グリズリーにも似た魔物の咆哮が乱舞した。牙が突き立てられ、剛爪が振るわれ、血と肉が雨となって散った。恢を攻撃したのでも、レミリアが傷付いたのでも、ましてやベルエオに反旗したわけではない。魔物が魔物へと、同族同士で争いだしたのだ。その一角だけではなく、鳥の魔物は互いに翼を折り、眼球を抉った。狼の怪物は首根っこを食らい合った。骸骨同士が剣を振るい、各々の身体を砕いた。次々と死が折り重なっていく。そして、反比例するようにベルエオの存在感が増していく。水飴が煮詰められるように、影がだんだんと濃くなるように。

「……まさかこいつ、魔物の魂を吸っているのか?」

 それが生きている以上、魂は所持しているものだ。恢は総毛立つような怖気に足元を奪われかけ、背骨に力を入れた。正気の沙汰ではない。人間の魂が水ならば、魔物の魂は真っ黒なタール同然だ。たとえ、快楽主義で無差別に百人以上の罪のない人々を殺しても、魔物のような濃さまでは染まらない。彼のように〝契約〟しているならばともかく、無秩序に魔物の魂を食らい続ければ、人の形など失う。ならば、元から人の枠から外れた悪魔憑きがさらに魔物の魂を食らおうとすればどうなるのだろうか? 答えが今、目の前にあった。

「恢。私、世界一汚いパズルを見たような気分だな」

「……あれを見て、そう思えるなら立派なものだな」

 恢達は〝それ〟を見上げた。あるいは〝それ〟に見下ろされたのだ。

 現れたのは、形成されたのは竜だった。西洋の神話、昔話に登場するような翼が生えた蜥蜴。ただ、途方もなく大きかった。上下の顎に生えた牙は長く太く、鋭く、深い銀色を湛えている。大樹の根や幹を想わせるような筋肉を纏った前脚と後ろ脚は、象さえ一撃で仕留めるだろう剛爪で武装されている。鱗は黒曜石のように艶のある漆黒。広げられた両翼の幅は五十メートルを軽く超えていた。尻尾は大型の重機械。大人が両手を広げても届かないだろう双眸に宿る光は赤が混じった金色。血に塗られた太陽の罪。

 ――だが、あまりにも歪だった。一言で表すなら、不純物が数多く混ざっていたのだ。

 たとえば、鱗。黄緑の小さな鱗があった。赤くて大きな鱗があった。剛毛が生えているものがあった。氷に覆われているものがあった。

 たとえば、爪。大きさが、長さが、厚さがまるで揃っていない。ねじくれた爪もあれば、歪んだ爪もあった。一本の指に重なって伸びる爪もあった。

 たとえば、胴体。不自然に筋肉が盛り上がっている部分があった。童子が作った粘土細工のように。四肢のバランスが壊滅的なまでに狂っていた。翼には穴が開き、双眸からは血や黒い何かが滴っている。

 現れたのは、竜の形をした〝何か〟だった。

 あまりにも多くの魔物を取り込み過ぎたせいだろう。一個の形が〝ぶれて〟いるのだ。

 もっとも、恢一人なら〝どうとでも〟なった。彼が使う『女帝の闇宮リリス・ハート』は、それだけの対応が可能である。しかし、今はレミリアを背負っている。下ろそうにも、周囲にはまだ魔物が群れをなしている。少しでも離れるのは危険なのだ。強大な敵を前にして、男は選択を強いられる。このまま戦うか。あるいは、少女を見捨てでも生き延びるか。きっと、考えるまでもない。

「恢」

 レミリアが名前を呼ぶ。続けられた言葉は、命乞いでも、鼓舞でもなかった。

「煙草、吸っても良いわよ」

 なによりも、それは恢にとって祝福だった。

「……まあ、迷う必要はねえな」

 取り出された煙草をアークロイヤル。場所は違えど、運命は違っても、誰かのために新しい出会いを得た匂いを肺一杯に吸い込む。バニラフレーバーが全身を駆け巡るように力を与えるのだ。

 ――それでも、運命は何度でも〝人〟を試すのだ。

「その勝負、僕も混ぜて貰えないでしょうか?」

 声が真横を抜けた。恢が見たのは細身の背中だった。黒いスーツを纏う男が魔竜へと単独で突貫する。レミリアが、男の名前を呼んだ。

「……レイド?」

 今まさに、剛腕を振るって地面を掬い上げようとした魔竜へと煌めく何かが投擲される。一瞬、世界が真昼の明るさを取り戻す。元ベルエオの巨体へと、白銀眩しい光の帯が無数に絡み付き、拘束する。恢は知らない。それは彼自身を〝実験台〟にされて、昨夜に開発されたばかりの『魔女の道具』だと。

 魔竜が四肢を振るい、拘束を解こうとする。光の帯は所々千切れるも、その部分からまた新しい帯が伸びて拘束を緩めない。自己再生及び、自己増幅型の魔術だったのだ。恢にとって、レイドは敵〝だった〟。しかし、もはや殺す対象ではない。聞かなければいけないことが、山ほどあったからだ。

「その化け物は手前の主だろ。それを知って、反旗する理由はなんだ?」

「いいから、とっとと〝コイツ〟を倒してください! この術式は長く持ちませんから!」

 誠実な叫びだった。真っ直ぐな叫びだった。ただただ、純粋な想いだけが乗せられた叫びだった。恢はゴキゴキと首を鳴らし、レイドの背中を睨みつける。彼は一度だけ、こちらへと振り向いた。顔の半分が血で濡れ、欠けた眼鏡の奥で、ギラギラと雄らしい鋭さが充満していた。

「彼女を助けたいのでしょう? だったら、無駄口を叩いている暇などありません。そうでしょう?」

「……全く以って、その通りだが、手前に指図されると色々と不満が残るな」

 瞬時に召喚されたアストラ・カーデックス222が八発の二二口径弾を吐き出し、後方から跳びかかった魔物を撃ち殺す。色を失った回転式拳銃を捨て、恢はレミリアを下ろす。

「少しだけ、余裕が出来た。レミリアちゃんは、そこから動かないでくれ。直ぐに終わらせるから」

 魔竜の動きが止まっている今こそが勝機だった。恢は両腕をだらりと下げ、リリスの力を高めるだけの集中力を煮詰めていく。だが、間に合うか?

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