第二章 ◇


「ふわああぁ。美味しいです~」

 クーラーが程良く効いたバーのカウンターで、レミリアは優雅にアイスココアをストローで啜っていた。粉のココアを少量の御湯でしっかりと練ってから牛乳を注ぎ、融けにくい上質な氷を浮かべた逸品だ。留守番中の少女は、恢の腕が吹っ飛んだことや、腹に穴が開いたことなど知らない。悪魔的な笑顔で銃でもぶっ放しているんだろうなー程度に認識していた。

「こっちのクッキーもどうぞ。ココアに合うように甘さ控えめで焼いたの。うふふふ。お昼はカフェでも開こうかしら」

 レミィが厨房から白い皿を持って戻って来た。とてもではないが、少女一人では食べきれない量のクッキーである。種類も市松からロック、オレンジビール、チョコにナッツと沢山だ。

「ありがとうございます。けど、いいんですか? レミィさん、御仕事があるんじゃないの?」

「いいのいいの。バーの仕事は夜からだしね。それに、レミリアちゃんとは、話がしたかったのよ。恢の所に置くなんて、正直、不安だったんだから」

 レミィがレミリアの隣に座る。大人の女は優雅に脚を組んで余裕たっぷりと微笑みを浮かべるのだ。同性でありながら、こちらが緊張してしまう美貌を前に、少女はココアを飲んで言葉を誤魔化した。恢が傍にいる時とは別の〝ドキドキ〟が胸の中を駆け巡るのだ。

「アイツ、見た目通りガサツだし、口は悪いし。安全の為って言っても心配だったのよ。私の立場上、あなただけを特別視することは出来なくてね。私、一応、機関を抜けた身だから。敵に協力もしないし、味方も必要以上に手伝わない。そんなスタンスなの。ごめんなさいね」

 瞳の奥に見え隠れするレミィの陰に、レミリアは申し訳なさそうに身を縮ませる。

 すると、レミィが慌てて言葉を足す。

「けど、恢が護ってくれるなら平気よ。アイツ、この国じゃ最強の一人だから」

「恢って、そんなに強いの?」

「そりゃあ、機関が認めた男だもの」

 現代、悪魔憑きや魔女、それらに類似する異能〝絡み〟の事件を解決、処理しているのは恢のような個人や、退魔戦闘に特化した機関である。そして、その全てを統括しているのが、世界最大の退魔互助組合『王華総攬騎士同盟おうかそうらんきしどうめい』だ。十五万を超える組織、機関、結社を束ね、五千万を凌駕する人員を抱える裏世界の〝法律〟そのものである。もっとも、組合の規模が大きく成り過ぎたせいで、様々な派閥、思想が生まれてしまい、日常茶飯事的にトラブルを抱えている。レミィが〝政府〟と揶揄したのも『政治家って大きな声で他人の文句を言えばお金が貰えるんだから良いわよねー』という痛烈な皮肉である。

 同盟は政府に左右されない。代わりに、国を護っている。

 ちなみに、恢も一定の組織には所属していないものの、名前だけは《王華総攬騎士同盟》に貸している。そうしなければ〝処罰〟されるからだ。戦闘で破壊した器物の弁償、情報操作も全て、組合任せだからだ。凶悪な野良犬は処理されるが、鎖に繋がれた飼い犬は餌を貰って芸をする。世知辛い世の中だ。

 ただし、彼の場合は契約している悪魔が悪魔だ。ほぼ、好き勝手に放置されている。そして、彼本人も能力を悪用などしない。

「まあ、数ある悪魔の中でもリリスと契約したわけだしねー。普通、同盟に連行されて適当な位でも押し付けて〝駒〟にするのが通例でしょうに」

 なかなか物騒な台詞に、レミリアが危うくクッキーを喉奥に詰まらせかけた。裏の世界の住人にとって、物騒は日常だ。足元で転がっている死体よりも、今日の昼に食べるご飯のことを考えるのが常識だ。ゆえに、致命的な価値観の相違が生まれる。少女が硬直していると、バーの女は『あ、しまった』とばかりに口元を押さえた。

「大丈夫よ、大丈夫。馬鹿みたいに強いから大丈夫。女をハラハラさせるのが仕事な馬鹿なの」

 それは、安心していいのだろうか。大人の男女の関係に、レミリアは子供ながらに複雑な想いだった。いつか、自分がこんな風に笑う日が訪れるのだろうか。

「……恢って、悪魔憑きなんですよね。リリスって、そんなに凄い悪魔なんですか? レミリアさんの言い方だと、とても特別な存在のように聞こえます」

「こっちの世界じゃ有名よ。元は、バビロニア神話に登場する〝夜の女王〟やアッカド神話に名前が残る妖怪〝キ・シキル・リルラ・ケ〟と同一視されていたわ。リリスとして名前が登場するのは旧約聖書。世界で最初の男性アダム、そして世界で最初の女性イヴ。けれど、アダムの最初の妻はリリスだったの。後に、彼女は多くの悪魔と、えーっと、その交わ、その、協力して沢山の悪魔を生み出したことから、悪魔の母親とも呼ばれているわ。だから、悪魔崇拝の邪教では、キリスト教でいう聖母マリア並に崇拝されている。ある意味で、ソロモンの魔神よりも高位の存在であるリリスと契約しちゃったの、恢は。リリスと契約した記録は同盟にはなかった。つまり、彼が最初なの。ある意味で、再婚相手とでも言うのかしら」

 リリスがアダムと別れたのは性の不一致だとか、浮気とか、セックスがマンネリだったとか、そんな曲解さえ残っている。そして、そんなことは全く知らないピュアなレミリアは胸のモヤモヤをはっきり〝認識〟出来ず、首を傾げたのだった。悪いのは全て、恢だった。

「レミリアちゃんも魔人なのよね。何か、能力は使えたりするのかしら?」

 魔人――先天性や後天性、力の大小に限らず〝なんらかの異能〟を得てしまった者達の総称である。この場合、異能を宿している点が重要視され、異能を学び行使するだけの魔女は魔人に含まれない。

「私は、少し身体が頑丈なだけです。なんでも、数代前の先祖返りだとか。詳しくは分かりません。物心ついた頃に孤児院にいたもの」

「そうなら、何でアイツらはレミリアちゃんを狙うのかしら。恢を相手にしてまで奪うメリットなんて。……ああ、ごめんなさい。怖い話だったわね」

「ううん。むしろ、レミィさんの考えも教えてください。私、待っているだけは嫌なんです」

 強い意志が込められた瞳は、宝石のように光り輝いていた。

「私、皆に迷惑かけてばかりで、それが嫌なんです。だから、考えるのだけは放棄したくないんです」

 レミリアもまた、戦いたいのだ。彼女はけっして、弱くないのだ。悲劇のヒロインになるのは〝真っ平ごめん〟なのだ。芯の強さは、もう立派な大人だろう。どんなに小さくて粗末な鉄屑だろうが、炎を与えて鍛えれば矢尻になるだろう、穂先になるだろう、刃になるだろう。

 凛とした空気に一本の線が伸びていた。ピンと伸びた背筋は心の強さの表れだ。だからこそ、レミィも無下にはしなかったのだろう。『私も、まだまだね』と自嘲するように微苦笑を零す。

 慈愛の中に、どこか悔しさが見える。まるで、子の成長に複雑な感情を抱く母親のように。

 そして、レミィが纏う空気が少しだけ冷たさと非情さを〝思い出した〟のだ。自分から望んでいたとはいえ、その変化に驚きを隠せない。これが、今さっきまでクッキーを焼いていた女と同一人物なのだろうか。バーのマスターが、魔女としての表情で、穏やかに語り出す。

「仮説はいくつか立てられるわ。レミリアちゃんの中に、神話クラスの力が眠っているのか。貴女の血筋になんらかの利益があるのか。あるいは、貴女と言う〝餌〟で恢と戦う理由、そのものがあるのか。けれど、どれも憶測の域は出ないわね。一つ、はっきり言えるのは」

 一度言葉を切り、レミィがクッキーを齧る。甘さの中に苦味をアクセントにするオレンジピールは誰のための味だろうか。

「いっぱい死ぬわね。誰もが大きな戦いの渦に巻き込まれて――全部、滅茶苦茶になっちゃうのよ」


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