第二章 ②
たった一秒が水飴のように引き延ばされる。同じ時間を共有したのは、二人だけだった。
恢の左腕が上から糸で引っ張られたかのように振り抜かれ、一歩前に踏み込んだライラが右の拳で眼前の虚空を殴った。数百の硝子窓が同時に砕け散ったかのような音が周囲に透明な雨を降らす。そして、再び世界は元通りに、とはならなかった。
「貴様。よほど死にたいらしいな。私のレイドに少しでも傷を付けてみろ。たとえナザレの聖人が許しても、私が許さん。その存在ごと宇宙から消し去ってやる」
「か弱いガキ一人を虐める奴の言葉なんざ聞く価値もねえな。分かった。こうしよう。今日ここで、決着をつけよう。手前二人とも、ここから帰れると思うなよ」
さあ、殺し合いを始めよう。殺気立つ二人の間に割って入ったのは他ならぬレイドだった。ライラが憤怒の形相で男の肩を掴む。
「レイド、退け! そいつ、いまから、八つ裂きにする。貴様の手出しは無用だ」
「何を言っているんですか! 今日、此処には〝交渉〟をしに来たんですよ。忘れたんですか? 今戦っても、勝てるわけがないでしょう」
レイドに窘められ、ライラがギリギリと歯を鳴らす。猛烈に、相当に、苛烈なまでに悔しそうだった。しかし、掴んでいた肩から手を放し、恢を睨みつける。それだけで、済んだ。
「貴方も、此処で戦うのはナシにしましょう。確かに、貴方なら僕達を簡単に殺せるでしょう。けれど、肝心の情報が手に入らない。僕達がレミリアを追う理由を知りたくはありませんか?」
荒削りの交渉だった。何も、素直に話をする理由などない。適当に痛めつけて口を割れば済む。どんなに堅固な精神だろうが、腕を二本も千切ればたちまち素直になるからだ。ただ、無駄な殺しをしたくないという気持ちも嘘ではない。なにより、こちらが悪魔憑きだと知って、何も対抗策を講じずに接近するだろうか。何かしらの罠を張っていても、おかしくはない。
一先ずは慎重に動くべきだろう。恢は煙草を口の端に咥えて、相手の言葉を急かしたのだ。
ライラは日光から逃げるようにゴミ山の影へ移動する。レイドは逆に影に足を踏み入れない。
恢は二十メートルの距離を置いた。左腕からは完全に力が抜けている。まるで、筋肉の腱でも切れているかのように。
「そういえば、ソフィアとは会ったのですよね。どうでしたか?」
「三〇八ウィンチェスター弾を防がれたのは久しぶりだったから驚いたよ。今日はいないみたいだが、どっかで観察でもしているのか?」
「……ふん。アイツは今頃、街で〝美味い物巡り〟でもしているだろうさ。下の苦労など、上には分からないのだからな」
憎たらしげに口元を歪めたライラの様子に、恢は敵ながら同情を覚えた。こいつらにも、苦労はあるらしい。
同じ〝仲間〟としてなめられるのを嫌ったのか、レイドがわざとらしく咳払いをしたのだった。
「僕達はソフィアの〝父親〟が掲げる願望に手を貸しています。そして、その願望にこそ、レミリアが必要なのです。神凪恢よ。悪魔の母から愛された男よ。どうか、聞いてください。ただし、約束出来ますか? ここでは絶対に、僕達には銃を向けはしないと」
「御託はいいからとっとと話せ。ここで手前らを撃っても旨みは少ねえ。〝その時〟が来たら、遠慮なく撃つだろうけどな」
短くなった煙草を握り潰し、恢は新しい煙草を取り出そうとする。しかし、残念。箱の中は空っぽだった。男は舌打ちを飛ばし、コートの内ポケットから新しい箱を取り出す。表面を覆っているビニールを剥がそうとしてカリカリカリ――、
「ソフィアの父親は、レミリアの身体を使って〝新しい自分〟を生み出すつもりなのです」
そして、とうとう、恢の両眼が完全に〝濁った〟のだ。
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