第五章 ⑧
なにもかもが〝沈黙〟した。魔竜の姿はどこにもなかった。夏特有の暑苦しい熱気を孕んだ闇夜だけが周囲を満たしていた。尻餅をつきかけ、なんとか足を踏ん張る。だが、背中に全速力で抱きついて来た少女の勢いに押され、そのまま恢は倒れてしまった。
「いたたたた。もう、恢ったら、ちゃんと踏ん張りなさいよ!」
「あーうん。なんで、俺は怒られてんのかなー」
褒められるとばかり思っていただけに、世の中は理不尽だなーと漠然に思った恢だった。とりあえず、身体を起こし、周囲を確認する。
「どうやら、脅威は消えたみたいだな。……そっちのあんたらも、調子はどうだい?」
ちらっと恢が一瞥する。レイドへと甲斐甲斐しく肩を貸して立たせたライラが、こちらへと不服そうな視線を向けた。思えば、この女からは敵意と殺意しか向けられていないような気がする。何か、対抗心でも燃やしているのだろうか、レミリアが彼の腰回りに抱きついた。
「ええ、ようやく全てが〝終わり〟ました。感謝しますよ、神凪恢。これで、肩の荷が下りた」
「そうか。……俺は、少しばかり聞きたいことがある。出来るものなら、すっきりさせておきたい。無論、あんた達が言いたくないのなら、無理に言及はしないさ。それだけの話だよ」
口を開きかけたライラをレイドが手で制した。男は恢の後ろへ向けて指を差す。
「レミリアを、魔女の元へ。ここから先は、大人の話です」
「ちょっと、私を子供扱いする気? そもそも、私が関係しているんだから、私が聞くのが道理ってもので」
癇癪を起しかけたレミリアの口を手で押さえ、恢は回れ右をしてやっと到着したレミィへと少女を押し付けた。
「レミリアちゃん。よかった無事だったのね。……で、恢。これはどういう状況?」
「男同士の話し合いだ。レミリアちゃんを、声が届かないところまで連れて行ってくれ」
「……あ、そう。男って、女に隠し事するのが矜持だとでも思っているのかしら? 行きましょう、レミリアちゃん。ああいう馬鹿な男に騙されちゃ駄目よ」
じたばたするレミリアを、レミィが上手いことを言い包めて連れて行く。すると、ライラが反対方向へと足を進め出した。
「私は先に待っている。時間がない。とっとと済ませろ」
「ええ。申し訳ありません、ライラ。最後まで、僕の我儘に付き合せてしまって」
「……さいごならば、遠慮するな。お前がお前らしくあることが、私の幸福なのだからな」
レミィにもあれぐらい言って欲しいものだと恢は羨ましそうに、去りゆくライラの背中を見詰めたのだった。そして、相対的にここは、男同士の場所となった。レイドが、頬へ伝った汗を指で拭い去った。
「さて、どこから聞きたいですか?」
「お前達二人は、最初からレミリアをベルエオに渡すつもりも、俺を殺すつもりもなかった。そうだろう?」
「ええ、その通りです。まあ、ライラは本当に貴方を殺そうとしましたけど、僕との約束を護ってくれたみたいですね」
時間がないと知っているから、お互いに遠慮はなかった。
「レミリアは、お前にとって〝なんだ〟?」
レイドは少しだけ迷った。
それでも彼は、はっきりと言ったのだ。
「レミリアは、僕の血の繋がった〝妹〟です」
不思議と、恢は、驚きはしなかった。むしろ、すとんと納得している自分がいた。レイドがレミリアに向ける視線は、とてもではないが〝他人〟に向けるような類ではなかったからだ。
どこか不安そうだった。まるで、初めて補助輪を外した自転車に乗った妹の背中を見守る兄のように。
どこか安堵していた。まるで、風邪にかかった妹の熱が下がるまで看病し続けた兄のように。
どこか悔しそうだった。まるで、自分以外の誰かに、異性に笑顔を向ける妹の姿を見てしまった兄のように。
「僕が十歳の頃、両親はレミリアを捨てた。彼女は人間の両親から生まれた先祖帰りの魔人だった。僕の家系は、人としての純血を好む。だからこそ、彼女は捨てられた」
どれだけの怒りと悲しみが渦巻いているのだろうか。恢は、今日初めて、レイドが〝怖い〟と感じた。細身の男は、寒さに震えるように両肩を縮める。熱を求めるように、喘ぐように呼吸を繰り返す。
「ベルエオの〝配下〟になって、数年。レミリアが、あの男に狙われたと知った時は、運命を呪いました。信じたかった。妹は、平和に過ごしていると。きっと、自分を捨てた家族のことなど忘れて笑顔で生きていると。僕は! どうにかしなければいけなかった。だから」
言葉が止まる。
レイドと目が合った。
彼は何を信じたのだろうか。
「その時です。恢、掃討屋としての貴方の噂を耳にしたのは。僕は、レミリアを護りたかった。けれど、僕にはそれだけの力がなかった。他の誰かを〝利用〟するしかなかった。それが、貴方です」
恢は僅かに目を見開いた。
こちらが目を合せようとすると、先にレイドが視線を外す。
彼は今、ここを見ていない。もっともっと、遠くと、ここではないどこかを見詰めている。
「幸いにも、貴方が拠点とする日高市は儀式をするのに打ってつけだった。加え、ベルエオの行為は同盟としては許し難い。だからこそ、大義名分が必要だった。貴方の死を手土産にすれば、機関を動かすのは難しくない」
「そこまで手が込んでいると、怒る気も失せるな。そうか。俺は最初から利用されていたのか」
「……ええ、その通りです。最初から、レミリアを護らせるために利用させてもらいました」
ぎこちなく、レイドが苦笑する。恢は新しい煙草に火を着けた。アークロイヤルが日常の彼と今の彼を見えない糸で結んでいた。
「だから、ライラって奴は俺を本気で殺そうとしなかったのか? いや、あの時は本当にやばかったんだけどな」
今思い出してもぞっとする。きっと、一生心臓を刺された痛みを忘れはしないだろう。
「彼女は最後まで反対していましたから。恢なんて殺して、私達でレミリアを護ればいいと何度も訴えました。けれど、それは出来ない。僕達は、ギリギリの一線までベルエオに逆らえない理由があった」
レイドが咳き込み、口を押さえた手を血で濡らした。恢が反射的に駆け寄ろうとする、真紅に染まっていない方の手で制された。
「最後に、僕の問いに答えてください、恢」
大きく息を吸ったレイドは、何かを整えるように拳を握り、脚に力を入れた。彼は今、男として一人で立っていた。恢は、煙草を手で握って灰に変えた。それが、同じ男としての礼儀だった。
「彼女を護ってくれますか? レミリアは〝あのような〟儀式の生贄に適した力を持っている。魂さえあれば、死者すら胎児として蘇らせられるでしょう。今、このことを知っているのはベルエオが亡き今、ライラと僕、そして貴方だけだ。けれど、組合が動き出せば勘づかれるかもしれない。『
お願いしますと。
恢は煙草が吸えない代わりに大きく息を吸った。
夜の生温い空気が肺を満たす。その分だけ、彼はレイドに近付いたのだ。
「手前に言われるまでもねえよ。心臓刺されてまで護った子を、今更見捨てるわけねえだろうが。同盟に喧嘩を売るなんざ、俺にはもう、珍しいことじゃねえからな」
それを聞いたレイドは、安堵したように胸を撫で下ろしたのだ。そうして、恢は煙草を口に咥えて彼に背を向けたのだ。――レミリアの下に帰らなければいけないからだ。
「ライラが待ってるだろうぜ、ほらさっさと行け」
「……ありがとう、恢。出来るもなら、君とは敵同士ではなく、友として出会いたかった」
直ぐに足音が遠ざかった。恢は緩慢な動作で足を進め、一度だけ振り返った。そして、声を張り上げて言ったのだ。
「あの子は、俺が必ず護るよ! だから、心配するな! ――あんたみたいな友が出来て、俺は誇りに思うよ」
まるで、友達に背中を思い切り平手打ちされたかのように、レイドが足を止める。しかし、振り返らずに彼は走った。ただ、何故だろう。その足取りが数秒前よりも、格段に軽くなったように感じられたのだ。
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