第五章 ◇


 音が唐突に止んだ。恢は勝ったのか、負けたのか。レミリアは表情を強張らせる。

 レイドは何も語らない。男も表情を固くしていた。眼鏡の奥で、双眸が焦燥で揺れている。

 変化を齎したのは、元気花丸満点で現れた動く絶望・ソフィアだった。視界の端に女の姿が少しだけ映る。瞬間、レミリアは身体中を巡る血が液体窒素にでも変わってしまったかのような悪寒を覚えたのだ。まるで、牙を剥いた狼の顎が、こちらの首筋にでも触れたかのように。

「ライラ御姉ちゃんが負けたみたいだねー。恢一人だけじゃないよ。レミィって魔女が来た。ふふふふ。随分と、強い力を持っているみたい。あれじゃあ、半分は魔神かなー」

 その〝二人〟の名前に、結果に、レミリアの胸が躍った。恢が勝った。それだけではない。レミィまで駆け付けてくれた。絶大な安堵が、脊髄へと注がれるように少女へと力を与える。

「……ライラが、負けましたか。そう、ですか」

 窓の外を眺めるレイドは、隠そうともせず落胆する。その姿にレミリアは僅かな罪悪感を覚えた。恢のことだ。敵を相手に手加減などしないだろう。あの女が死んだ。この男とは、恋人同士だったのだろうか。死は敵味方問わず重い。ただ、ソフィアが不機嫌そうに唇を尖らせる。

「甘いねー、あの新人君は。ライラお姉ちゃんは生きてるよ。それも、魔女に治療させてる。二人で〝ここ〟まで来た方が、勝率は上がるのに、馬鹿みたい。殺すなら、殺せよ」

 冷たく囁くソフィア。レイドは、それほど表情を変えない。男の右拳が固く握られたことは、レミリアだけが気が付いた。

 ソフィアが軽くかぶりを振った。そして――嘔吐した。赤紫の粘土が濃い液体を口腔から外へと押し出す。

「おげろろろろおおおろろろろおろろろおろろろおろろろおろろろろろおろろろろろろろおろろろろろおろろろろろろろろろろろおろっろろろろろ」

 くの字に折られた身体が、今度は捩じれる。四肢が折れ、首が回り、吐しゃ物を撒き散らす。人間としての形が失われていく光景に、レミリアは顔から血の気を引かせた。

「まずい。もう、反動が」

 レイドが上着の内ポケットから注射器を取り出した。逆手に持ち、そのままソフィアの首筋に打ち込もうとして、まるで見えない何かに突撃されたかのように吹っ飛び、壁へと叩き付けられる。

「がっ!?」

 そのまま、床へと倒れる。気を失っているのか、顔を伏せたまま、ぴくりとも動かない。短い悲鳴を上げるレミリア。

 いつまで暴れ続けるのか。しかし、唐突に音が止んだ。ソフィアが、まるで首根っこを見えない糸で引っ張られているかのように、不自然な動作で起き上がった。双眸に光はなく、口元は醜く汚れている。おぼつかない足取りで、一歩、一歩、レミリアへと近寄るのだ。

「あ、あああ、あああ、ああああ、ああああああああ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」

 呻き声には、抑揚はない。何故だろう。まるで、ラジオの周波数でも合せているかのように聞こえるのだ。怖いのに、目が離せない。ややあってソフィアが〝言う〟。いや、別の誰かが口を開いたのだ。

「――アア、やっと〝揺り籠〟が手に入る」

 それは、酷く深く醜くしわがれた愚者の声だった。

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