第四章 ③
屋上で、恢はたまらず煙草を吸っていた。アークロイヤルの煙がレミリアを避けるように南へと流れる。あれから、敵の攻撃はない。あまりにも静かなのだ。それが、逆に不気味なのだ。
「ね、ねえ、恢。すっごく静かだけど、まさか、これで終わりなわけないよね……?」
そうであって欲しいと願いがあったのだろう。しかし、恢はレミリアに嘘は吐けなかった。
「何かしら、準備をしているんだろうな。戦場の空気がどこにも〝抜けて〟いない。今は、嵐の前の静けさってところかな。これから、すぐに騒がしくなるよ。嫌って言う程にな」
がっくりと、レミリアが項垂れる。緊張が限界まで達すると、気絶してしまう者もいる。一秒先で死んでいるかもしれない非日常的なストレスは、幼き心を容易く蝕むだろう。恢は周囲に注意を向けながらも、声だけは日常のトーンへと戻したのだ。
「ところで、今日の夕ご飯は何を作る予定なんだい? すっごく腹が減っているから、量が多いと嬉しいんだけど。レミリアちゃんが作る料理は美味いから、ついつい食べ過ぎちゃうな」
彼女にとっての〝毎日〟が顔を出した。少女の瞳へと、僅かな安堵が漏れるのだ。その手足を苛ませる震えが、微かに止まったような気がした。
「今日は、ハンバーグを作るの。大きなハンバーグよ。フライパン全部を使うぐらいに大きなやつ。ソースだって、手作りだわ。付け合わせは人参のグラッセとブロッコリーよ」
「お、美味そうだな。そんなに大きいなら、ビールのつまみにしても、良さそうだな」
「あんまり飲んじゃ嫌よ。ビールって、すぐに太るらしいわ。三段腹になった恢なんて見たくないもの。海に行くなら、恢だって水着なのよ。隣を歩く私に恥をかかせないで」
楽しそうに、少女が語るのだ。レミリアの言葉が胸に染みる。彼女の存在は、出会った当初からは信じられないぐらいに恢の中で大きなものとなっていた。
レミリアを失いたくはなかった。しかし、それは、傍にいて欲しいということだ。彼の身勝手だ。彼女を硝煙と鮮血が渦巻く世界から助け出さなければいけない。その時、男は少女の背中を押すだけで手は繋げないのだ。いつかは、別れが訪れる。どんなに運命を否定してもだ。
そして、いつだって〝運命〟は唐突で理不尽なのだ。まるで、初めからずーっとそこに立っていたかのように〝彼女〟がいた。
「ソフィアか。あっさりと出て来たな。そろそろ、ネタ切れか?」
「いやー。私も待つのは飽きちゃってねー。なんかもう、終わりでいいかなーって。あ、けれど、君が無償でレミリアちゃんを渡してくれるなら、見逃してあげても」
レミリアの表情が蒼白に染まる。恢は煙草を咥えたまま、左右の腕をだらりと下げたのだ。
「この子を利用して、手前の父親が〝新しい自分〟を生むって話だが、畜生道に落ちる覚悟でもあんのか?」
怒りは静かだった。だが、小さくはない。
それは、爆発する瞬間を待っているのだ。
「いやー、それは言葉通りの意味ってわけでさ。悪いけど、なるべく無傷で手に入れたいんだよねー。とくに、お腹とか、子宮とか、膣とか。だから、無駄な喧嘩はナシにしない?」
恢の目が丸くなった。感情がするりと抜け落ちる。まるで、重力が狂ったかのように、男の足元で亀裂が走った。コンクリートが蜘蛛の巣のように罅割れ、なおも彼は静かなままだった。
くるっと怒りが臨界点に達した。自然と、それが当然だと、それが当たり前だと、左右の手に一丁ずつ銃器が召喚される。右に鋼鉄のCZ75が、左にポリマーフレームのグロック17が。シルバーチップの九ミリ・パラベラム弾が容赦なく放たれる。たった六秒にも満たない間に、計三十四発の魔弾が火を吹いたのだ。
朦々と重なる硝煙の中で、恢の眼光は鋭さを増していく。空になった左手が聖水入りの試験管を掴み、右手がレミィから受け取った退魔の刃・火竜小唄を握り締める。地面を蹴った。
衝突は一瞬だった。近付いたはずの恢は、数歩も後退していた。レミリアの瞳には、彼が弾かれるように下がったように見えたかもしれない。いや、事実〝そう〟だったのだ。
「いやーん、積極的。そういうの、嫌いじゃないぞ」
ケラケラと笑うソフィアの右手に握られていたのは、細身の剣だった。両刃で全長は一メートル弱。刃も鍔も柄も真っ白で単一の物質から構成されている。光沢があり、やや硬質的だが、金属には見えない。かといって、陶器や鉱石でもないだろう。正面からぶつかった火竜小唄の刃が微かに震えている。聖水は、投げつけた瞬間から吹っ飛ばされた。
「おやおや、良い刃だね。どこで買ったの?」
「一流の魔女が鍛えた刃だよ。手前如きに砕けると思うなよ」
「なら、試してみようかっ!!」
少女がふらりと肉薄し、剣を振るう。恢は火竜小唄で受け止め、歯を食い縛った。やはり、人間の枠を超えている。魔人の剛力に対し、真っ向から拮抗するなど人間業ではない。
「手前。やっぱり、俺と同類なのか?」
「その通り。けれど、スペックが違う」
刃を滑らせるように力を逸らされ、恢の身体が横に傾いた。片足が浮いてしまう。身体の動きが一瞬、完全に硬直した。その隙を見逃す程、敵は愚かではない。ソフィアが白い剣を男の腹部へと突き刺した。深々と鍔まで埋め込む。内臓が掻き回され、鮮血が喉奥から逆流して咳き込むと同時に吐き出される。だが、悪魔憑きの男は倒れなかった。逆に紅蓮の火球を展開する。『
左手に召喚されたのは、怒れる雄牛のタウルス680CP。腕を伸ばし、ソフィアの口腔へと突っ込んだ。くぐもった悲鳴を上げる少女。恢の怒りはもう天秤を捨てていた。太い銃口が上顎の歯を砂糖菓子のように砕き、そのまま発砲。内側から頭部へと三五七マグナムを打ち込む。ぐるんと勢い良く双眸が白目を剥いた。発砲を重ねる度に、鼻や眼窩、耳や口から血が飛び散る。四肢が絶頂でも迎えたかのように痙攣し、死と殺意の洗礼を浴びるのだ。
恢はソフィアの腹部を手加減なしに蹴った。小柄な体が宙に浮かぶ。確実に肋骨が砕けた感触が足裏に伝わった。なのに、満身創痍の少女は空中でバク転を決めながら悠々と着地する。
後頭部の七割以上が欠損したはずだった。だが、そこに立っていたのは不気味なまでに健康的な少女が一匹。ソフィアが口元を鮮血で染めながら笑った。レミリアが、貧血でも覚えたかのように片膝を折った。
「『
「さあてね。そいつは、君の実力次第だよ。私の本気を出せるかなー?」
ソフィアの左腕、その手首辺りから新芽が土を割るように骨が伸びるのだ。長さと太さは増していき、右手で根元から綺麗に抜き取る。断面は僅かな血が滲むだけで、傷痕一つない。少女はニヤリと嘲弄の笑みを浮かべて骨槍を放った。亜音速に達する一撃を、恢は火竜小唄で叩き落とす。通常、骨の強度は鉄の三割にも満たない。だが、衝撃音は硬い金属同士の悲鳴だった。
「随分と愉快な真似だな、コイツは」
それでも、恢は退かなかった。おそらく、あの三人の中でソフィアが一番強い。コレを倒せば、優位に立てる。なにより、同じ魔人として、悪魔憑きとして、負けるわけにはいかなかったのだ。
「じゃあ、始めよう。――殺し合いを」
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