第四章 ④
――魔人とくに悪魔憑き同士の戦いは熾烈を極める。何故なら、御互いに〝死に難い〟からだ。『
真なる剣客は〝壊れやすい〟肉体ゆえに精密で流麗豪快な剣技に辿りつく。わずかな負傷が死へと直結してしまうからだ。
ならば、この光景はなんだ? まるで、小型の嵐がぶつかり合うかのよう。獣の戦いと言うにはあまりにも知的で、人間の戦いと言うにはあまりにも荒々しい。暴力と暴力が真正面からぶつかり合う。それはまさに、地獄の光景だった。鬼が二匹、思うがまま暴れていた。
「いいかげん、死んでおけよ。なあ、おい! どうやったら手前を殺せるんだ?」
「いひゃひゃはははははははは! そりゃあ、君、死ぬまで殺すのが私達の道徳だろう?」
恢の右腕が根元から吹っ飛んだ。ソフィアの腹部へと大穴が穿った。それでも、二人は笑ったまま、戦いの手を緩めない。むしろ、もっと激しく、もっと豪快にと苛烈さは増していく。
少女が閉じた日傘で虚空を突く。黄金の波長が列を正して爆発。三角錐状の衝撃波となって飛翔、恢へと迫る。
ソフィアの攻撃を避けた恢が引き抜いた銃器の名はベレッタ・M12。イタリアが産んだ名器であり、スタイリッシュなデザインだ。
「レミリアちゃんから手を退け! じゃないと、本当に戦争が始まるぞ」
グリップと弾倉が一体化しているイングラムとは違い、メイングリップとフォアグリップの中間に弾倉が装着されている。プレスによる大量加工ながら安全装置の面にも気を配り、メイングリップを握らないと引き金が動かないグリップセーフティ機能が備わっている。金属棒の肩当て(銃床、ストックとも呼ばれる)を使用して、高い命中精度を誇っている。
全長、ストック込みで約六百五十ミリ。重量、約三千四百五十グラム。弾倉には九ミリ・パラベラム弾が三十発装填され、一度引き金を絞れば秒速五百五十発の速度で弾丸を標的に叩き込む。
銃口を向けられたソフィアは愉快痛快とばかりに笑うのだ。
「いいじゃねえか戦争で! 私〝達〟はそれが〝正解〟だろうがぁあああああああ!!」
フルオート。三十発の弾丸がほぼ真っ直ぐにソフィアへと迫る。少女は傘で魔弾の嵐を弾き落とした。小細工のない攻撃では、まるで通用しない。ベレッタM12を投げ捨て男へと、魔人の女は軽々と語るのだ。
「いやん、刺激的。けど、ノ―センキュー! 首が飛んだら困っちゃう!」
「そう、つれないこと言うなよ。意外と、病み付きになるかもしれないぜ」
一歩、恢は後方に跳んだ。腹部を狙った骨の槍を辛くも回避。『
「そうだ。それだよそれ! 私が求めていた君の姿だ! いいね、いいね! 実にグッド」
「余裕見せすぎた糞女。とっとと地獄に落ちろ!」
大気を砕く轟音。ソフィアの足元を掠めた一粒弾――スラッグ弾がアスファルトを砕き、黒い飛沫を散らす。それは、面で狙う散弾銃において〝点〟を狙う為に開発された暴力。
「ふっはっ! そこは〝ベイビー〟って繋げなよ。
三メートルの至近距離で剣と槍が、弾丸と骨が、戦意と戦意が激突する。恢はトリガー・ハンドを担うレバーに指を入れたまま、銃器本体を〝ぐるん〟と一回転させる。レバーが作動し、空薬莢の排出、新しい弾薬の装填を瞬時に完結させた。古い時代の銃器だからこそ可能としたターン・ローディング。まさに、踊るように旋回しながら掃討屋は物騒なスラッグ弾をぶっ飛ばし、短剣を振るうのだ。一方、ソフィアは両腕に一本ずつ構えた骨の槍を形状変化させ、姉妹のサーベルへと鍛え直す。どちらも、超接近戦使用。悪魔憑き、それも上位の者達は掠り傷程度なら気にも留めない。たった数ミリ、数センチの乱れで動きに遅れを取りたくないからだ。だから、自然と、当然と、平然と、鮮血が二人の舞台を飾るのだ。頬が裂け、腕が裂け、腹部が裂け、足が裂けようとも関係ない。致命傷さえ避ければ、後は『
バトンのようにウィンチェスターM1887を振り回す恢。踊り子のように双剣を振るうソフィア。二人はまさに、踊っていたのだ。それはきっと、地獄へと手招きする死神達の
「昨日食べすぎだったから気分が良くなったよ。ありがとう。――お礼に、いただきます」
何度、同じことを繰り返しただろうか。
ソフィアの骨槍が放たれる。しかし、それは恢にではなく、愕然とするレミリアへと。男は咄嗟に腕を伸ばし、左手で穂先を受けた。手首から手が千切れ、軌道を崩した槍が明後日の方向へと飛んで行った。
痛みよりも先に、疑問と怒りが脳髄を駆け抜けた。
「レミリアちゃんのことが〝大事〟なんだろう? なら、つまらない真似するなよ。手前の敵は俺だろうが」
火竜小唄を右手で下段に構える。気絶していないのが奇跡なほど、レミリアは怯えていた。
ソフィアが、面白い物でも見付けたかのように笑みを濃くする。そして、閉じた傘を天へと高々に突き付ける。
「君に、私の力を少しだけ見せてあげよう」
そして、魔人は高らかに謳ったのだ。
「踊れ、踊れ、踊れ。我が徒弟よ、我が従者よ、我が軍勢よ。汝らに問う、汝らに願う、汝らに誓う。ここに宣言する。外法の論理を肯定する。崩壊の音色を享受する。勝利の陶酔を祝福する。――狂え、狂え、狂え。ただ狂え! ただ歌え! ただ戦え! 我が汝らの全てを〝受領〟する。ここは鮮血の最果て。全てが燃え尽きる場所。ここが地獄。さあ、ここに集え。闘争と狂喜に酔い痴れる百二十四の兵士達よ。存分に戦えぇえええ!!」
闇夜が爆ぜた。ソフィアの足元から波紋となり、波涛となり、黒き火炎の波が巻き起こる。熱を持たぬ炎から顔を覗かせたのは、魔人魔獣魔物の類。全身が氷で形成されたサーベルタイガーに、肉厚の剣を振り回す炎の巨人。蜥蜴の上半身を持つリザードマン。猪のような頭を持つ亜人・オーク。生きる樹木の怪物・トレント。小柄な身でありながら斧を振り回し、獲物の返り血で帽子を赤く染め直すレッド・キャップ。数多な種類の軍勢が赤銅髪の少女を守るように陣列を組んだ。
「魔物の召喚……それも、並の魔女、百人分ってところか。随分と豪勢だな」
「正解、正解、大正解~。私の『
多勢に無勢。化け物達の咆哮が鯨波と化して恢達を飲み込もうとする。
恢は、火竜小唄をホルスターへと戻した。両腕を空っぽにする。
神経を内側に向ける。精神を硬質化させる。心を紐解く。
己が内へと眠る魔神を呼び起こす。爛々と、恢の双眸が赤い光を湛えたのだ。
「――制約解除。起動術式は『
黒く、蜘蛛にも似た関節を持つ異形の腕が八本、恢の背中から伸長し、接続される。
数多に浮かぶ『
すなわち、MAC10が、スペクトラM14が。SR‐Ⅱベレセクが、KGP‐9が、MP84が、アグラムM2002が、メンドーサ‐HM‐4‐Sが、マイクロUZIが、ミニUZIが、MP5が、エルマ・ベルケMP40が、ベレッタM12Sが、ワルサーMPK、アレスFMG、ステアーTMP、エンフィールド・ステンまで数多く。世界中で製造された短機関銃が一斉に火を吹いた。散弾銃のフルオートよりも高密度、広範囲、圧倒的な魔弾の壁。とてもではないが、敵に回避可能な攻撃ではなかった。瞬く間に紅蓮が地面を飲み込む激流と化した。まさに圧巻。百トンの溶岩にも勝る悪魔の怒り。あるいは、理不尽な世界へと問い掛かける男の憤慨、激情か。魔物が次々と討ち倒され、数を減少させる。――そして、真後ろから声をぶつけられる。
「火力に火力をぶつけるのは下策だねぇ。だって、簡単に視界が奪えるもん」
右肩に骨の剣が突き刺さる。恢は肩の関節が砕けるのにも構わず、振り返って残っていた短機関銃を放った。しかし、そこにソフィアの姿はない。男は勘だけを頼りに火竜小唄を抜き、真横に払う。衝撃が腕に伝わり、正解だったと思い知らされた。もう少しで、首を落とされるところだった。
「悪魔憑きとしてはまだ〝初心者〟ってところか。うふふふ。甘いねー、可愛いねー」
「ごちゃごちゃうるせえな。その減らず口、ぶち抜いてやるよ!!」
散弾銃のイジェマッシ・サイガ12を引き抜き、恢は未だに距離を広げないソフィアへと十二
「くふふふ。足りないね」
ソフィアの髪が赤紫に染まり、伸長、増大する。眼前を覆う盾となって散弾を阻むのだ。それは恢が使う『
恢は犬歯を剥き出しにして足を踏ん張った。それは狂犬風情の殺意。獲物の肉を食らって飢えを満たし、血を啜って渇きを癒す獣の如く。いつもの彼なら、もっと冷静だった。
ソフィアとの違い。それは、経験の差。強敵を前にして、恢は最初からアクセルを全開で踏み込んだ。確かに、速い。だが、勢いがついた物体とは、ちょっとした力で簡単に乱れるものだ。――絹が裂けるような悲鳴。咄嗟に首だけを後ろに曲げ、瞠目。レミリアの周囲に、少女の身丈よりも数倍大きな魔物が召喚されていた。地球産の文献に当て嵌めるのなら、それはデュラハンだった。槍を持つ首無し騎士達が十二名、か弱い少女を囲む。
「誰かを守って戦うのは初めてだろう? 甘い、甘いぞ〝新人〟! 私達の戦いに部外者なんて必要ないんだよ! さあ、そんな子供捨てちまえ! 見捨てろ! 見なかったことにしろ! 三秒で忘れちまえ! 君の敵は目の前にいる私だけだ。じゃあ、他の全ては不必要だよな? そうだよな? 暴れようよ、滾るだろ? 滾るだろう!? さあさあさあ、此処からが化け物同士の本領が発揮される。存分に暴れ――」
だが、恢は踵を返した。彼の背中を、ソフィアが呆けたまま眺める。そして、表情を反転。憤怒へと変えた。
「この、大馬鹿野郎がぁああああああああああああああ!!」
「……悪いな。俺は、今、どうしても、レミリアちゃんを助けないといけないんだよ!!」
約束だから。レミリアを守ると、恢は誓ったのだ。そして、彼は彼女の元へと駆ける。後方から、膨れ上がった殺意が飛来するのを確かに感じた。己が弱さを振り払わんと叫ぶ。
「――制約解除。起動術式は『
トレンチコートが白銀の板金鎧へと変化する。半秒後、無数の衝撃が彼を襲う。豪雨となって背中を叩いたのは弓を構えたデュラハン十二騎の一斉射撃。一発一発がライフル弾さえ凌駕する威力を持つ。ソフィアは己が元へ集った弓兵達へ、烈火の怒りを飛ばす。
「蜂の巣にしろ。体中の穴から血を吹き出させるんだ。……私は、ようやく〝同類〟に会えたって喜んだ。なのに、君は〝その程度〟か? 純粋に戦いを楽しむことすら出来ないのか? なら、それは〝化け物〟じゃない。ただの〝人間〟だ。人間風情が、私の闘争を汚すな! だから、ここで死ね。不愉快だ。酷く、不愉快だ」
だが、ソフィアの頭部が数割、弾け飛んだ。右側頭部がごっそりと削られ、ツーテールの一本が千切れ飛ぶ。恢の右肩に白骨化した腕が伸び、上下二連式の散弾銃、ベレッタSOで十二番径のスラッグ弾を放ったのだ。彼が使う『
「安心しろ。寂しい想いなんてさせはしない」
彼はただ、前だけを向いて走った。レミリアを、誰にも渡さないためにだ。
槍を構えた騎兵達がレミリアを襲うよりも先に、恢は間に合った。『火竜小唄』へと力を注ぎ、即座に張られた結界により、穂先の殺到を阻む。そして『
「大丈夫か、レミリアちゃん」
鎧を解いた恢が正面から彼女の顔を覗き込むようにして、レミリアの肩を掴む。恐怖で顔を強張らせた少女の瞳が数秒遅れて理性を取り戻し、焦点を彼へ合わせた。小さく、息を飲む音が一つ。怖い時間はやっと氷解してくれた。目頭を熱い雫で潤ませる。だが、その口が震えながらも何か言葉を紡ぐよりも先に――、
「……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………あっ」
恢の左胸から冷たい鋼刃が飛び出した。それは、彼が背中から刃で貫かれたということだった。それは、彼の心臓が鋼鉄の刃で貫かれたということだった。それは、彼の生命が無慈悲に刃で貫かれたということだった。口から零れたのは真っ赤な血。喉奥から逆流する熱に恢は苦悶で顔を歪めたのだ。身体中、内側で〝何か〟が蠢く。それは、激しい痛みであり、緩慢な痛みであり、鋭い痛みであり、鈍い痛みであり、極寒であり、灼熱であり、猛毒であり、絶望であり、耐え難い苦しみを彼に与えた。一秒毎に魂が削られていくかのような消失感に襲われ、足と頭は天地の感覚を忘れた。そして、真後ろから声。
「なるほど。正攻法が利かぬなら、搦め手か。汝の気持ち、よく分かるぞ、掃討屋。誰しも、己が大切な者を守ろうとすれば隙が生まれてしまうのだ。それが、誰かを守り慣れていない者なら尚更だろう。――痛いか? ならば、抜いてやろうか」
ずるり、と。肉を削ぎながら刃が引き抜かれる。恢の左胸から激流のように鮮血が溢れ出す。黒が濃い灰色のトレンチコートがどんどん、生命の残滓で汚れていく。大きな身体が、膝からその場にくずおれた。彼はようやく、自分がもう、一人では立つことさえ出来ないと知った。首を後ろへと曲げた時間は僅かに数秒。だが、脳髄で荒れ狂う痛みは永久にも感じる。そこには、褐色肌の悪女、ライラが立っていた。
そして、そのすぐ後ろには細い男、レイドが悲痛な表情を湛えている。
ライラが〝それ〟を右腕の逆手で握り直す。恢は彼女の獲物をはっきりと見定める。
純金だろうか。刃は月明りを浴びて金色の光を放っている。刃渡り約三十五センチ。緩やかな弧を描く流麗なさまは日本刀にも似ていた。幅広の刃は両の腹部分に複雑精緻な模様が刻まれている。柄や鍔も豪奢な装飾が施されていた。太陽を食らわんとする狼の顎から零れた炎を清廉たる神意と共に硬質化させれば、似たような刃が打てるかもしれない。本来、ただの刃に裂かれた傷など一瞬で完治する。しかし、恢は止まらない血の熱さに肝を冷やしたのだった。『
魔術的な術式付与。それも、レミィ以上の魔女が鍛えた武器。いや、本当に人間が造ったのか? 思い出す。古い文献を思い出す。かつて、人々と〝それ以外の何か〟は密接な関係にあった。古い時代、人は神や精霊と交信していた。ならば、現代に残っていてもおかしくはないのだ。高位の〝人間ならざる存在〟が創造した武器が残っていたとしても。
「……刃に刻まれた妖精の
苦し紛れの言葉だった。恢はもはや、指一本動かすことさえ、儘ならなかった。
「ほう、分かるか? その通りである。刃の模様は人間の手で刻まれたモノではない。悪魔憑きの貴様らが地獄の魔物や魔神から力を受け取れるのだから、魔女が他の次元に存在する〝何か〟と交信できてもおかしくはないだろう? これぞ我が切り札『妖精卿の刀鍛冶』が鍛えた『
反撃、不可能。
恢の身体が真横に倒れ伏した。意識を繋ぎ止めるだけで、精一杯だった。今、自分は何を見ている? 空か? 地面か? それさえも分からない。視界は急速に狭まり、熱は遠く、痛みさえ彼岸の彼方へ。全ては過ぎ去り、泥のように精神を犯す。
通常、心臓が傷付けば肉体の防衛反応として、必要な血液を確保しようと動悸が激しくなる。なのに、今の彼はどんどん左胸の鼓動が弱っていくのだ。ライラが言った通り、対悪魔憑き用の猛毒が身体中を犯し、機能停止に陥らせようとしているからだ。
「恢、恢! 恢!! なんで、どうして、どうしてぇぇええええ!!」
レミリアが恢の前で膝を突いた。少女の小さな手が左胸を押さえ付け、止血を試みる。だが、無慈悲にも鮮血は黒い地面へと零れ落ちるのだ。
「あーらら。もう終わり? いやー、惜しかったねー。もうちょっとだったのに」
ソフィアの声がする。足音が一つ分増える。ライラが不機嫌丸出しに、吐き捨てるように言った。
「温いぞ、ソフィア。我には時間がない。遊びなど無用。殺すなら、確実に殺せ」
「はいはい。ってか、もう終わりっしょ。私も、その刃だけは勘弁したいなー」
そうして、ソフィアがレミリアへと近付く。少女が顔から血の気を失った。歴戦の悪魔憑きは頬を吊り上げるように笑う。だが、瞳の奥で憐憫の色が僅かに滲んだ。
「ごめんねー、レミリアちゃん。けど、私達も自分達の都合があるんだ。せめて、別れの言葉だけは邪魔しないよ。だから、ほら、存分に思いの丈をぶつけたまえ。ほらほら、ライラちゃーん。こっちに行こう、こっちに。男女の別れに部外者が首を突っ込んじゃーいけないな。――その気持ち、よく分かるよね? 君なら、分かっちゃうよね?」
不服そうだったライラが、ニヤニヤと笑うソフィアの言葉にはっとし、顔を顰め、レミリアへと視線を向ける。そして、つまらなそうに鼻を鳴らしたのだった。
「ならば、我々は先に『儀式場』へと戻るぞ。此処から先は、もはや、我も予測は出来ん」
そうして、ライラとレイドは本当に、その場を立ち去った。
ソフィアは距離を開け、やはり薄気味悪い笑みを浮かべて二人を見ている、眺めている、観察している。
レミリアは、恢を見下ろし、ボロボロと涙を流しながら彼の名前を呼ぶのだ。
「恢。恢、なんで、なんでよぉ。恢、恢……私、あなたがいないと嫌なの」
彼は五感の全てが摩耗していく中で、確かに聞いたのだ。少女が嗚咽する音を。確かに見たのだ。流れる涙の煌めきを。途切れかけた意識を、寸前で繋ぎ止めたのは、男の意地だった。
「……泣い……………………………………………………ちゃ…………………………………………………………駄目……………………………………………………………………………………だ……………………………………………………………………………………………レミリアちゃん………………………………………………………………………………………………」
手を伸ばしたかった。なのに、身体はちっとも言うことを聞いてくれない。多分、三十センチちょっとでも手を伸ばせばサイドポケットに入っているアークロイヤルが吸えるのに。酸素が欲しかった。大きく咳き込み、血の塊が吐き出された。レミリアは今、どんな表情をしているだろうか? 願わくは、泣いている顔ではなく、笑っている顔が見たかった。
今、納得した。恢は信じたかったのだ。こんな自分でも、誰かを救えると。その手で、護れるのだと信じたかったのだ。酷く、自分勝手で、それでも譲れなくて。その結果が、今の様だ。きっと、罰だ。悪魔に魅入られた自分〝なんか〟が、少女を守ろうとした罪だ。なら、十分だった。自分の命で彼女を守れたのなら、お釣りが貰えるほど満足だった。充足してはいけないのだろう。認めてはいけないのだろう。だが、どうしても眠い時は、なんだって『まあ、いいか』と思ってしまうものだ。
「喋らないで! 今、救急車呼ぶわ。大丈夫。日本の医療って凄いのよ。お金が必要ってなら、私が払う。何だってする。何でもする。……だから、死なないで。お願いだから、死なないで。生きて、お願い。私を、私を〝独り〟にしないでぇぇええええええ!!」
悲痛な叫びが耳に痛い。胸の傷よりもずっと痛い。レミリアに伝えたいことが沢山あった。それでも、時間は無情にも恢の魂を奪う。だから、これが〝限界〟だった。
「………………………………………………………………………………………………ごめん」
そうして、恢の意識は深い、深い、とても深い闇の底へと落ちてしまったのだ。
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