第一章 ◇
どれだけ恐ろしい体験をしても、喉元を過ぎてしまえば自然と冷静さを取り戻す。そして、胃袋は空腹を思い出す。レミリアはカウンターに並べられた料理を見て、感嘆の溜め息を零したのだった。
千切ったレタスとトマト、アボガドと生ハムを和えたサラダ。ドレッシングはジュレ状に仕上げ、万遍なくサラダに絡み、皿の下に溜まるような勿体なさを起こさない。
七月の今が旬、マコガレイのフライ。白身魚の淡白な味わいを手助けするのは梅肉ソースの酸味と塩気。クレソンの緑を足して彩りも美しい。
ピザのように三角に切り分けられたスパニッシュ風オムレツ。具は厚めに切られたベーコンにチーズ。半熟なんて可愛らしいことは言わない。しっかりと焼き、重量感を主張する。
白味噌に一晩漬け込んだ鶏肉を一口サイズにして切った照り焼き。細く麺のように切られた大根と組み合わされ、黒ゴマが散らされている。
「今直ぐ用意出来そうなのを片っ端から持って来いなんて、そんな注文するの、恢だけよ」
レミリア用のコップにアップルジュースを注ぐレミィが淡い微苦笑を零したのだった。バー『蒼い鳥』はダイニングも兼用している。恢は三杯目のウォッカアイスバーグを一口飲み、左隣に座る少女を一瞥した。
「俺の奢りだから遠慮しなくていいぞ。味は保証する。この街じゃ、レミィの料理がピカ一だ」
「あら、ありがとう。貴方が素直に人を褒めるなんて珍しいから驚いちゃったわ」
「……たまには、そういう気分にもなるさ。少なくとも、俺はレミィが作った酒にも料理にも嘘はつかない」
髪を頭の後ろで一本に纏め、服はレミィが持っていた空色のワンピースを借りた。どうして大人が子供サイズの服を持っていたのだろうか? 本人曰く『そういう気分の時もあるのよ』らしい。
レミリアはごくりと生唾を飲み込むも、直ぐに手を伸ばしはしなかった。
文無し。即ち、恢の奢りである。そして、大抵は対価を求められるものだ。レミリアは、彼を完全に信用したわけではない。けれど、お腹は正直だった。ズゴゴゴゴゴと地響きのような音が狭い店内に響き渡る。顔を入浴の火照り以上に真っ赤にした少女へ、大人二人分の視線が向けられるのだった。
「そこまで警戒しないでいいわよ。コイツ、街で起こった事件を解決するのが仕事だから、むしろ君を助けないと色々と面倒なのよ。私達は〝良い大人〟じゃないけど、君に危害をくわえるつもりはないわ。……恢が、どうやって貴女を助けたのか、忘れたわけじゃないでしょう?」
その言葉に、レミリアは顔を上げる。今日出会ったばかりのレミィが、少女の前にコップを置いた。恢は黙って煙草を吸い、紫煙の広がる先を見詰めている。
恢はどうして助けてくれたのか? 易い戦いじゃなかったはずだ。あの時、彼女を庇うために男は心臓を魔物に差し出した。そこまでして、何故。金か? 名誉か? 違う。どちらも違う。――助けたいと願ったから? 護りたいと思ったから?
「い、いただきます……」
レミリアがフォークを握った。サラダに伸ばし、レタスと生ハムを突き刺す。ゆっくりと口に運び、顎を閉じて言葉を失う。ジュレ状のドレッシングだからこそ、味が濃く、野菜がしな垂れるのを防ぐ。新鮮なレタスのシャキシャキした食感が楽しく、和風醤油ベースの味付けに生ハムの柔らかい塩気と甘みが絶妙に合う。
マコガレイのフライは揚げたてでまだ温かい。芳ばしい衣が、白身魚の淡白な味わいを後押しする。梅肉の酸味が食欲を掻き立てる。クレソンと合わさり、揚げ物の脂っ気を程良くリセットしてくれるのだ。
奇妙な半熟で、食べているのか飲み込んでいるのか分からない中途半端なオムレツとはわけが違う。スパニッシュ風オムレツは噛めば噛むほど、味わいが深くなる。まるで、ハンバーグでも食べているかのような食べ応えなのだ。卵のまろやかさにベーコンがどっしりと助力し、チーズは〝ふくよかなおっぱい〟と称されるテティージャ。水分が多く、熱が通されてもむっちりとした食感が楽しめる。癖がなく素朴な味わいで、とてもマイルドだ。
白味噌がかかった大根を多目に鶏肉に絡めて一口でパクり。漬ける時間が長すぎれば味噌が強過ぎ、短すぎれば弱過ぎる。だが、この照り焼きはどうだ? 鶏肉の旨味を味噌が引き立て、白だからこそ余計な主張をしない。大根の微かな辛みがさっぱりと食べさせてくれる。
少女にとって、一日ぶりの食事だった。もはや頼まれても箸を止めるつもりなどない。最初の二分こそ上品に食べていたものの、そこからは子供らしく元気な食事だった。
レミィは黙ってグラスを拭き、恢は静かにカクテルを飲むだけだった。
そして、ようやくレミリアがフォークを置いたのは三十分後だった。どの皿も、綺麗に空っぽである。
「こんな上等な物を食べたのは、生まれて初めてね」
アップルジュースを豪快に飲み干し、レミリアが御腹を擦る。空腹は満たされ、途端に緊張の糸が緩む。思えば、何時間〝あんな状況〟だったのだろうか。どっと疲労感が身体を満たす。
このままベッドに寝転がれば、十秒と経たずに意識が奪われるだろう。ただし、レミリアは背筋を伸ばしたのだ。
恢へと向き直り、膨れた腹を隠すかのように胸を張る。
「じゃあ、ぼちぼちと話しましょうか」
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