第五章 ◆


 建物の外で、ライラは〝それ〟を眺めていた。だんだんと、女の表情は険しさを増していく。

 おそらく、この場で彼女だけが揺れの正体を正確に見抜いていた。ライラは空を見上げ、遥か果てに覗く月へと囁いたのだ。

「意外と、早かったな。それとも、あれが悪魔憑きとしての実力か。……都合良く、避けられんか」

 もしも、ライラだけの独断で動ければ、まだ彼女は救われた。しかし、そこに〝彼〟はいない。だからこそ、まだ戦いは終わらない。終わらせるわけにはいかないのだ。

「ライラ!」

 その声に、優しさはなく、まるで少しでも早く彼女の脚を止めたいかのよう。ライラは振り返る。どうか、止めてくれるなと心中で訴えながら。レイドは、甘さを捨てられないからだ。

「レイドよ。そんなに慌てるな。まだ、何も始まっていないのだぞ。それとも、独りじゃ寂しいのか?」

 彼は、レイドは、複雑な表情を湛えていた。彼は機械ではない。元々、優しい男なのだ。自分の全てを壊してまで、過去さえ否定して〝此処〟にいる。ライラの覚悟など、彼の前では小さいものだ。思えば、この男は〝食えない〟と改めて感じる。こんなに傍にいるのに、なんと遠いのだろうか。

「私は行く。お前が言うように、足止めをすればいいのだろう? 何も間違えたりなどしないさ。安心しろ。私は強い。少なくとも、あんな悪魔憑きに遅れなどとらないさ」

 それが誇張だと、気付けないレイドではなかった。男は硬く拳を握って、理不尽な世を呪う。

「僕に……俺に、戦う力があったら、君をこんな場所になんて連れて来なかったのに」

「今更だろ? くくく。レイドはさっさとレミリアを見てこい。また、ソフィアが悪戯するかもしれないからな。お前こそ、いいのか? 少しぐらい言葉を交わしても許されるだろう?」

「ああ。それこそ、無粋ですよ。僕に、それだけの権利はない。もう、望めないことですから」

 悲観か後悔か、嘆きか。眼鏡の奥で、レイドの双眸が揺らぐ。ここだけ、真冬の寒さを思い出したかのように。

 ライラは周囲を見回す。薄寂れた場所。此処が、レイドと過ごす最後の場所になるなんて、なんという皮肉だろうか。贅沢は言わない。もっと〝普通〟の場所がよかった。それこそ、まだ二人きりだった〝あの家〟で。贅沢だと、遠い夢だと分かっていても、欲を捨てられないのが人間なのだ。

「そろそろ行く。――頼んだぞ」

 止まっていた脚が動く。前を塞ぐものは何もない。だから、背中を叩いた言葉が胸に染みた。

「僕は、貴女と出会えて幸せでしたよ、ライラ」

 脚は、止まらない。後ろ髪さえ引かれない。その一言が、何よりも幸福だったからだ。

「間違えるなよ、レイド」

 足取りは軽い。

 横顔には笑みさえ浮かぶ。

 彼女は彼女の意志で死地へ向かうのだ。

「ふふふ。私は、幸せ者だなぁ」

 レイドと出会えて幸せだったと、心の底から信じられたのだ。

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