第五章 ◆


 緩慢な痛みと共にレイドは意識を覚醒させる。震える腕で何とか上半身を起こした。脳の奥に駆け抜けた痛みに一瞬、意識を失いかける。重力が何倍にも感じられ、視界を取り戻すだけで三十秒も要した。壁に手をついて起き上がり、周囲の惨状を見て、全てを察する。

「そうか。彼が、間に合いましたか。……ふふふ。そうか、そうですか。間に合ってくれましたか」

 そうして、レイドは外へ出ようとした。その時だ。足元から声が転がったのだ。

「レイ、ド、おにい、ちゃん?」

 視線が下に滑り、レイドは天をあおいだ。そこには、下半身を失ったソフィアが仰向けに倒れていた。断面からは夥しい量の血が流れ、目は虚ろ、皮膚は死人と同じ土色だった。まだ、息をしているのが奇跡だった。悪魔憑きとしての力は全て、父親が下半身と共に奪った。入れ物の残骸である少女にはもう、迎えるべき明日はない。

 彼女は、父親の身勝手に振り回され、数百年も生を引き延ばされた。魂は焼けただれ、来世さえ失われた。それでも、愛しい父を探すのか、虚空へと手を伸ばす。白濁した瞳では何も見えないのに。

「おにい、ちゃん、おとうさん、どこ、どこにいるの? 私、まだ、だいじょ、ぶ、だよ?」

 レイドは、胸郭を震わせながら大きく息を吸った。足元に落ちていた注射器ではなく、腰に差していた純銀のナイフを引き抜く。ソフィアはもう、助からない。ならば、少しでも彼女の不幸を早く、少しでも早く終わらせなければいけない。

「わたし、あいじょう、ぶ、まだ、たあえゆ、から、ちゃんと、おとうさん、やくにたって、わたし、まだ大丈夫、だから、まだ、わた、わたし、まだ、あ、う、え、たた、うー?」

 固く柄を握り締める。レイドはソフィアの前で跪く。手を必死で伸ばす少女へと、精一杯、優しい声で言ったのだ。

「君は、本当によく頑張りました。貴女の父親も、自慢の娘だと、喜んでいましたよ」

 嘘はこんなにも苦く、心を狂わせると、レイドは久しぶりに思い出した。

「ほんと、に?」

 満足そうに、ソフィアが微笑み。


 ――柔らかい笑みを浮かべたまま、胸に銀の刃を飾ったのだ。


「もう、眠りなさい。憐れで報われない子よ。……大丈夫だ。まだ、僕達は負けていないのですから」

 ナイフを抜かず、レイドは手を伸ばす。少女の瞼を優しく閉じるのだ。今、彼がソフィアの命を奪った。命を賭けてレミリアを助けた恢と己を比べ、暗い笑みが頬を引き攣らせる。何度も何度も、言い聞かせた筈だ。己自身に。自分は絶対に〝正義の味方〟になれはしないのだと。

 レイドはゆっくりと歩き出す。足を引きずり、外へと出る。濃密な悪意が、遊園地という枠を満たし、異界と化していた。魔術的な訓練を積んでいない人間ならば、一時間と経たずに発狂してしまうだろう。残された時間は少ない。それでも、進まなければいけない。眼光はギラギラと、明日も知らない羨望で乾いていた。ここにはいない〝彼女〟を想い、男は戦場へと戻るのだ。

 ふと、数時間前の光景を思い出す。ソフィアは、恢を倒すためにレミリアを襲った。あの一瞬だけはきっと、父の束縛から離れていたのだろう。ゆえに、散弾で頭部を吹き飛ばされても、笑っていたのだろう。そんな、強敵に出会えて満足だったのだろうから。ならば、後は重い残すことはないと信じたい。

「俺達の不幸を、今日、終わらせよう」

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