第三章 ⑦


 なんでこんなに俺は疲れているんだろうかと、恢は目頭を軽く揉んだ。大きなショッピングモールの傍にあるビルの三階、小さな喫茶店で男は一人、窓の外を眺める。レミリアは御手洗いへと向かった。なんでも、花を刈ってくるらしい。女は大変だと、曖昧に同情する。

 今時、普通の喫茶店はあまり流行らないのだろうか。客は片手の指で数える程度だ。恢は注文したアイスコーヒーを啜りつつ、レミリアの帰りを待つ。煙草は、ぐっと我慢した。

 時刻はいつの間にか午後四時を越えている。昼飯を食べてから三時間以上も経過していることに、軽い驚きを覚えた。今日はなんだか、時間が流れるのが早い気がする。

「そういえば、こんな風に一日を過ごすなんて随分と久し振りだなぁ。何年振りだろう。もう、思い出せないな」

 薄っぺらい苦味と香りを感じつつ、恢は目を細めた。今、自分は遠い場所に来てしまったのだろうか。思い出してしまう。あの日を、脳裏に映してしまうのだ。指先が微かに痺れる。それは、過去の痛みだった。十年以上の時を経てもなお、男を苦しめる猛毒だ。

「……そりゃあ、信じてみたいだろ。証明したいだろ。今更、ビクついてんじゃねえぞ」

 自分自身を奮い立たせるために、恢は呟く。それはまるで、心中へと楔を打つかのよう。深く、深く、誓いと言う名の楔を突き立てるかのように。なんて自分は脆いのだろうかと泣きたくなってくる。こうまでしないと、女の子一人を守れないのだ。腹に溜まった苦い痛みを洗い流すかのようにアイス珈琲を飲み干す。氷をガリガリと齧り、嚥下し、その冷たさに幾分か冷静さを取り戻す。ああ、駄目だ。本当に泣きたくなってきた。

 現状は最悪の一歩手前だ。たとえ、彼がソフィア達を掃討したとしても、レミリアは一人のままで、帰る場所がない。人身売買に協力している孤児院に戻すなど以っての外だ。

 どんなに偽っても、取り繕っても、やはり紛い物なのだ。ずっと面倒を見る? そんなことが可能なのか?

 魔人を求める組織、機関は世界中に存在する。魔術による武装集団『紅薔薇の魔女連合ユニメルウィッチ・ユニオン』。古い時代の研究に生涯を燃やし尽くす『ベリハザードの哭竜』。悪魔憑きそのものを研究する『聖リオラの裁断刀』。異能者同士の戦いで賭け事を行う『バングラーシュ・ヘドナ』に捕まれば、一生、金持ち相手の見世物に晒される。――そんなことは、絶対にさせるものか。

 この世界には、敵が多すぎる。当然だ。本来、魔人は忌むべき存在だ。この世に居てはいけないのだ。だから、孤独で、独りぼっちで。あまりにも、寂しくて。

「俺は、どうしてレミリアちゃんを助けたんだ? ……あの子が、女の子だったからか? 俺はそんな〝みっともない〟理由で彼女を助けたのか? 自分の寂しさを紛らわすために助けたっていうのかよ。なんだよ、それ。畜生、情けないな、俺は。結局、自分のためかよ」

 どうしても捨てきれない、人間としての〝欲〟が彼の決心を鈍らせる。人間の心を失っていないからこそ、恢は今、悩んでいて、苦しんでいた。男はあまりにも〝弱かった〟。

 背筋に無数の罅が入ったような気分だった。今、きっと立てない。足に力が入らないからだ。もしも、この椅子に背凭れがなければ、後ろへと引っくり返ってしまうだろう。ただ、恢が喫煙席なのを良いことに煙草を吸おうとした時だ。レミリアが小走りで戻って来た。

「ごめんなさーい。ちょっと遅れちゃって……」

 少女の言葉が末尾から掠れてしまう。レミリアは椅子に座らず、恢の傍に歩み寄った。

「恢、どうしたの? 何か、悲しいことでもあった? 辛いことを思い出したの?」

 どうやら、顔に出ていたらしい。こっちの方が、よほど〝みっともない〟。恢は精一杯の笑みを浮かべた、つもりだった。しかし、逆にレミリアは素手で棘に触れてしまったかのように、顔へ苦痛の色を浮かべた。少女は彼に手を伸ばしかけ、触れることに躊躇する。まるで、今にも壊れそうな硝子細工の上に、大切な指輪を落としてしまったかのように。

 レミリアは右手を左手で強く握った。震えを押さえるように。恐怖を抑えるかのように。そして、ふっと表情を柔和にする。彼と違って、それは演技ではない。

 まるで、慈母のように。あるいは、母が子にするように。悪夢を見た弟を姉が慰めるかのように。少女は彼を、その胸に抱き留める。目の前が色々な意味で真っ暗になった。ただ、ここまで怖くない暗闇など他にあるだろうか。一瞬、何が起こったのか分からなくて、思考が凍りついてしまう。氷解させたのは、レミリアの優しい声だった。

「無理しなくていいのよ。恢は、もっと私に甘えていいの。もっと、私を頼って」

 まるで、夢の中に身体が落ちてしまったかのように、恢は重力を忘れてしまう。

「そりゃあ、出会って一週間ちょっとした経っていないけどさ。なんとなく、分かるよ。恢は、きっと、怖いんだよね。ときどき、すっごく不安そうに目尻へ力を入れるわよね。だから、もっと私に甘えて。強がらなくていいの。――私は貴方を見捨てないから」

 女性の胸で、その柔らかさの中で、その温かさの中で、恢は心の中で何かが決壊する音を確かに聞いた。男の瞳から涙が溢れ、耐え切れずに頬を伝う。ただ、顎には落ちず、レミリアのドレスが透明な雫を吸い上げた。彼の静かな嗚咽を、彼女は恐れない。

「ごめん、レミリアちゃん。……俺、駄目だな。なんか、最近、変だ。おかしいな。夏風邪でも引いたかな?」

「その時は、私がちゃんと看病するわ。何も心配しないでいいのよ」

 レミリアの気遣いが嬉しくて、同じぐらいに自分が恥ずかしくて。やっぱり涙が止まらない。

 今、此処が喫茶店で、少ないといっても客が居ることを、恢はすっかり忘れていた。一方で、ようやく自分の行為に気付いたレミリアの方は、耳まで真っ赤にしている。ただ、胸に顔を埋めた男には何も見えないから、静かな嗚咽はもう暫く、続くのだった。

「そう。恢は何も心配しないでいいの。…………だって、私が傍にいるんだから」


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