第一章 ◆


 恢が戦っている廃ビルを、物静かに観察している人影があった。奇跡的に営業を続けている小さな出版会社の屋上で彼、レイド・グレーブは金網フェンス越しに〝それ〟を凝視するのだ。


 ビルとビルの距離は直線距離で大凡八百メートル。深夜、それも肉眼となれば遠くどころか己の手元を見ることさえ難しい。だが、彼の眼には、はっきりと映っていた。


 身長は百七十センチ代後半。歳は二十代半ばだろうか。全体的に線が細く、黒縁眼鏡をかけた顔も好戦的には見えない。猫でも膝に乗せて、日向で読書でもしているのが似合いそうな男である。薄い金色の髪は短く、その双眸は曇り色。空を満たす灰色の陰りだ。着ている服に、なんら変わった特徴はない。ガイコクジンであることを考慮しても、簡単に街中にとけこんでしまうだろう。だが、それでこそ意味がある。少なくとも彼〝ら〟にとっては。


「まさか、掃討屋が介入するか。極東で活動しているとは耳に届いていたが、こんなに早いとは思ってもみなかったよ」


 そう言ったのは、彼ではなかった。レイドは振り返り、穏やかな微笑を返す。


「確かに、事態は逼迫している。それでも、僕はあまり困っていませんよライラ」


 ライラと呼ばれた少女は、眉間に皺を寄せて小首を傾げたのだった。


「ふん。私は、胃薬でも欲しい気分だよ」


 身長は百六十代前半、歳は十代後半程度だろうか。蜂蜜を濃く煮詰めたような瑞々しい褐色肌である。瞳は深い青を湛えたオーシャン・ブルー。髪は肩に触れる程度と短く、優しき熱で融かされた月光を砂糖菓子のように細く梳いたような艶がある。美しさの中にきりりと煌めく凛々しさがあり、豹の精霊と戦乙女が交われば彼女のような子が生まれるかもしれない。

 それは、踊り子としての美と、戦士としての勇を持ち合わせた特異な存在であることの証明でもある。残念なのは、レイドと同じく黒いスーツを纏っている点か。ドレスでも纏えば、実に映えただろうに。


 ややハスキーなアルトボイスが、レイドを非難するように口調を荒くする。


「私達に、余裕などないとちゃんと理解しているのか? だから、あんな低俗な組織と交渉する場など設けたくなかったんだ。初めから、力づくで奪えばこんなことにはならなかった」


「けれど、あの組織が自滅してくれたお陰で僕達は行動し易くなった。それに、これも計算の内ですよ。まだ、儀式の準備が整うまでは時間がある。下手に手元へ置いておくよりも、安全な金庫に保管する方が、余計な苦労はしなくて済む」


「……リリスと契約した男を〝金庫〟扱いとは、な。あの男、戦闘能力だけならソロモン級の魔人に匹敵する。あるいは、魔神とだって互角に渡り合えるだろう。金庫どころか、人食い鬼が住む屋敷にでも逃げ込まれた気分だよ」


 ライラが苦々しく顔を歪める。ただ、かぶりを振って冷静な表情を取り戻したのだ。


「あの男は私が〝やる〟。だからレイド、貴様は貴様の仕事を果たせ」


 とっても女の子らしくない言動だけど、実は優しい。そんなライラを、レイドは愛おしく思う。


「ええ、分かっています。期待していますよ、ライラ」


「ふん。せいぜい、期待しておくんだな」


 遠くを見渡せるレイド。しかし、ライラの耳元が真っ赤に染まっていることには気が付けなかった。

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