第三章 ◆


 それは、少しだけ古い物語。

『なんだ、こんなところにいたのか。曲者かと思ってぶった切るところだったぞ』

 小馬鹿にするように鼻を鳴らすも、レイドが此処にいるのは周知の事実。後からこっそりと着いて来たのだから。彼は何か言いたそうに煙草を口の端でピクピクと上下させる。

『寒いから、風邪引く前に部屋に戻れよ。お前、結構直ぐに体壊すだろう』

『そう思うなら、女が寒くならないように男は何か工夫をするものだろう?』

 当然だとライラはレイドの右隣に腰を下ろす。肩と肩をぶつけるように近寄るのだ。この距離こそが、自分と彼の距離だと信じて疑わないかのように。あまりにも世界は寒いから、人は誰かの温もりがなければ生きられない。凍えてしまいそうな心を癒せるのは、同じ心でしかない。煙草を吸う男は『ったく、仕方ねーなー』と嘆息する。もっとも、その横顔は心なしか嬉しそうだったのだが。

『ところで、どうして屋根なんだ。煙草を吸うには、此処は寒いんじゃないのか?』

『星が見たかったんだよ。今日は色々あったから、心を落ち着かせたかったんだ』

 レイドの双眸に後悔や落胆がよぎった。ライラは、思わず喉から出かけた言葉を無理矢理押し込んだ。――今日、彼は裏切られた。若い女が彼の優しさにつけ入り、背後からナイフで刺したのだ。最初から、命を奪うために近付いてきたのだろう。こちら側の世界では、信仰の相違があれば殺し合いに発展することも珍しくない。

結果、レイドは己が命を拾うために、女の首を素手で折った。その感触はきっと、耐え難い苦痛だっただろう。ライラは、彼の弱さと脆さが不安だった。いつか、壊れてしまうのではないかと。彼女達の世界では、何よりも強さが生存に繋がる。要らぬ甘さなど捨ててしまえば楽になれるのに。ただ、それでも、彼の臆病な心がたまらなく愛おしい。

『レイドは、何も悪くないだろう。お前が苦しむ理由なんてない!』

 自然と言葉が荒くなった。レイドは優し過ぎる。この世界で生きるには、あまりにも温か過ぎるのだ。

『ありがとう。ライラ』

『ふん。別に、大したことではない』

 彼の孤独を癒したかった。他の誰でもない。自分が、ライラ自身がレイドを愛していたのだから。惚れた強みではない。惚気ではない。彼という存在へ、精一杯の愛を注ぎたかった。この世界で、薄闇の中で、この胸に灯る熱だけは嘘ではないと、証明したかったのだ。

『まだ、帰らないのか?』

『……もうちょっとだけ、いようかな』

『じゃあ、私ももうちょっとだけいる』


 ――あの日から、自分達はどれだけ〝間違った〟のだろうか?


「おはようございます。ライラ。随分と、ぐっすり眠っていたようですね?」

 ベッドの上からレイドに顔を覗き込まれ、ライラは大きな欠伸を噛み殺して目を瞬かせる。ややあって、ようやく脳が動き出し、叫び声が一つ。

「にゃあああああああ! ああああ! なん、なんだレイド! 女の寝顔を勝手に覗くな!!」

「い、いや、そんなこと言われましても。今日は用事があるから昼前には起こしてくれと僕に頼んだのは貴女じゃないですか」

 先に着替えを済ませたレイドが眼鏡の位置を直す。ここは、観光客に良く利用されるホテルの一室である。起きたばかりのライラはパジャマで、髪もボサボサだ。一気に羞恥心が込み上げて頬へと集約するのだ。

「す、すぐに着替える、いや、先にシャワーだ。いいか、絶対に振り返るなよ。絶対だからな」

 分かっていますとばかりにレイドは窓の外へと視線を向ける。こうなれば、この男は本当に覗いたりしない。少しは根性を見せてくれてもいいのに、と理不尽な欲求が胸の内に沸く。

「朝食はホテルのルームサービスですか? それとも、外で?」

「外にする。いいか、絶対に覗くなよ。絶対だからな!」

 もういっそのこと、清々しい程の〝前振り〟だった。しかし、やはりレイドは小揺るぎもしない。微苦笑を零して窓の外を眺めるのみだった。

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