第二章 ④


 ギシギシと錆ついた階段を上がり、玄関の前まで辿りついた恢は直ぐにドアを開けられなかった。口元に手を当てるようにして、自分の表情を確認している。強張っていないか、引き攣っていないか、壊れていないかと判別しているのだ。五分も顔を指で触り、ようやく深呼吸。

 ドアを開けると、直ぐにトタトタと足音が近付く。恢は目に飛び込んだ少女の姿に、自分が三秒前に何を考えていたのか、すっかり忘れてしまった。

 薄ピンク色のエプロンをかけたレミリアが恢を迎えてくれる。真夏に咲く向日葵のような笑顔を湛えて。

「おかえりなさい!」

 ガツン! と後頭部を鋼鉄のハンマーで殴られたかのような衝撃が恢を襲った。この家で、いいや、生まれてから今日まで、一度でも親しみが込められた言葉で『おかえりなさい』と言われたことがあっただろうか。乾いた心に、雨が降る。湿った土の重さに足が奪われるように、男は言葉を見失う。すると、レミリアが怪訝そうに首を傾げたのだ。

「どうしたの? ほら、そんなところにいないでちゃんと靴を脱ぎなさい。御仕事は上手くいったの? 夕ご飯が出来るまでまだ時間があるから、それまでゆっくりしなさい。あ、お風呂の準備は出来てるから、先に汗を流したら?」

 一つ一つが脳髄の奥に突き刺さった棘を抜いてくれる。ようやく呼吸を思い出したかのように、恢は息を飲んだ。足元がフワフワした。レミリアの姿が、酷く大きく見えるのだ。

「あ、ああ。そうさせてもらうよ。……あと、ただいま」

 薄氷の上に落とした宝石でも拾うように、慎重な声だった。レミリアの顔に浮かぶ穏やかな微笑の眩しさに目頭が熱くなる。彼女との出会いはあくまで偶然だった。幸福な導きではなかった。それでも、この瞬間だけは少女と出会えた巡り合わせに感謝したい。

(俺が、この子を護るんだ。……たとえ、どんな手を使おうとも、レミリアだけは護らないといけないんだ)

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