第三章 ⑧
楽しい時間とは、どうしても惜しみたくなるものだ。恢はレミリアに促され、公園まで訪れていた。時間帯か、それとも人気がないのか、彼ら二人以外に誰もいない。遊具も、ブランコと滑り台、そしてベンチがあるぐらいの小さな公園だ。
ブランコに腰をかけるレミリア。その隣に恢も座る。これから濃い橙色が世界を覆うだろう。夜になってご飯を食べて、そんな穏やかな時間が訪れるだろう。
どちらも、何も語らない。疲れたせいか。それとも、言葉を詰まらせるだけの想いが残ってしまったからか。
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
「そいつは良かった。……うん、良かった」
レミリアの幸福こそが、恢の幸福だった。今日という日が彼女にとって〝楽しい思い出〟になる。これほど、嬉しいこともない。しかし、何故だろう。少女の瞳には、影があった。まるで、何かを後悔しているように。何かを隠しているかのように。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ってくれよ。今更、隠し事するなんて〝勿体ない〟だろ」
「ふーん。勿体ない、ね。なんだが、恢らしいわ」
何か納得したのだろうか。レミリアは僅かに言い淀み、それでも言ったのだ。
「――恢はどうして悪魔憑きになったの? 悪魔憑きってさ、言葉通り、悪魔に憑かれることなんだよね。人間としての人生っていうのを捨てて、悪魔と契約すれば、待っているのは何? 戦うこと? 死ぬまで戦い続けるの? 恢は何が欲しかったの? 永遠の生命? 圧倒的な力? 人でなくなった自分に嫌悪したことはないの? 人間に戻りたいと思ったことはないの?」
随分と遠慮ない問いかけに恢は喉を詰まらせ、咳き込んでしまう。その間、レミリアは言葉を足さなかった。まるで、ちゃんと待ってやるからちゃんと答えろと言外に告げるように。静寂の向こう側に耳を澄ますと、かつての騒乱が脳髄の奥から掘り起こされるかのようだった。右拳を固く握ったのは、胸の激情を吐き出さないようにと堪えたからかもしれない。ただ、男はそれでもゆっくりと語り出したのだ。
「……母親、つまり、俺を生んだ女の実家が魔女の名家だった。それも、日本では三指に入る退魔機関『八柱の
魔術、とりわけ魔女の世界では女は男よりも〝格上〟なのだ。魔術の家系において、女が家長であることは珍しくない。古い時代、日本では男を生まない母親は〝役立たず〟と卑下されるような風習があった。その逆が、恢の境遇だったのだ。
「酷いモノだったぜ。まるで糞か小便でも見るような目だった。まあ、股から出したって意味じゃ同じだったかもしれないな。殴る蹴るは当たり前。バスタブに落とされて死にかけたこともあった。父さんの方は逆に俺を愛してくれた。……それがきっと、駄目だったんだろうな。女は父さんを〝愛して〟いた。その一点だけは変わらなかった」
大きな不幸だ。家を捨てようと、何度も思った。しかし、己の父親だけは捨てられない。彼にとって、自分を愛してくれたのは父親だけだった。独りになるのが、たまらなく怖かったのだ。――そして、不幸が訪れてしまう。恢が十五歳になった時だ。突如、襲われたのだ。己が母親と、その家系に属する魔女に。
「あの時は本当に死を覚悟したよ。けど、そんな生易しいものじゃなかった。あいつらは、俺を無理矢理、悪魔を召喚する儀式の生贄にしようとした。信じられるか? 手前が腹を痛めて生んだ子供を生贄にだぜ? その時は俺も十五歳になって、力関係も逆転していたし、油断していたよ。飲み物に睡眠薬でも入れられたのかもな。で、次に目を覚ましたら、狭い部屋にいた。床に誰かの血で描かれていたのは魔法陣で、俺は鎖で繋がれていたよ。それでだ。呆然とする俺に、あの女は言った。『あなたに悪魔を下ろして本当の魔女にしてあげる』ってさ。悪魔を下ろして性別が変わる魔術があるなんて知らねえが、もう女は壊れてたのかもしれないな」
当然、逃げようとした。しかし、そう簡単には逃げられない。四肢を鋼鉄の鎖に繋がれたのだ。まだ人間だったころの恢ではどうしようもなかった。
「心臓にナイフを突き立てられたところまでは覚えているんだけどな。……気が付いたら、周りにいた人間全員が死んでいた。いや、殺されていたんだよ。俺の手で。悪魔憑き特有の暴走なのか。リリスと契約したからなのか。どちらにせよ、俺は本当の意味で居場所をなくして今に至る。レミィに会わなかったら、掃討屋って商売も思い浮かばなかったな。戦うことを素直に肯定している自分がいた。……もう人間じゃなかったから当然かもな」
レミリアが息を飲んでいた。同情でも拒絶でもなく、ただ驚いていた。恢は妙な気恥ずかしさを覚えた後頭部をガリガリと掻いた。自分で言ってみて、本当につまらない話だと思う。確かに、女に生まれなかったことを後悔した日もあったが、何も悪魔憑きになりたかったわけではない。――ただ、悪魔憑きにならなかったらレミィや彼女とも出会えなかったと思うと、とても複雑な気持ちになる。言葉で、そう簡単に言い表せるものではない。
「……戦いを楽しいと思っている自分がいる。悪魔憑きでも酒は美味いし、煙草も吸いたい。なら、そう悪くないと俺は思うよ。少なくとも、絶望して前を見ないって段階はとうに過ぎている。これでレミリアちゃんの疑問は晴れたかな? 十分な答えにはなったかい?」
今、精一杯、笑えているだろうか。恢はやはり我慢出来ず、トレンチコートのサイドポケットに手を伸ばした。ただ、その右手をレミリアが掴む。そして、まるでキスでもせがむかのように顔を近付けた。此処が戦場なら、死を覚悟する距離だった。呼吸が途絶える。
「私じゃ…………私じゃ、駄目なの?」
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