第4話 魚人は神域の夢を見る・後編
釣り人のようなフロートジャケットを着て、長靴を履いた
周囲は雑木林に囲まれてで見通しが悪く、足元は石と砂利だらけで歩きづらい。
おまけに深い霧まで出ている。
「こんな朝早くから起きるなんて聞いてないよ……ホテルのバイキングだって食べてないのにぃ……」
「飯なら後で好きな所に連れてってやる。悪いが今回は仕事だ」
「
「良いかクチナシ、お前一人で家に置いていけないだろ」
「これで本当に何か有ったら許さないんだからね!」
「安心しろ」
「いや、まあ別に禮次郎に不満がある訳じゃないんだよ。でもまだ父の死体が何処に消えたのかも分からないし……あんまり危ないことをするのも……」
「今回は特別な仕事なんだ。此処に何も無かったらまた別の、もっと社会の常識に沿った方法を考える。安心しろ」
「特別って何さ」
「ああいや、それは、その……あれだ。お前の為に新しい戸籍を作ってもらうことになっていてな」
「戸籍?」
「必要だろう? お前だって父親に監禁される前は普通に暮らしていた筈なんだ。だったら戸籍だって残っている。警察がお前を探す可能性が有るってことだ」
そう言われると、クチナシは黙り込む。
「どうした?」
「ごめん、ちょっと記憶が曖昧で。父に監禁される前に、僕は何をしてたのかなって……」
「記憶が曖昧……」
――自己を守る為に記憶を曖昧にしてしまう程、辛い思いをしていたのか。
表情を曇らせる禮次郎にクチナシは微笑む。
「でも気にしないで。禮次郎が僕の為に頑張ってくれたことは分かったよ。でもそういうの、ちゃんと先に言って欲しいな」
「悪かったな」
「謝る必要は無いよ。今回我儘言っちゃったの僕だしね」
その時だった。
川面がタプンという音を立てて揺れる。
魚が跳ねたにしては大きな音だ。
二人は音の方向を見るが、何もない。
川は相変わらずせせらぎを奏でるばかりだ。
「気のせい、かな……?」
「もうそろそろ、何か出てきてもおかしくない筈なんだが……」
「何かって?」
「神居古潭から少し離れた場所に、川が異常に深くなっている場所が有るって……」
「やめてよ怖い……」
「安心しろ。今回は俺も多少準備して来ている」
禮次郎はフロートジャケットに隠した自動拳銃に手をかける。
クチナシによる捕食、狂気に彩られた手記の発見、二つの異常体験を経て、禮次郎は日常のカゲに潜む神話的な世界に適応しつつあった。
「準備?」
「ああ、護身用に少しな」
しかし、禮次郎は気づかなかった。
事前に周囲の地形についての書籍を読み漁り、ホテルの人間から良く話を聞き、更に合成したアンフェタミンを自ら投与して感覚を研ぎ澄ませたにも関わらず気づかなかった。
自然に溢れた神居古潭の近辺にしては、此処があまりに静かすぎることに。
「だから安心しろ、クチナシ。俺がお前を――」
禮次郎がそう言ったその瞬間だった。
ガサリ。
茂みが揺れる。
薬によって知覚を強化した禮次郎は、クチナシより一瞬早く音に気がつく。
「――ッ!」
黒い毛むくじゃらの塊が、人とも魚ともつかぬ醜悪な怪物の首を咥えて、禮次郎達を見ている。
その羆は禮次郎達を次の獲物と認識し、咥えていた魚人の頭を吐き捨てた。
「くま……?」
「クマァ!?」
禮次郎は呆然と呟く。クチナシが素っ頓狂な悲鳴を上げる。
そしてそれを聞いた熊が興奮し、咆哮する。
体長3m、体重500kg超、小型自動車に匹敵する漆黒の巨獣は唸りを上げて禮次郎へと襲いかかった。
「禮次郎、危ない!」
クチナシが禮次郎を突き飛ばす。
クチナシの子供とは思えない力により、禮次郎は河原に転がる。
吹き飛んだ禮次郎の代わりに、羆の前に飛び出したクチナシの前で、羆は突如立ち上がる。
「――ひっ」
羆が立ち上がるのは攻撃の予備動作だ。
それを知っている禮次郎はそれを妨害すべく、全速力で行動を開始する。
「やめろおおおお!」
地面に転がったまま、禮次郎は懐から自動拳銃を取り出して撃ちまくる。
その自動拳銃の名はマイクロウージー。毎秒二十三発の弾丸を打ち出す驚異的な速射性能を誇る。とはいえ扱う弾丸自体は9mmパラベラム弾と呼ばれる対人用の弾丸だ。羆相手では絶望的に威力が足りない。
点滴岩をも穿つと言うが、それは十分な時間が有ってのこと。
羆の分厚い皮膚の前に全ての弾丸は弾き飛ばされる。
「逃げろクチナシ!」
羆は禮次郎の方を一瞬見た後――
「あ、ごめん。禮次ろ――」
――その両腕を振り下ろした。
禮次郎の目の前で、羆の爪がクチナシの顔を切り裂く。
吹き出す鮮血、目は潰れ、鼻は砕け、顔面が羆の腕に沿って削り取られている。
羆は無言で手についた肉片をぺろりと舐めて機嫌良さそうに唸った。
「畜生! 畜生!」
禮次郎はマイクロウージーを捨て、使うつもりの無かったもう一つの拳銃を取り出そうとした。
しかし、それは取り回しの悪い大型の拳銃だ。
羆が禮次郎に向けて突撃を開始したことで、彼はその準備の中断を余儀なくされる。
「ふざけやがって!」
禮次郎は羆を引きつけてから思いっきり横に飛び、突撃を躱す。
覚醒剤による反応速度の強化が起こした奇跡だ。
突撃に失敗した熊は勢い余って近くの木にぶつかり、なぎ倒しながら自らの速度を殺す。
「ぐあっ!」
奇跡の代償は大きかった。
河原で派手に動いた結果、足元の石に
「これでも――」
禮次郎は地面に倒れたまま、懐からもう一つの拳銃を取り出す。
防御を考えるつもりは無い。
羆はもう目前まで近づき、今にも両腕を振り下ろそうとしている。
しかし、今の禮次郎にそんなことは関係ない。
「――喰らえッ!」
禮次郎は拳銃の引き金を引く。
その拳銃の名はトンプソン・コンテンダー・アンコール。
一般的な狩猟用ライフルをそのまま縮小したようなデザインが示す通り、狩猟用の強力な弾頭を発射する為の拳銃である。
その装弾数はただ一発。
発射と同時にゴキリという音が鳴り、禮次郎の肩の関節が歪んだ。
「ッ!」
痛みに悲鳴を漏らす禮次郎。
だが放たれた.30-06スプリングフィールド弾は羆の鼻先を貫き、頭蓋を割り、脳を破砕した。
四散した肉と血が辺りにへばりつく。
降ってくる脳漿に塗れながら、禮次郎は歓喜の雄叫びを上げる。
「やった! やっ――」
しかし、それで終わりではない。
生命を無くした500kg超の巨体が禮次郎に向けて降り注いでくる。
今の状態で下敷きになれば一巻の終わりだ。
「あっ――」
先程の歓喜が嘘のように、禮次郎は己の命を諦める。
――まあ、それでいいか。
――クチナシが死んでしまったら、結局また俺が必要だって言ってくれる人は居なくなる。
――クチナシを守れなかった時点で、俺なんて生きていても……。
「……?」
禮次郎は首をかしげる。
自分に向けて崩れ落ちてくる筈だった羆はその場で立ったまま動かない。
「大丈夫カ、お前」
「良ク戦った。仲間ノ仇、礼を言ウ」
禮次郎が左右を見ると、人とも魚とも言えない醜悪な頭を持った二人の男が居た。
男達は手に持った槍で今にも崩れ落ちそうな羆の身体を支えていたのだ。
「禮次郎! 大丈夫!?」
「え? え?」
更に信じられないことに、先程羆に殺された筈のクチナシまで無傷である。
フロートジャケットが裂けていたり、泥がついて汚れているが、身体には傷一つ無い。
「良かっ……た」
禮次郎は安堵と疲労と現実を超えた異常事態が連続したことによる衝撃のあまり、その場で気絶した。
*
数日後。
禮次郎は創成川公園にクチナシとピクニックに来ていた。
ピクニックと言っても札幌都市部の真ん中で、自然を楽しむ雰囲気ではないが、穏やかな川と並木は禮次郎の疲れた心に染みた。
二人はベンチに座り、クチナシの作ったサンドイッチを食べながら穏やかな風景を楽しんでいた。
「……くそ、まだ肩が痛む」
「へへ、しばらくお仕事もお休みだね。禮次郎」
「まあな。それにしても訳分からねえよ畜生……あの後何が有ったんだ」
「だから何度も説明しているじゃん。あのお魚さん達が禮次郎の事を気に入ってくれて、応急処置した上で車まで運んでくれたんだよ」
「気に入ったって?」
「あの人達の仲間を沢山食べたあの熊を退治したからじゃない?」
「ああ……そうか」
禮次郎はため息を吐く。
訳が分からない。
「それで、僕が禮次郎の代わりにあの人達に事情を説明したんだよ。貴方達に良く似た人面魚が札幌の創成川に居るって」
「そうしたらそれがあいつらのはぐれた仲間だったってか」
「うん。だからほら、あの人達、人面魚を迎えに来たんだよ。見て、この新聞の記事」
腕が上がらない禮次郎の代わりにクチナシは新聞を広げる。
その新聞の三面には「人面魚消える! 市街地にて謎の鉄砲水!」と大きく見出しが踊っていた。
そしてその記事の下に、この鉄砲水で小さく野次馬が巻き込まれたとも記されている。
「……ったく、馬鹿な奴らだ」
禮次郎は創成川の周囲をうろついていた野次馬達を思い出す。
――馬鹿だったが、死ぬこたぁ無かったよな。
禮次郎は物憂げな表情で煙草を口に咥える。
「火、点ける?」
「あ゛ー、頼むわ」
丁度、その時だった。
「人面魚だ!」
公園の一角で叫び声。
禮次郎とクチナシは持ってきたサンドイッチをその場に置いて声の方へ走り出す。
「マジだ!」
「すっげー!」
「今度は更に人間そっくり!」
集まった人々はいずれも目を輝かせて野次を飛ばしている。
写真が趣味らしい者はカメラを手に取りカシャカシャと写している。
禮次郎とクチナシが見ると、それは確かに人間そっくりの顔をしたまだ小さい鯉だった。
「――あっ、あの顔――」
そう呟いた禮次郎の頭の上を掠めるようにして鴉が川面へと飛んでいく。
衆人環視の真っ只中で、鴉はその小さな鯉を両足で捉え、空へと舞い上がる。
その刹那、鴉の方を見ていた禮次郎は人面魚と目が合ってしまった。
「タスケテ」
鴉は人面魚を捕まえて空の彼方へと消えていった。
「どうしたの禮次郎? ポカーンとして」
「今、声が聞こえなかったか? 助けてって……」
「いや?」
「そうか……」
「疲れてるんだよ、禮次郎は。肩凝ってるもん。ねえ行こう?」
「ああ……」
禮次郎はクチナシに肩を揉まれながら、元座っていたベンチへと戻っていった。
【第4話 魚人は
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