第20話 境界線上の交神規定《プロトコル》 中編
神社に乗り込んだ禮次郎とクチナシが見つけたのは信じられないものだった。
「おいおいおい……こいつはどういうことだ。血の匂いが濃すぎるな」
「どうするの禮次郎? 死体転がってるよ」
「死体か……道理で。俺達が犯人だと疑われかねないぞこいつは」
「げっ、やばいよぉ……」
「北海道の寒村なんかも大概だが、こういう離島の司法制度なんてぐずぐずのぐだぐだだからな。さっさと島から脱出しないと不味いぞ」
神社の社務所を訪れた二人の前には、上半身と下半身を真っ二つにされた神主の老人の死体が転がっていた。
だがむせ返る血の匂いの中にあっても、禮次郎は顔色一つ変わらない。
「でも、島から出るには明日の朝に来る船に乗らなきゃ駄目なんだよね?」
「それ以上に不味いのが、結局この
「あ、そっか。この石って儀式の為に重要なんだよね?」
「ああ、何の儀式かまでは聞いてないけどな。
相も変わらず外は霧が深い。
しかも、沖縄とは思えない冷え込みだ。
「妙だな」
「何が?」
「こんな異常気象なのに、町全体が落ち着いている。いやそれだけじゃない。通信だって遮断されている筈なのに……」
見える筈が無いのに、社務所の外を覗く禮次郎。
一瞬だけ、彼の背筋に寒気が走る。
「……やべえ」
禮次郎には見えていないが、神社の外はきりに紛れて異形が群れなす地獄絵図に変わっていた。
神社の敷地の外を蛇のような影、蜥蜴のような影、豚のような影、魚のような影、赤子のような影、無数の影が群れをなして静かに滑っている。
影は少しずつ浮かび上がり、立体的な肉体を持ち始める。
のっぺりとした質感の、この世の醜悪を固めたようなうごめく影が、名状しがたい声を上げながら、この三次元世界を侵犯する。
もしも直視していれば一時的な発狂を免れなかったであろう光景。
だが禮次郎はこの時、幸運にも盲目だった。
「クチナシ、社務所……あるいは本殿に篭もるぞ」
そう言って禮次郎はカーテンを閉める。
「その社務所の外に死体が有るのに?」
「そうは言うがあんな中を出ていったらその社務所の外に死体が増えるぞ」
「あんな中? 僕なら大丈夫だから少し見るよ」
クチナシはカーテンの隙間から窓の外を覗く。
丁度その時だ。窓の傍に近寄っていたクチナシと、聴覚が鋭くなっている禮次郎の耳に、悲鳴が聞こえた。
「あの声、昼間のチンピラだな」
「助けに行く?」
「そりゃ無理だ」
「行かないの?」
「俺は正義の味方じゃない。化物の敵だ。あいつらもこの近くまで来てたら助けてやれたんだがな」
禮次郎はそんな事を言いながら、神主の死体に手の甲を当てて温度を確認する。
「よし、既に冷たい。こいつを殺した犯人が潜伏している可能性は低い。此処を調べよう」
既に、異常事態に直面して恐れ怯えるような正気は禮次郎に残されていなかった。
あるのは異形への憎悪のみだ。阿僧祇マリアに抱いた憎悪から、阿僧祇マリアに抱いた愛情を削ぎ落としたぬけがら。全ての神話生物と神を殺す純度100%の猛毒。
その一滴だけが、このちっぽけな男の胸の中に詰まっていた。
「ねえねえ、そうは言っても何を探すの?」
そんな禮次郎が恐ろしくて、クチナシはわざと甘えた猫なで声で問いかける。
その声を聞くと、禮次郎の毒気は抜けてしまう。
「ふふ……」
――こんな時に甘えてみせるなんて、とんでもない奴だな。
――帰ったらたっぷりかわいがってやるか。
そんなことを考えて、禮次郎の表情が緩む。
それを見たクチナシは、まだ禮次郎自身が憎悪だけの存在ではないと安堵する。
「この部屋の中にあの怪異について書いた資料が無いかを探そう。少し引き出しの中を探してくれ。普段は誰も手を付けなさそうな災害時対処マニュアルとか、古い日記みたいなものが有ると良い。俺の目になってくれ。良いな?」
「うん、いいよ」
そう言ってクチナシは部屋の調査を開始する。
「……あった。有ったよ禮次郎」
クチナシが社務所の引き出しを幾つか開けると、非常時用と書かれた古びたマニュアルが置いてあった。
「読んでみてくれ」
「うん」
中には火事や地震が起きた時のことが書いてあったが、その最後のページに霧が異常に濃くなった時のことが書いてあった。
「霧が濃くなったら建物内に退去……って、手紙……?」
そしてそのページには一枚の手紙が挟まれていた。
*
この手紙を見ている方へ
知っての通り、この島には名状しがたい何かが居ます。
そして、父はそれに取り憑かれてしまいました。
取り憑かれているといっても、操られているとかそういう意味ではなく、そういったもののことしか考えられなくなってしまったということです。
それもこれも全て島に佐々というお医者様が来てからです。
もう一つの神社で行われている儀式に興味があった彼は、父にその儀式のことについて訪ね、どうも父もそれについて話してしまったようなのです。
さらに悪いことにそのお医者様が父に何かを伝えてしまったが為に、父は神社で祀られている神について調査を始めてしまったようなのです。
最近の父は正気ではありません。その証拠に、きっとこの手紙にも気づかないでしょう。
私は島を出ますが、もしこの手紙を読む方がいらしたら、霧にだけは気をつけて下さい。
霧が出ている間は父に何と言われようが決して社務所の外へ出ずに、一晩を明かして下さい。マジムンは伝承の中だけの存在などではなく、いや、あれは……。あれはマジムンの名を借りた何か別のものなのかもしれません。他の島の伝承とあまりに違う。
ともかく我々はあれをマジムンとして呼び習わしてきて、それで平穏に日々が送られていたのです。少なくともあのお医者様……佐々さんが来るまでは平和でした。
*
「また佐々さんの話だね」
「其処は知らない振りをしておけ。不用意に関わると危険だ」
「分かった。此処でこうしているのも見られているかもしれないしね」
「ああ……それにしても……山の向こうの神社、か」
禮次郎はため息をつく。
この手紙の主は今何処で何をしているのか。
手紙の主が全てを忘れて幸福に暮らしていると思えるほど、禮次郎は楽観的ではない。
――もしこの手紙の主に何かが有ったとしたら?
――それをここの神主が知ってしまったのだとすれば?
――その事実が神主の狂気を加速させたのだとしたら?
禮次郎はため息をつく。人の心はあまりに脆い。
「嫌になるな」
「この後はどうするの?」
「早速だがクチナシ。山の向こうの神社へと向かうことにした」
「もう一つ神社なんて、僕聞いたことないけど」
「ああ、俺も知らなかったけどな。この部屋に地図は有るか?」
「うーん……有った。なんか国土地理院って書いてある」
「だったら精度は疑わずとも良いな。実は、この島は二つの山がある。一つは俺達が今居る神社のある
「あるいは?」
「儀式の舞とかけて、舞山という意味を込めたのかもしれない」
「だったら確かに儀式が行われていても不思議じゃないね!」
「儀式が一種の舞踏だと想定した場合、
「今から踊りは覚えられないものね。ところで禮次郎」
「なんだ?」
「無事に辿り着く宛は?」
「――無い」
禮次郎がそこまで言った時だった。
ゴトン、と社務所の入り口から物音が鳴り響く。
「マジムンか?」
禮次郎は懐から
「待って禮次郎! あれはマジムンじゃない!」
禮次郎達が居る部屋の扉が開く。
「どうもこんばんわ」
「また会いましたね、香食さん」
そこに居たのは昼間に会ったナイアとリリスの二人組だった。
昼間とは打って変わって、ナイアは黒いロングコートと赤いチェックのスカートに黒いブレザー、リリスは蜘蛛の巣柄のスカートに黒いブレザーと、学生らしい出で立ちになっている。
「ナイアとリリス……だったな」
「無事そうね」
「ええ、先程は失礼いたしました」
二人は老人の亡骸に対して特に反応する様子もない。
――もしかして、こいつらが始末したのか?
禮次郎は一瞬身を固くする。
だがそれを気取られぬようにわざとため息をつき、肩をすくめて気安い感じで二人に話しかける。
「立ち話もなんだろう。少しゆっくり話そうぜ。茶ぐらいなら出せるぞ、多分」
「香食さん、私達にはその時間も無いのでは?」
リリスは真剣な面持ちだ。
しかし禮次郎はこういう時だからこそ、あえて砕けたスタンスを崩さない。
――余裕が無いとは思われたら、それにつけこむ相手はゴマンと居る。
知らない相手に手の内を大人しく見せる禮次郎ではなかった。
「お前達の事情は知らないが、俺達はどうだかわからないぜ。少し待てば、霧だって勝手に晴れるかもしれない。外に居るマジムンとかいう奴らもおとなしくなるかもしれない」
「その後にこの島の駐在がここまで来て、貴方達が猟奇殺人犯として引っ張られるなり、リンチに遭うなりしても同じことが言えるのですか?」
「さて、どうだか?」
そうなったら島民を皆殺しにしてでも逃げよう。
禮次郎はそう決めていた。
阿僧祇マリアとの戦いで正気を損なってしまった禮次郎は、それが異常だとも気づかない。
禮次郎は自然と
「話を変えましょう。妹山には行きましたか?」
「お前達は行ったのか?」
「ええ」
「だが稼ぎは少なかったと見える」
「酷いありさまだったわ、あそこは。骨折り損ね」
「ふむ……俺達はヤクザでな。骨しかないような場所からでもしゃぶり尽くすのが得意技なんだ」
「何が言いたい訳?」
ナイアがため息をつく。
禮次郎はナイアとリリスが部屋に入ってきた時からほんの僅かに磯のような異臭を感じていた。
――恐らくこれは返り血か。深きものどもを殺した時と同じ臭いだ。
――ということは、こいつら神話生物と交戦しながら、マジムンのたむろするこの兄山をここまで突破してきたのか。
――使えるな。
「ナイアとリリスだったな。お前達、俺達を妹山まで案内するつもりは無いか? 俺達はこれから神主が耄碌してできなくなっていた仕事を代行したいと思っていたんだが……。お前達の目的は聞かないが、損はしないと思うぜ」
禮次郎は二人の少女に問いかける。
ハゲタカのように抜け目ない笑みで。
「あら、丁度ご一緒しないか誘おうと思ってたのよね」
「ええ、手間が省けました」
対するナイアとリリスは獲物を見つけた豹の如き微笑みでそれに応える。
「ちょっと待って禮次郎。本当に行くの?」
場に漂う尋常ならざる殺気。
怯えたクチナシは禮次郎の方を不安そうに見上げる。
禮次郎は不敵な笑みをそのままに、クチナシの頭の上に手を置く。
「安心しろ」
「……うん」
そうされると、クチナシはしおらしくなって素直に頷いてしまう。
ナイアとリリスは驚いてほんの僅かに表情を変えるが、クチナシは気づかない。
禮次郎は二人に見せつけるようにしてクチナシの肩を抱き寄せる。
「禮次郎!?」
「さて商談はまとまったな。それじゃあ二名様でご案内を頼もうか」
「そうなるわね。ヤクザ屋さんのお手並み、拝見させてもらおうかしら」
「おっとナイアちゃん、一応任侠って言っておくことを勧めるぜ。それだけで気を良くするヤクザ屋は多いからな」
「あら、覚えておくわ」
「途中までは車で行こうかと思うんだが、君達は運転はできるか?」
「ナイアができますけど……車なんて有るんですか?」
「神主の車を借りていくんだよ。決まってるだろう?」
「いいアイディアね」
言うが早いかナイアは社務所の壁にかかっていた車の鍵を手に取る。
「だろ?」
チャリという音の方を向いて禮次郎は如何にも悪党らしい笑みを浮かべた。
【第20話 境界線上の
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