第12話 死骨の湖~ある小説家の悲劇~

 1990/7/11

 深きものについて補足。

 彼等は魚の頭部、人間の胴体、そして水かきのついた手足を持つ怪物だ。

 雄雌が揃っているにも関わらず、人と交わることでその数を増やす。男性であれ、女性であれ、彼等の交配対象として選ばれてしまった場合、最終的には衰弱しきってしまうとされる。

 いずれも旧支配者クトゥルーやその眷属であるダゴンを信奉する。

 北海道には古くから浸透しており、その過程で完全にクトゥルーやダゴンの信仰を忘れてしまったものも居る。

 だが忘れてはいけない。

 如何に邪神への信仰を忘れようとも、彼等の悍ましさに変化は無いのだから。


 ~詞隈●●●の手記より~


     *


 支笏湖。

 其処は北海道でも有数の景勝地。

 その日、二人の作家が、疲れた心を癒やすべく、支笏湖畔の風雅な宿に泊まっていた。

 宿の名は支笏湖ホテル“みずうた”。

 露天風呂と三ツ星シェフの提供する道産素材イタリアンビュッフェが名物だ。


宙悟ちゅうご、お前最近夜中に部屋を出て行くな。一体どうしたんだ?」

緑郎ろくろう、これには深い訳が有るんだ」


 SF作家の和多都美わだつみ宙悟ちゅうごとホラー作家の有葉あるば緑郎ろくろうは大学以来の親友だった。


「訳? 狐にでも化かされたか?」

「非科学的だよ緑郎。それならまだ並行次元とのポータルが開く方が現実味の有る話だ」

「なんだ、なんでも素粒子のせいにすれば説明などつくだろうに。話の分からん奴め」

「不可解な現象の説明を行う為に発展したのがオカルトだ。その担い手たる君が思考停止で素粒子だの言い出すのは褒められた行いではないな」

「ふん! 貴様のことだ! 女でも見つけたのだろう!」

「知らないな」

「先に言っておこう。その女は十中八九ろくでもないからやめておけ」

「あー知らない! 知らない!」

「ついでに言っておこう。その女は自分のことを他言するなとか言っていたんじゃないか? 化物だ! 絶対に化物の類だぞそいつは!」


 宙悟は顔色を青くする。

 それから震える声で叫ぶ。


「ああ! そんな非科学的な事があってたまるか! 俺はもう部屋に戻って原稿を書く! 邪魔するなよ!」

「本当に原稿か?」

「とにかく邪魔するな! 良いな!」


 宙悟はそれだけ言うと有葉の部屋から出ていってしまった。


「……あいつ、ここのところ顔色が悪いんだよな」


 残された有葉はポツリと呟いた。


     *


 支笏湖の湖畔。

 静かな湖畔には人っ子一人居ない。

 そんな中、一組の男女が湖の中にくるぶしまで浸かりながら身を寄せ合っていた。


「また会えたね。アリサさん」


 ホテルから抜け出した宙悟は、果たして緑郎の言う通りに女性と出会っていた。


「ええ、そうね」


 アリサは長い黒髪が月明かりに輝くスラッとした美女だ。

 虚ろな瞳で宙悟を見て、花のように微笑んでいる。


「待ったかい?」

「ええ」

「僕も会いたかったんだよ」

「ええ、私もよ」

「今日は友人に捕まって、中々此処まで来れなくてね!」

「ええ」


 情熱的に美女に語りかける宙悟とは対象的に、アリサはまるで人形のように単調な言葉を繰り返すばかりだ。

 だが宙悟はそれを気にする様子もなく、アリサと語り続ける。


「そろそろ、僕と一緒に来ないか?」

「……」

「何故黙るんだい? まだ嫌なのかい?」


 アリサは悲しそうな瞳で宙悟を見つめる。


「私は……」

「違う! 君のことは誰にも話していない! 此処は僕達だけの秘密の場所さ」

「そうじゃない。私は……」

「僕は君を愛している。君も僕を愛している。そうだろう?」

「ええ」


 頷くアリサの肩を宙悟は抱く。

 そして、水辺から一歩踏み出す。


「だったら行こうじゃないか」


 宙悟とアリサは支笏湖の中心、より深い場所へと踏み出した。

 

「ええ、ええ、ええ、いえ……」

「どうしたアリサ?」

「いえ、いや、いや……!」


 アリサは宙悟に促されるままに歩き続けるが、その表情には明らかな恐怖が有った。


「ああ」


 宙悟は悲しげにうつむく。


「また暗示が解けてしまった。やっぱり僕は父さんみたいに上手にできないなあ」


 そう言って、宙悟はアリサの額に向けて腕を伸ばし……


「人形遊びはそこまでだ」

「えっ?」


 プスッ、と気の抜けた銃声が夜の支笏湖に響き渡る。

 一つ、二つ、一瞬の内に数え切れない程の銃声が鳴り響き、宙悟の身体はチーズみたいに穴だらけになった。

 全身から赤い血を吹き出し、崩れ落ちる宙悟。

 そんな宙悟の背後で、スーツ姿の男がサイレンサー付き自動拳銃マイクロウージーを構えていた。


「……あ、いや、やっ……!」


 隣のアリサは震える声を上げながら、宙悟の死体とスーツの男から後ずさる。

 

「全部忘れてさっさとお家に帰りな。じゃないと殺す」

 

 自動拳銃マイクロウージーを構えた香食こうじき禮次郎れいじろうは、アリサを睨みつけて銃を向ける。

 アリサはもつれる足で必死に自らの泊まるホテルへと走り出した。


「ったく……家出娘が……。手前てめえの嫌う父親と組長オヤジさんが昔なじみじゃなきゃ、魚人の苗床だったってのによ……さてと」


 禮次郎は足元の死体を見て顔を顰める。


「それにしても、北海道には化物しか居ねえのかよ」


 和多都美わだつみ宙悟ちゅうごの頭部がデロリと溶ける。

 溶けた頭の中からは、魚とも人とも言えぬ異形の顔が覗いていた。


     *


 支笏湖湖畔の高級ホテル“みずうた”。

 その名物の一つに、湖を見渡すことができるテラスが有る。

 シーズンオフで閑散としたホテルのテラスに居るのは禮次郎とクチナシだけだ。


「お帰り禮次郎。組長くみちょーさんから言われたお仕事終わった?」

「おう、連絡はつけた。家出娘の部屋に今頃組の連中が押しかけているだろうさ。お友達諸共札幌まで強制送還だ」

「おつかれ~」


 クチナシは椅子に座る禮次郎の肩を揉む。


「ありがとう」

「良いの良いの。それで、こんな所まで僕を連れてきた理由は何? 普段なら事件が終わったらすぐに家に帰るよね? 仕事ついでの只のレジャーとは思えないけど……」


 禮次郎はしばし沈黙した後、全てを話す覚悟を決める。


阿僧祇あそうぎマリアが俺達の組に喧嘩を売ってきた」

「あの人が?」

「俺は奴の喧嘩を買う。一緒に来てくれ」


 相手は人間を遥かに超えた存在だ。

 生きて帰ることができるかどうかは分からない。

 禮次郎は申し訳ないと思いつつも、頼まざるを得なかった。

 ――ヤクザってのは女を泣かせると聞いてはいたが。

 ――実際こうなってみるときついもんだな。


「……禮次郎はさ、なんでそういうことするの?」


 クチナシは不機嫌な表情で禮次郎を睨みつける。


「奴を殺さなきゃ、俺達が殺される」

「根拠は有るの? あのマリアって人、そもそも逃げろって言っていたじゃん」

「だが俺達はそのマリアの部下を殺した。あれで俺達に怒りを覚えていても不思議ではない」

「そうかもしれないけどさ……駄目なの? 今から僕と二人で何処か遠くに逃げるっていうのは……」

「逃げる……か」

「うん。ずっと考えてたんだ。僕達二人で何処か遠くの国に逃げてさ。二人で小さなお店を開くの。今みたいに贅沢な生活はできないかもしれないけど、それでも二人きりで平和に慎ましやかに暮らせたら僕はそれで満足なんだ」

「……」


 禮次郎はクチナシを膝の上に乗せて頭を撫でる。

 ――そうできたらどれだけ良かっただろうか。

 禮次郎は二人の生活を思い浮かべて微笑む。

 クチナシは禮次郎の心が揺れていると思ったのか、話を続ける。


「それでねそれでね! しばらくお店を続けて、生活が落ち着いたらちゃんと禮次郎には責任を取って僕の旦那さんになってもらってね、教会で結婚式をあげてもらうんだから! 派手じゃなくて良いの、ちゃんとやってくれたってことが大事なんだから。その頃には僕ももっと大きくなっているだろうから、少し年の差は有るかもしれないけど、周りの人だっておかしいとは思わない筈だよ」

「そうだな」

「ね! だから……」


 禮次郎はニコニコした笑顔のまま、クチナシの台詞を遮る。


「さっき、そこの湖でまた化物を殺してきた」

「え? そこの湖って……支笏湖の湖畔ってこと?」

「ああ、やっぱさ、居るんだよ。この世界には、どうしようもなく、狂っていて、歪んでいて、誰も知ろうとしない怪物が」

「……居たからなんなのさ。僕と禮次郎はそいつらに関わらずに暮せば良いだけだよね?」

「無理だな」


 禮次郎はニコニコとしたままだ。

 絶望的な話の筈なのに、そんな気配は微塵も感じさせない。


「そんな……」

「俺も、お前も、関わりすぎた」


 禮次郎の目には静かな狂気が宿っていた。

 すすきのの教会で起きた事件以来、クチナシは禮次郎が暗い顔をしていると感じていた。

 クチナシはそんな禮次郎を見ると罪悪感に押しつぶされそうになる。

 ――もし僕に出会わなければ、と。


「ねえ、禮次郎。僕は、ただ……」

「お前を拾わなければ、お前の家を見に行かなければ、ここまで深入りしなかった。そう思うか? 俺は思わない。俺達は今まで遭遇した事件のどれかに何も知らずに巻き込まれて死んだだけだ」

「ただ……普通に平和に……」

「そう――あの夜の俺のようにな」


 クチナシはビクリと身を震わせる。

 ――ああ、気のせいだと思ってくれると考えていたのに。

 その場から逃げ出したい気持ちと、禮次郎にすがりたい気持ちが彼女の中でぶつかり合って、心の行き場を見失う。


「暮らしたかった……だけなのに……」

「あの夜、やっぱ俺は一度死んでいる筈なんだ。なあクチナシ、どうして俺は此処に居る?」


 しばしの沈黙。

 じわり、とクチナシの目に涙が滲む。


「ごめん、僕は一度禮次郎に嘘を吐いた。あの夜、僕は確かに……」

「構わないさ。嘘は女のなんとやらだ。だが今から話してくれないか。あの時何が起きて、俺はどうして生きているのか……」

「それは……ごめん。言えない、言ったら……嫌われちゃう」


 か細い声で嘆くクチナシ。

 禮次郎はそんな彼女の頭を撫でると、彼女の手を握る。


「……女の嘘は良い。特に、好きな男を思って吐く嘘は良い」

「ごめん、でも……此処では言いたくないの」

「構わないさ。帰ろうクチナシ」

「うん」


 禮次郎は優しく微笑んで、クチナシの手を引きホテルの部屋へと歩きだす。


「ん、あいつは……」


 その途中、禮次郎はホテルのフロントで見知った顔を見る。

 ――著者近影で見た事があるぞ、ホラー作家の有葉緑郎か。


「連れが居なくなってしまったんです! 先程から探しているんですが、何処にも居ないんですよ! 警察に連絡をお願いします!」


 緑郎は、フロントで支配人相手に居なくなった和多都美わだつみ宙悟ちゅうごの捜索を訴えていた。


「あの人、禮次郎の知り合い?」

「……俺達には関わりの無いことさ」


 禮次郎はクチナシにそう言って、ホテルのフロントからエレベーターで最上階へと向かった。


【第12話 死骨の湖~ある小説家の悲劇~ 終】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る