第43話 成田発新千歳行オブ・ザ・デッド

 轟音を上げて白い翼が加速する。

 翼に受けた風がジュラルミンの機体をゆっくりと押し上げる。

 床から足に伝わっていた振動が消えた。


「無事離陸、か。いやはやどうなるかと思ったが、無事に一件落着となったようで何よりだよ」


 ビジネスクラスの座席で緑郎がほっとしたように呟く。

 周囲では疲れ切った顔のサラリーマンが何人も居眠りをして、旅行を楽しむ老夫婦が楽しそうに行き先について話している。

 ――終わりじゃない。

 そう思っているのは禮次郎だけだ。

 殺意が滲む凶相で、薄く目を開いて周囲の気配に気を配っている。


「禮次郎、どうしたの?」

「クチナシ、なにか妙な気配はしないか?」

「特に僕は感じないかな……」

「有葉」

「無いよ。仮に有ったとしても探知は俺が、直接戦闘に関してはクチナシ嬢が居る。不安がるな」

「戦うのも僕より有葉さんの方が得意な気がするんですけど……」

「基礎出力が違う。東京での襲撃の際に、君がまっさきに狙われたのは君自身が危険だと全員が判断したからだ」

「弱い俺たちから潰せば戦い方も有ったような気がするんだけどな。喧嘩の定石だろう?」


 それを聞いた緑郎はわざとらしく笑う。


「魔術師ってのは研究者で、君のような荒事の専門家じゃないからね。そういう発想にはならないんだよ。より困難な課題に向かう本能のような物を持っている。使い魔も同じだ。なにせ防衛が本能である以上、強いものに襲いかからなくては意味が無い」

「僕が……脅威なんですか? いや、なんとなく話を聞いて分かってはいますけれど、何をどうすれば良いなんて分かってないのに……いえ、その、分かる必要は無いのでしょうけど。必要になれば勝手に身体が動くんですから」

「分かってないから見切れないんだよ。君の中の存在が意図しているのか、そうでないのかは分からないが、非常に厄介だ」

「そういう……ものですか」


 緑郎は強くうなずく。

 

「しかも空の上で攻撃を仕掛ければ、この旅客機が巻き込まれることとなる。魔術師同士の戦いとは基本的に秘すべきもの、飛行機を一つ落とすような馬鹿な真似をする訳が――」


 ガチャリ。

 その時だった。

 老夫婦が機内に持ち込んだカバンを開いた。

 プゥン、と耳障りな羽音。

 それは蚊だった。

 カバンの中から無数の蚊が柱のようにして立ち上る。

 シモンの拷問を思い出し、禮次郎の背筋に冷たいものが走る。


「下がって禮次郎!」


 クチナシの右腕が袋のように変化し、虫たちを包み込んで押しつぶし、その魔力を喰らう。

 一手遅れた有葉は足元に護符を叩きつけ、ビジネスクラスの人間たちの意識を操作し、異形となったクチナシから注意を逸らす。

 クチナシはその間に左腕を変化させ、老夫婦の身体を巻き付けて生け捕りにした。


「あなた達、何をしたんですか! 何者ですか!」


 答えはない。

 そしてその間にも事態は悪くなる。

 いくらクチナシの身体に異形の力が有ったとしても、突如飛び出した小さな蚊の全てを捉えて殺すことなどできていなかったのだ。

 彼女が老夫婦を尋問しようとしたその間に、討ち漏らした蚊が、ビジネスクラスの片隅で眠っていた男を刺した。


「うっ! あ゛……あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ……!」


 ビジネスクラスの片隅で、初老の男性がうめき声を上げる。

 周囲の人間はそれをぼんやりと見ている。

 男性がうつろな瞳で周囲の客に掴みかかり、牙を剥いても、それでも逃げることも抗うこともない。


「――この!」


 一方、クチナシはとっさに右腕を巨大な拳に変え、うめき声を上げて立ち上がった初老の男を殴りつける。壁に叩きつけられ、手足があらぬ方向に折れた筈の男はそれでもまだ身体を動かし、他の人へ近付こうとしている。


「禮次郎! なんか変だよあれ!」

「ゾンビかなにかか?」


 クチナシの注意がそちらに向いたその時だ。

 クチナシに捕まった老夫婦の頭が内側から張り裂け、中から人の掌程はあろうかという巨大な甲虫かぶとむしが現れる。とはいえ只の甲虫ではない。三角の羽に細かく蠢く十本の足。明らかな異形だ。


「させんよ!」


 緑郎が宙に旧神の印を描き、甲虫の内一匹を拘束する。


「今だ!」

「助かる!」


 禮次郎が取り出した拳銃で撃ち抜く。

 残った一匹はジャンボジェットの二階のエコノミークラスの方へと逃げた。


「有葉さん、これは何?」

「呪術の類だろう。蚊を使って血液を媒介にし、人間を生きる屍に変える類の呪いだ」

「どうしたら助けられるの?」

「専門の解呪師に頼めば対処してくれるかもしれんが、魔術系統の解析から始めなければならん。それまで被害者を拘束する時間も金も手段も用意できる保証は無い」

「分かった。殺すしかないんだろう」

「理解が早いねえ香食君」


 ――クチナシのやったことはしかたなかった。

 ――ということにしたいんだろうな。

 禮次郎はそう思いながら、まだ蠢いている初老の男に近づき、その頭を撃ち抜く。

 すると男は動かなくなった。

 ――呪術といっても、脳からの指示が無いと身体は動かせないか。


「体中に神の加護が巡っている魔術師や、神そのものであるクチナシ嬢、そしてその血肉を分け与えられた香食君。つまり俺たち三人はこの程度の三流呪術は効かない。問題はエコノミーとファーストクラスの人間だ」

「どっちから助けるの?」

「俺とクチナシは虫を追いかけて二階のエコノミーへ向かう。恐らく目当ては操縦席だろう。ファーストクラスで同様の事件が起きていたとしても犠牲者はせいぜい十名かそこら。これから向かうエコノミーに比べれば少なくて済む。有葉、お前はここを乗客の避難場所にしろ。逃げてきた人間は保護だ」

「んん、ファーストクラスの客は見捨てるという訳か! 酷いやつだねえ君は!」

「有葉さん! ふざけてる場合じゃないんですよ!」

「わかってるとも、ここにはカトンボ一匹許さぬ結界を張る。それで満足だな?」


 禮次郎はそれにうなずくと、クチナシと共に走り出した。


     *


 エコノミークラスの機内は地獄のような有様となっていた。

 飛び交う虫、生ける屍と化した人々、先程までの友人や家族が互いに殺し合ったり、あるいは自ら死を受け入れている。

 状況は最悪だ。特に死人が動き出し新しく死人を作るのが問題だった。心中をしようと思った人々が、生きようとする人々を背中から殺す。

 ――銃弾が足りない。

 禮次郎は人の命ではなく、弾の心配をすることで心の平衡を保つ。


「クチナシ、ここは頼む」

「――いいよ。禮次郎には、きっと撃ちにくいだろうし」


 一方でクチナシは禮次郎の指示を理由に、自らの中の迷いを捨てる。

 巨大に変化して異形そのものとなった彼女の拳が機内で振るわれる度、ゾンビとなった人々はぺしゃんこになる。

 ――思えばずっとこんなことばかりだ。

 ――最悪をその一歩手前で止める。そして犠牲者が出る。

 ――結局の所、ヤクザやってる時も、今も、そんなことばかりだ。


「ビジネスクラスに逃げろ!」


 クチナシに怯え惑う人々へ、禮次郎は鋭く指示を出す。

 あまりにも突然な非日常に混乱する人々も、禮次郎が拳銃を向けると大人しく従った。

 ――蚊による呪いの注入とゾンビ化にさして時間差は無い。

 ――キャリアが有葉の形成する避難区域内部に潜伏することはない筈だ。

 ――無いと、信じたい。

 禮次郎の頭の中には最悪の可能性が浮かんでいた。

 有葉緑郎が避難所を作れなければ、禮次郎の行為は生存者を地獄に送り込んでいるだけだ。クチナシに余計な業を背負わせている。

 ――吐き気がする。

 ――他人に指示を出すというのは好きじゃない。

 そんな禮次郎の意識が、クチナシの悲鳴で一気に現実に引き戻される。


「退けて下さい!」

「やめてくれ! 僕の妻を殺さないでくれ!」


 うずくまって呻く女性とクチナシの間に立ち塞がる男。


「おい、そこの新婚のお姉さん。意識は有るか?」


 ――単にショックを受けているだけかもしれない。

 ――もしかしたら。

 禮次郎は賭けるような気持ちで声をかける。

 女性が苦しそうにしながらも顔を上げる。

 だが、女性は男に掴みかかり、首筋へと牙を剥いた。


「マリエ、お前何を……!」


 ――駄目だ。殺そう。

 身体に染み付いた狂気と経験が、禮次郎の指をこれ以上なく滑らかに動かす。

 スーツの袖口から飛び出して火を噴いたデリンジャー。

 女性はそのまま何が起こったのかわからないという顔で倒れる。

 撃ち抜かれた右目からは涙のように血が流れる。


「ああああああ!」


 男の悲鳴。

 ――誰がこんなことやりやがった。

 ――俺だよ。俺だよな。

 禮次郎の中で遣り場のない怒りが湧き上がる。


「下のビジネスクラスまで逃げろ」


 男は動かない。


「そいつを弔えるのはおまえさんだけだ。逃げてくれ」


 禮次郎はそう言い捨てて奥へと進む。

 彼が一瞬だけ振り返ると、男は撃たれた女性の指輪だけを持ってふらふらと歩き始めていた。

 

     *


「……来ましたね、令也さんのお孫さん」


 二階に向かった禮次郎が見たのは数匹の虫を従えた陰険そうな眼鏡の男と、客席に座ったまま事切れた乗客たちの姿だった。

 禮次郎とさして変わらない年頃の若い男は、いやらしい笑みを浮かべながら操縦席へ向かう扉の前に立っていた。


「お前がこの事態を仕組んだ馬鹿か」

「その通り。でも馬鹿じゃなくて忍者ですよ忍者。知りません? 伊賀だの甲賀だの風魔だの」


 そう言って眼鏡の男はわざとらしく忍者が印を結ぶような真似をする。

 妙に様になっているのが禮次郎にとっては腹立たしかった。


「要するに魔術師だろ? 何しに来たんだ?」

「あんたを函館湾の烏賊の餌にしろって偉い方から頼まれたんですよ。三時間ほど前に、突然です」

「令也の部下か。暗殺者が馬鹿面晒して対象の前に突っ立っているってのはどういうことだ?」

「個人的に取引をしに参りました」

「は?」

「虫の回収、解呪、記憶処置、事態隠蔽などと引き換えに俺を雇っていただきたいのです。俺の雇い主を手懐けていた香食令也が死んで、雇い主は私に全責任を押し付けて使い捨てるつもりみたいなんですよ。ついさっき、五分前に信頼できる筋からそういう情報をリークしてもらいましてね」


 ――令也が死んだ?

 ――佐々先生がやったのか。

 ――こいつは嫌いだが少しでも情報が欲しいな。

 禮次郎は状況を探ることを決める。


「魔術師も就職氷河期か。酷い雇い主しか居なかったんだな」

「ええ、そうなんです。そして捨てられた以上はもう義理も何も無いよなと」


 ――こいつ死にたいのか。

 禮次郎の表情が引きつる。

 ――だが、まだだ。まだもう少し情報を引き出したい。何かろくでもない状況になっているのは確実で、その解決の為の手段になるかもしれない。

 ――もう少しだけ抑えろ。

 禮次郎は自身に言い聞かせる。


「その元雇い主ってのは?」

「厚生省の関係者です。学生運動をしていた頃に、令也さんに甘い汁を吸わせてもらったそうです。いやあ若い頃からお国のために働く立派な方ですね」

「名前を出してくれたら話も聞きたい気分になるんだがな」

「そいつは確約していただけないと……ちなみに」

「なんだ?」

「早くしないとあの蚊、空調を通ってパイロットを殺しますよ」

「……分かった。良いだろう……というか、


 禮次郎はクチナシの方を見てうなずく。


「うん」


 クチナシは右腕を巨大化させ、男を殴り飛ばす。


「がっ……え?」


 男はきょとんとした表情のまま、吹き飛ばされて壁に叩きつけられる。


「そいつを捨てろ。穴はお前の身体で塞いでくれ」

「任せて」


 クチナシは巨大化した右腕で男を掴む。

 禮次郎の指示に驚いた男は目を見開いて命乞いを始める。


「ちょっと、待って――!」


 ――命を弄ぶ人間は好きじゃない。

 ――もう医療従事者でもないのにな。

 禮次郎は溜息をつく。


「生きて帰ってきたら雇ってやる。組を旗揚げするなら人材も欲しいしな。ほら頑張れ頑張れ」

「やめ――やめてくれ! 言います! 言いますから!」


 ――それに、今こいつと仲良しこよしをしていたら、ここに来るまでに殺した奴らに筋を通せねえ。

 禮次郎はクチナシの方をちらりと見る。

 彼女は何時になく冷たい目をしていた。


「遅いよお兄さん」


 非常口についた大きめの窓を力づくで破った後、クチナシは男を外へ放り投げた。


「……さて、こんな感じで良いかな?」


 クチナシは巨大化した右腕を切り離し、大きめの窓を無理やり塞ぐ。

 その後からは普通の人間サイズの右腕が新しく生えてきた。


「ああ……ひとまずこれで良い。後は有葉と話して脱出の算段を――」


 禮次郎がそう言いかけた時だった。

 禮次郎の背筋にゾクリとするような冷たい感触が走り、彼は思わず身を震わせる。

 ――何が起きた?

 彼にはわからない。

 だが決定的な何か、人間が人間として生きていく上で必要な条件を奪われ、奈落の底へと落とされていくような、絶望感が不思議と心の底から沸き起こってきていた。

 

「れ、禮次郎……! 見て、下!」


 クチナシが窓から何かを指さしている。その声は震えていた。

 言われるがままに覗き込んだ禮次郎は絶句する。

 眼下には函館湾。そして――そこには不完全ながら復活した旧支配者クトゥルーが居た。

 先程から彼の心の中に急激に浮かんでいた不安が、そこには神の形で顕現していた。

 全身から急速に力が抜け、禮次郎はその場に崩れ落ちる。


「こんなの、どうしろってんだよ……」


 その場に、禮次郎の問に答えられる者は居なかった。

 突如、飛行機の高度が下がる。

 操縦席から、理性を失ったパイロット達がゆっくりと這い出してくる姿が、禮次郎の瞳に映った。

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