第44話 死に沈めCthulhu

「さて……これで打つ手はなくなったな」


 理性を失い生ける屍と化した機長と副操縦士を撃ってから、禮次郎はため息を吐いた。


「禮次郎、逃げよう。僕と禮次郎だけなら、ここから飛び降りても僕がなんとかできると思うから……」

「できるのか?」


 クチナシは遠くに映るクトゥルーの姿を眺めてからうなずく。


「佐々さんたちが言っていたけど、必要な時になったら力の使い方が分かるっていうのは本当みたいでさ……あれを見てからずっと、胸の奥が熱いんだ」

「熱い?」

が……僕が、なんだったのか」

「クチナシ?」

「大丈夫だよ。大丈夫。禮次郎のことだけは絶対に守る。それ以外は、そう、それ以外は……フフ、別に……いっか。あはは……!」


 笑うクチナシ。瞳が赤く染まっている。

 狂気を示す赤い光だ。

 不安になった禮次郎はクチナシの肩を掴んで揺する。


「おい、クチナシ。落ち着け。良く分からないが、それは……それは不味い。まず有葉と合流して……」

「ん~、それが一番良い手段な気はするよ。それをさせるかどうかは別としてね」


 その時だ。背後から声をかけられて、禮次郎は振り返る。


「有葉……させるかどうかって、どういうことだ?」


 禮次郎の問に緑郎は答えない。


「やあやあ、生存者は全員こちらで保護させてもらった。今はダゴン秘密教団北海道支部で記憶処置を受けてもらっているよ。これからの時代に必要な大切な人的資源だからね」


 それだけ言うと不敵な笑みを浮かべる緑郎。


「さっきから、話し方が妙な気がするが……長い付き合いだ。聞いてやる。お前は何を考えている?」


 既に禮次郎何時でも拳銃を抜くことができる準備を整えている。

 クチナシも、緑郎が妙な事をすれば一瞬で叩き潰せるように、彼を睨みつけている。


「我らの神が復活した。邪魔な連中も居なくなった。我ら教団の本懐はここに達成された。それだけのことだ」


 禮次郎は緑郎に拳銃を向ける。


「命が惜しければ言うことを聞いてもらおうか」

「おやおや……俺を殺すと折角の生存者も道連れだぞ? 怖いことをするねえ……」


 緑郎は大げさに肩を竦めてみせる。


「気にするような男だと思うか? お前の知る香食禮次郎ってのはそういう奴だと思うのか?」

「ん~! 思うとも! 君にとって、自分の人生を滅茶苦茶にした神話生物と魔術師を殺すのが一番で、自分のように人生を滅茶苦茶にされる人が出ないことが二番目だ。そのためならなんでもするという強迫観念。その為なら何も怖くないという狂気が君の本当の恐ろしさだ。故に君は、なんだかんだ人間に甘ぁい!」


 ――はて。 

 禮次郎は気づく。

 ――じゃあこいつ、何をしに来た?

 ――今、わざわざ長話をしに来る必要なんて無い筈だ。さっさと逃げ出せば、俺達は市街地かどこかに墜落する筈だ。


「有葉さん、時間稼ぎですか? 僕に何かをされるのが怖いとか? 僕も、いえ……も、今なら、クトゥルーが近づいている今なら本来の力を出せる」

「んん……! お、大人しく付いてくるなら助けるつもりだったんだけどねえ……思ったよりも覚醒が進んでいたか」


 クチナシの様子がおかしいことを確認して、緑郎は明らかに動揺していた。

 声が震え、落ち着かずにそわそわとしながら後ずさりし始める。

 ――覚醒?

 ――いやそれよりも、クトゥルーの為に時間を稼いでいる? 時間を稼げば何が起きるんだ?

 

「あれ、あのクトゥルー、まだ不完全な復活しかしてませんよね? 函館の市民でも食わせて復活の材料にするつもりですか?」

「やめようぜクチナシ嬢。平和主義で行こうじゃないか。ダゴン秘密教団の一員として、神が復活した以上、こうするのが筋というものなんだよ」

「まだ、私ならあれを殺せる」

「やめろと言っている!」


 緑郎が右手を翳す。

 袖口から現れたのは黒い粘体、ショゴス。

 燃費がかかるから使わないと言っていたそれを、有葉緑郎は最後の隠し玉として仕込んでいた。

 クチナシに向けて鋭い槍の形になって伸びるショゴス。


「クチナシ!」


 その動きはほとんど反射的なものだった。

 禮次郎はそれを拳銃で撃ち落とし、続けざまに緑郎の額に向けて引き金を引く。

 緑郎を殺せばこの状況を打開する手がかりが無くなるとか、緑郎自身が何か別の狙いを持っているとか、そういった事情が一瞬で頭から吹き飛んでしまっていた。

 銃弾は吸い込まれるように緑郎の額を貫く。


「――ちっ」


 額を撃ち抜かれた緑郎は、禮次郎を見て忌々しげに舌打ちする。

 そして彼が床に伏した次の瞬間、その身体は無数の原稿用紙になってその場に散らばる。

 残されたショゴスはクチナシが巨大な口に変化させた右手で丸呑みにしてしまった。


「随分上等な使い魔だったみたいだねえ……美味しい美味しい」


 へらへらと笑うクチナシと対照的に、禮次郎はこの世の終わりのような顔をしている。

 ――どうすればいい。あいつが手がかりだったのに。これで振り出しだ。

 ――有葉緑郎はダゴン秘密教団の人間で、彼らの崇める神が復活すれば、奴は当然そっちの側につく。

 ――いや、だが、待てよ? あいつが俺に渡した資料の中に……あれがあったな!


「さて、僕はもう行くよ。捕まっていて」

「待て」

「何言っているの? もうそろそろ脱出しないと……!」

「違う。この機体からは脱出しない。そのかわりに、お前の力でやってほしいことがある。あのイカを叩き潰す為にな」

「何?」


 普段のクチナシとは違う不機嫌そうな表情。

 クトゥルーを見たことにより発生した狂気が原因か、それとも巨大な存在が近づいていることそのものが原因か、何かは分からないが、クチナシの様子が変わりつつ有るのは禮次郎にも分かった。


「お前、クチナシか?」

「大丈夫……まだ、僕だから、急いで。今までこんなの、感じたことがないんだ……何時までこうしていられるかわからない……!」

「分かった。じゃあシンプルに行く。この飛行機ごとクトゥルーにぶつかっていけ。勝率は上がる筈だ」

「本気?」

「有葉の資料が正しければ、クトゥルーはまだ不完全な復活しかしていない。漁船にぶつかっただけでかき消えたこともある。なら航空機でもいけるだろ」


 禮次郎の言っていることは正しい。

 1925年。ルルイエの浮上とクトゥルーの復活は偶発的に起きている。

 だが、その際は魔術師が事態に気づく前に偶然居合わせた漂流者がで弱っていたクトゥルーを退散させた。

 続く1984年。クトゥルーの復活は再度起きている。

 だが、その際は料理人の少年がクトゥルーに自らの心臓を食わせることで完全な覚醒を阻止した。その際、クトゥルーが復活時に非常な空腹状態に陥っていたことがダゴン秘密教団及び米軍の報告書ではっきりと記録されている。

 そして近年、ダゴン秘密教団の陰州升研究所がクトゥルーの本来の肉体は既に存在していないことを発見し、その再生の為の実験を開始している。

 それらの資料を読み込んだ禮次郎の意見は全くその通りであった。


「でも、どうして、そんなに弱体化しているって言えるの? すごい魔術の気配がする……ダゴン秘密教団の比じゃないよ?」

「だからこそだよ。完全な物理的実体を失い、魔術のみで己の存在をこの世界に固定しているんだろう。だから大質量の物理的攻撃で簡単に吹き飛ぶ可能性が有る」

「そういうことね……分かった!」

「頼めるか?」


 禮次郎がそう問いかけると、クチナシは少しだけためらうような素振りを見せる。


「どうした?」

「ねえ禮次郎。目を……瞑ってて。きっと僕は酷い姿になるから」


 それを聞いた禮次郎が目を固くつぶると、クチナシの身体に異変が生じる。

 クチナシの四肢が黒い影そのものとなり、四方八方へと伸びて瞬く間に機内を覆い尽くす。

 機内をまだ徘徊していた百を超える屍達は影の中に現れた口に飲み込まれて、そのまま跡形もなく咀嚼・吸収されて贄となる。

 ――生存者を有葉が保護していたのが幸運だった。

 ――いや、狙っていたのか?

 ――そもそもあの時に渡された資料は、東京支部との戦いにおいて、不要な部分だった筈だ。わざわざクトゥルーの復活と退散事例を入れる必要は無かった。

 ――まあ、なんでもいいか。

 影はすぐさま旅客機を覆い尽くし、白い翼は黒い大怪鳥へとその身を変じる。

 そしてみるみるうちに高度を上げていく。


「さあ、禮次郎。僕の中に……」


 その声と共に、影が禮次郎自身をも覆い尽くす。

 ――マリアの時は拒絶したが、結局のところこうなるのか。

 禮次郎は笑う。

 保護のために必要だとはいえ、人ならざるものの腹の中に収められることに、よくよく縁がある己が可笑しくて仕方なかった。

 ――でも、お前なら良い。

 そう思えることが幸せで、緊迫した状況に似合わぬ穏やかな笑みのまま禮次郎はもはや影そのものとなって飛行機を覆い尽くしたクチナシの中へと溶け込んでいく。

 影を纏う大怪鳥と化した旅客機は、函館湾を我が物顔で闊歩する巨神の頭上へと到達する。


「我は禁断の山よりび出し大いなる紅玉の座にて微睡むもの」


 鈴の鳴るようなクチナシの声。それは清廉なる願いを込め、災禍を齎す古い呪詛。

 クチナシの一声を合図に大怪鳥は急降下を始めた。

 海を裂き無辜の人々が眠る朝の函館へ迫る神の下へ。

 

「テトラガマトン・サバイテ・サバオス・テシクトス――」


 影に包まれた大怪鳥は、咒いの唄に導かれ、またたく間に纏う影を練り直すようにして不定形の巨塊へと変貌する。

 それは盲目なれど生きとし生ける全てを見通す。

 それはあしを持たねど纏う光すら超えて天空を翔ける。

 それは全身におぞましい口吻を持ち、そこから血に飢えた呪詛を漏らす。

 それこそが《光を超ゆるもの》。

 顕現した驚異に、烏賊の頭をした巨神は手を翳し、自らも呪詛を叩きつける。

 《光を超ゆるもの》を縛り付けんと、非ユークリッド幾何学的な名状しがたい図形が宙に幾つも光り輝く。

 だがその一つ一つを《光を超ゆるもの》は噛み砕き、時にはその身を削りながらも突破する。

 ジュラルミンの骨格や内包する無数の死人の存在により、クトゥルーがいくら呪詛を叩きつけようとも、《光を超ゆるもの》は幾度も自らを再生し、自由落下を続ける。

 感情を見せない烏賊のような瞳が、一瞬だけ大きく見開かれ、聞くだけで理性の全てを放棄したくなるようなおぞましく狂おしい咆哮が函館市全域を包む。

 だがそれはもはや断末魔でしかなかった。

 降り注いだ奇怪な肉塊は、巨神を噛み砕き、巨神の姿は朝もやの中へと溶けていった。

 かくて神は死に沈む。騒ぎに気づいて飛び出した人々の精神に癒えぬ傷を、眠りについていた多くの人々に地獄の記憶を与えながら。

 死の名を借りた永遠の眠りへと。



死せるクトゥルーふんぐるい むぐるうなふ くとぅるうルルイエの館にてるるいえ夢みるままに待ちいたりうがふなぐる ふたぐん

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