第45話 邪神任侠~仁義なき探索者~

 函館湾は函館山と渡島半島が、時間をかけて砂などの堆積物で繋がることにより形成された湾であり、函館市という街そのものがこの堆積物の上に形成された人間の居住領域だ。

 そしてクトゥルーの召喚された肝盗村は、函館から恵山方面へ三十五キロほど車を走らせればすぐにたどり着く場所にある。

 故にクトゥルーが空腹から手近かつ人口の多い函館市を襲撃するのは当然だった。


 こんなことになったのは、香食禮次郎とクチナシの選択に過ちが有ったからだろうか?


 答えは否だ。

 彼らが居なければクトゥルーは間違いなく函館市を蹂躙していたことだろう。

 八幡坂を踏みならし、朝市を壊滅させ、湯の川を海に沈め、日吉の丘を灰燼に帰していたことは間違いない。

 それを阻止した彼らは間違いなく、英雄だった。

 ただ、それでも回避できない悲劇が存在したというだけだ。


     *


「ここは……」


 禮次郎は函館湾に面した七重浜の浜辺で目を覚ました。

 ――服が濡れていない。

 ――クチナシが此処まで運んでくれたってことか。


「おい、クチナシ!」


 禮次郎は隣で気を失っているクチナシを揺すって起こそうとする。

 だが力を使い果たした彼女は眠ったままだ。


「くそ……どうなってる!」


 禮次郎は周囲の様子を伺って初めて気づく。

 街中ではサイレンが鳴り響いている。

 火の手も上がっている。

 まずは組と連絡をとろうと禮次郎は携帯電話を取り出す。


「携帯も圏外か……あのイカ頭のせいか?」


 禮次郎は街の様子を更に詳しく知る為に、クチナシを背負って歩き始める。

 そんな禮次郎が浜から道路へ向かって最初に見た光景は、奇妙な雄叫びを上げる群衆をパトカーが轢殺しているところだった。

 禮次郎は用心深くその場から離れて、砂浜の中で落ち窪んだ場所を見つけ、クチナシと共に身を隠す。


「ん? あれは……」


 そんな時、禮次郎の目の前に紙人形がふらふらと飛んでくる。 

 紙人形を通じて佐々総介の声は禮次郎に語りかけてくる。


「生きていましたか香食君……大変なことになりましたね」

「その声は……佐々さん? そっちはどうなりました?」

「令也は仕留めましたが、シモンは爆発で行方不明です」

「そうですか……あのイカみたいな奴はそっちで召喚されたものですか? なかなか苦労させられましたよ」


 気まずそうに黙り込む総介。それから彼は質問を返す。


「不覚を取りました。それはそうと有葉君はどうしたんですか?」


 今度は禮次郎が溜息をつく。


「飛行機の生存者を連れて逃げ出しましたよ。神に逆らうことはできない、と」

「逃したんですか?」

「恐らく死んでいない。追い打ちをする時間もなかったし……それに人質をとられていた。そんなことよりも――」


 禮次郎は話題を強引に切り替える。


「函館の街が大変なことになっています。何があったんですか?」

「神の顕現による正気の喪失ですね。あなたも阿僧祇マリアの一件で似たような状態になったことがあったでしょう」

「正気の喪失? ああ……そういや……」


 聖母教会との戦いを終えて、クチナシが居なくなった後、自分が正気を完全に失っていた事を禮次郎は思い出す。


「ええ。そもそも、人間の知る宇宙の外側から来る神々というものは、人間には処理しきれない膨大な情報を含有しています。その全てを知覚して適切に処理する魔術師か、あなたのように致命的に壊れてしまった人間でも無ければ、膨大な情報に呑まれて自らの思考さえままならなくなります」

「壊れた……か。まああの一件以来、もう何が出てこようが殺す方法を考えることしか頭に浮かばなくなってますがねぇ」

「そういうことです。あなたには神話生物への殺意という明確な軸があります。ですが普通の人間は自分の思考と、神々やそれに連なるものの発する情報が頭の中で混合して、何処までが自分の考えなのか分からなくなります。私の専門である精神科でも似たような症状の患者様はいらっしゃいますが、神による発狂は情報の氾濫による脳の器質異常なので、精神疾患でよくある脳内物質の分泌異常による発狂とは順番が逆なんですよね。このあたりは学術的に非常に興味深いところなのですが、今は時間が無いので話は後にいたしましょう」

「ですね。その辺りの学術的な話は論文にでも纏めてくださいよ。俺は興味がありますから。それよりもお疲れのところ悪いが迎えに来てもらえませんかね? この調子じゃ駅もまともに動いていないだろうし、ここから徒歩で札幌に帰るのはホネだ」


 それでもこの時まで禮次郎の心には余裕があった。

 最悪の局面は脱した。

 後始末さえ終えればまたクチナシと帰れる。

 そう思い込んでいた。


「勿論お迎えにはあがります……ですがその前に一つだけ。。まだ微弱ですが、そちらに反応が残っている。この式神を通じて、引っかかるような感覚があるのです」

「……そいつは見逃せねえな。何処か分かりますかね?」

「ナビゲートしますので、クチナシさんを背負ってこれから指示する場所まで向かって下さい。私もそちらへ向かっていますが、時間がかかりそうです」


 禮次郎は溜息をつく。


「俺一人でクチナシを守りながら戦えってことっすか?」

「私もこの式神を通じて簡単な結界くらいならば張れます」

「どれくらい頼りになるんだそれは」

「この式神に残った魔力を全て使えば十分は保ちます。それだけあれば迎えにも行けます。ただ……通話機能にまわしている余剰魔力も使えなくなるので、できれば取っておきたいのですよね」

「分かった。勝負の時だけってことだな」

「必要になったら彼女を近くの物陰にでも隠してくれれば後はなんとかしましょう。今はあなたが頼りなんですよ」


 禮次郎は溜息をつく。


「案内してくれ」

「分かりました」


 禮次郎がそう言って物陰から顔を出そうとした時だ。


「香食禮次郎、そこに居るだろう?」


 禮次郎にとっては聞き覚えの有る若い男の声が聞こえた。

 ――香食令也? 何故生きている?


「佐々さん、香食令也は死んだ筈では?」


 返事は無い。

 代わりに佐々総介が寄越した式神を起点に、淡い紫色の光がクチナシを包んでいる。

 ――すでに結界を展開していたか。これじゃ通話に回す魔力は無いな。

 ――それにしてもこの人がここまでしくじるなんて珍しいな。

 ――もしかして、わざとか?

 禮次郎は舌打ちをすると、コルトSAAを構えながら物陰から出ていく。


「よう、禮次郎。こうして話すのは初めてになるな」


 浜辺に立っていた男は、若かりし日の香食令也と同じ姿をしている。

 だが禮次郎には何かが違うように感じられた。まるで精巧な食品サンプルのように、見た目はそっくりそのものだがそこには熱も水気も感じられない。酷く無機質なものであるかのような。


「誰だ……てめえ」


 禮次郎は右手でコルトSAAの引き金を引いたまま、左手でハンマーを起こす。


「見れば分かるだろ? 香食令也だ」

「違う。似ているだけの別人だ」

「落ち着けよ禮次郎。嘘は言っちゃいない。少し話したいことがあって来たんだ。確かに香食令也そのものかと言われれば疑問だ。だが今は香食令也の人格と記憶を使って話している。俺に捧げられた最後の生贄、そして俺の血を色濃く継ぐこの男のな」


 拳銃を警戒する様子も無く、男はゆっくりと近づいてくる。


「そこで止まれ」


 言われた通り、男は足を止める。


「もう一度だけ聞くぞ。お前は誰だ?」

「人間の発声器官を用いるとクトゥルーと呼ぶのが一番似つかわしい。まあ、神の真名なぞ気軽に呼ぶものではないがね」

「さっき令也と名乗った理由は……香食令也の人格と記憶を用いて、人間と話せるようにしているからか」

さといじゃないか。価値観や判断基準は間違いなく神だが、人格や振る舞いはこの男のものを使っている。半分ずつだよ……あんたと似ているかもな」


 ――神ね。拳銃でどうこうできる相手なのか。

 禮次郎は迷っていた。


「一体、俺になんの用だ」

「あんた、俺と組まないか?」

「何?」

「この世界には既にクトゥルーを万全の状態に保つだけの巨大な信仰の土壌が有る。故に一度神が復活すれば、今度こそ世界は神々のものとなる。香食令也はそう考えていた。その推測は当たりだ。俺が復活すれば、今度こそ全ての神の封印は解け、宇宙は今一度暗黒の時代を迎える」

「ずいぶんとでかく出たじゃないか」

「別にハッタリじゃあないんだぜ。我々旧支配者が宇宙の外で眠り続けている理由を知っているか? 魔術師でもないお前は知らない筈だ」

「……何故だ?」

「俺だよ。俺が封じたんだ。旧神と呼ばれる神々に、滅ぼし尽くされる前にわざと封印した。そんな俺が力を取り戻して復活すればどうなる?」

「封印した連中を起こすつもりか」

「ご明察。そしてもう一度、神々の世界が蘇る」


 ――冗談じゃねえぞ。

 禮次郎は生唾を飲み込む。


「香食令也は、その神の世界を待ち望んでいたみたいだが、俺まで必要なのか? 神様の世界まで人材不足とは世知辛いな」

「待ち望んでいた? そいつは嘘だよ。俺に記憶と人格を奪われたこの男はな、神の世界なんぞさらさら望んじゃいなかったのさ。だから俺はこいつから香食令也という名前を、顔を、記憶を、知識を奪った。人間の世界でより上手く立ち回る為にな。そうじゃなきゃこいつを蘇らせて使った方が早かった。やあ、残念」


 男はいやらしく笑う。

 それは禮次郎の知らない香食令也の顔だ。

 ――組長オヤジさんがここに居たら、あいつは令也じゃないとでも言うのかね。

 

「じゃあ何故、香食令也はお前を復活させようとしていた」

「復活が避けられなかったからさ。ノストラダムスの大予言の通り、俺の復活は必定だった。それをルルイエからの夢で感じ取った香食令也は、クトゥルーをあえて不完全に復活させて、誰かに倒させようとした……そう、1925年の偶発的な衝突を意図的に再現しようとした訳だ」


 禮次郎の中でパズルのピースがつながっていく。

 北海道各地での蠢動、清水会との対立、清水龍之介に対する向こう見ずな突撃、そして飛行機の乗客を巻き込んだテロ。香食令也の計画には『クトゥルーの復活』だけを目的にするならば、明らかに不要な部分が多かった。

 その時、何も知らなかった禮次郎は疑問を覚えなかったが、今の言葉で彼は完全に気づいてしまった。

 ――そうか、俺たちを踊らせてわざと復活させた不完全なクトゥルーだけを叩こうとしたのか。

 ――なんだ、やるじゃねえかあのジジイ。


「つまりあんたあれか……俺の祖父に嵌められた訳だ」


 禮次郎は鮫のように笑う。

 対して、男は不機嫌そうに表情を歪める。

 しかしその後、またいやらしく笑いながら禮次郎に言い返す。


「そうだな。今回の貴様のように裏切られ続けたという訳だ」

「……ふん」

「今もその奥に《光を超ゆるもの》を隠しているようだが、あの佐々総介が力を取り戻せば、次に狙われるのは覚醒した《光を超ゆるもの》だぞ? 奴は神さえも己の手に収めようと蠢動している」


 禮次郎は返事に窮する。

 そこで更に男は畳み掛ける。


「有葉緑郎はどうだ? 俺と戦わない為に、お前らを捨てて逃げ出したではないか」

「……まあ、な」

「清水龍之介も変わりあるまい。お前を保護して育てたように見えるが、結局自らの組織で便利使いできる人材が欲しいだけさ。お前は香食令也の部分的な代替品に過ぎない。あの三人から餌として使われたお前なら分かるのではないか?」

「別にそれを否定しようとは思わねえ。だが組長オヤジさんにはでかい恩義がある。使い捨てられようが結構だ。有葉もお前が絡まない案件なら便利に力を借りられる。今回のことでデカイ貸しもできたしな。まだ生きていたら便利に使い倒してやるさ」


 ――それに有葉は、わざと俺にクトゥルー打倒の手がかりを残しながら生存者を連れて逃げた可能性がある。裏切ったと決めるには早い。今は仲違いしたポーズを取るほうが、お互いにとって動きやすい。

 そう考える禮次郎だが、佐々総介についてはあえて触れない。

 禮次郎自身、どう転ぶか分からない相手だということは分かっていた。

 そしてそれは禮次郎から眼の前の神に対する悪魔的な誘いでもあった。

 ――もしこいつが、佐々総介を相手どる為に使えそうな面白い取引を提案できるなら、乗ってやらないこともないな。


「ふむ……ならば、俺が復活した暁には、《光を超ゆるもの》と貴様に久遠の平穏を約束しよう。喉から手が出る程欲しいのではないか? 神である俺にしか与えられぬ報酬だぞ」


 それを聞いた禮次郎の目の色が変わる。

 ――本気かこいつ?

 ――世界をくれてやろうとか言われたら撃っていたが、平穏、か。

 ――正直言えば、悪くは無い。


「お前、《光を超ゆるもの》について知っているのか」

「知っているも何も、あれは俺が作り出した生きる魔術兵器だ」

「お前の言葉を信じろっていうのか?」

「信じなくても良いが、後で吠え面をかくのは貴様だぞ?」


 禮次郎は黙り込む。

 それを見た男は悪魔のような笑みを浮かべ、それから禮次郎の足元に一冊の本を投げつける。


「すぐに決めろとは言わん。ここは退いてやろう。必要になったらそれを使って俺を呼べ。お前にも読めるようにしてやったぞ」

「俺がそんな選択をするとでも?」

「ああ……俺は貴様こそ取引に値する相手だと見た。俺と俺の信者は今後、貴様に手を出さん。貴様から手を出すなら話は別だがな」

「手打ちってことか。神と手打ちしたヤクザなんて聞いたこと無いぜ」

「そうとも」


 男は満足そうに頷く。

 禮次郎はクスクスと笑う。


「さあ、答えはどうだ邪神任侠?」


 禮次郎はさりげない仕草で背後のクチナシの方を確認する。

 既に佐々総介の結界は消えている。だが式神の媒体である紙人形そのものは残っている。

 ――下手な動きをすれば佐々総介に見られるか。

 ――面白い。眼の前のこいつが、取引に値する相手か試すとするか。

 禮次郎は男の目を見て口元だけ薄笑いを浮かべる。


「ああ、答えはこいつだ旧支配者」


 ――俺の芝居に乗ってくれるなら、お前の提案も考えてやる。

 禮次郎はそんな事を思いながら、ファニングを駆使して六発の弾丸を男に向けて放つ。

 二発は心臓、二発は頭、そして二発は両足の膝。

 意外なことに男は抵抗する様子も無かった。


「……意外だな。逃げも避けも防ぎもしないなんて」


 禮次郎がそう言うと、男は嗤う。


「へへっ……」


 それは地下駐車場で、初めて出会った時の、茶目っ気のある表情だった。


「礼を、言う……ぜ」


 はそれだけ言い残すと崩れ落ちる。

 そして風と共に男の体は砂に変わり、七重浜の海の彼方へと溶けて消えていった。

 果たしてそれがだったのか、だったのか。

 香食禮次郎には分からない。

 だが香食禮次郎の足元には変わらず本が残っている。

 ――今のは、一体どっちだ?

 ――まあ、どっちでも良いさ。

 

「とりあえずこいつは頂いておくか」


 ――有葉と同程度には役者もできると見た。悪くない取引相手だ。

 ――だが少なくとも、手を組むべきは今じゃない。

 ――どうせ死なない神ならば、それまでそうして眠っていろ。

 禮次郎はそんな事を考えながら、もう一度鮫のような笑みを浮かべる。神さえ魔さえ使って潰す残忍な悪党レッガーの笑みを。


「まずは函館の連中に連絡ワタリをつけるか」


 禮次郎が耳を澄ますと、既に悲鳴やサイレンの音は聞こえない。

 ――クトゥルーが消えたから、多少は狂気の影響も収まったのか?

 禮次郎は魔道書を懐にしまうと、携帯電話を取り出す。

 既に圏外の表示は消えている。

 ――よし、佐々さんに見咎められる前に、魔道書を何処かに隠さなくちゃな。

 禮次郎は物陰に隠したクチナシの方を見る。

 佐々総介の寄越した式神憑きの紙人形は魔力を使い果たして、すっかり冷たい灰になっていた。

 ――監視は無い。動くなら今だ。

 禮次郎は携帯電話を使って、函館に残っている清水会の下部組織へ連絡を始めた。

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