第42話 旧支配者クトゥルー復活
「シモン! おいシモン! どうした?」
令也は静かになってしまった返事の無くなった襖の向こうに声を掛ける。
――不味いな。ずらかるか?
――でもシモンちゃん置いてくのはちょいと心残りだし……いかんな、若い頃だったら迷わず逃げただろうに迷ってやがる。
――いや、そもそもこの老いた身体じゃトンズラも楽じゃねえ。
そんな事を考えていると、令也の居る六畳間の襖が静かに開いた。
そして令也の眼の前に阿僧祇シモンが無造作に放り投げられた。
「姉さん……姉さん……寂しかったんだよ。どうしてあの時、僕を遠ざけたんですか……僕が居ればあんな男に寝首を掻かれることも……」
――頭をいじられてやがる。だが、誰がこんなことを?
子供のように甘えていて、だけど悲しそうな声で、ぶつぶつと話し続けるシモン。
令也はそれを見た後に、ゆっくりと襖の向こうに視線を向ける。
「ごきげんよう、香食令也さん。首を飛ばされ、
「そこに転がってる奴が頑張ってくれてな……それで、誰だてめえ」
「佐々総介、魔法使いですよ」
令也の視線の先で、白衣の男が笑う。
長髪をポニーテールのように纏め、涼やかな瞳の男は、見た目には清潔であるにも関わらず、どこか宇宙が生まれる前の混沌とその中に渦巻く不浄を思わせる気配がした。
「佐々……あの闇医者の係累か。魔術師の家だとは聞いていたが……」
「先祖返りとでも言えば良いのでしょうか。私がたまたま天才だっただけですよ」
「お前さん、シモンちゃんに何をした?」
「少し幸せな夢を見せているだけです。ついでに記憶を覗かせていただきました」
「……趣味が悪い」
「可哀想な青年ですね。育ての親でもあった阿僧祇マリアの危機に間に合わず、有葉緑郎の妨害を受けている間に教団が瓦解。貴方に出会うまでは大変苦労をなさったようだ」
「それ以上余計な事を言うな。特に、俺に用件があるならな」
令也が鋭くにらみつけると、総介はふわりと柔らかに微笑み、白衣から手鏡を取り出す。
「今日はお取引に伺ったのです」
手鏡の中には十二人分の人間の顔が薄く浮かんでいる。
「そいつは……!」
令也はその顔に見覚えが有った。
――ダゴン秘密教団東京支部が擁する精鋭共じゃねえか。
「驚いていただけたようでなにより、殺さずに囚えるのは苦労したんですよ」
総介がそう言うと十二人の顔が一度消える。
「正気かてめえ……!?」
――どうやってそいつらを撃破した? 撃破できた? しかも殺さないのに苦労した? こいつ、こいつはなんなんだ……?
「まあ御覧くださいよ。貴方だって彼らのすべてを知っている訳じゃないでしょう? セールストークのお時間です」
令也の動揺を他所に、総介は楽しげに話し始める。
「結界魔術の天才にして、ダゴン秘密教団東京支部の魔術的セキュリティを殆ど一人で構築した対魔術防御の第一人者、
鏡の中にメガネを掛けたツインテールの女性の姿が映される。
「生まれ持った魔眼の力により、旧支配者の魔力を自在に宇宙から受信する星辰観測者、
鏡の中に眼帯をつけた白髪の男が映される。
「海水操作という奇妙な魔術に特化しており、海辺の戦闘では無敵を誇るダゴン秘密教団東京支部の特攻隊長、
僧形の若い男が映される。
「海水操作で思い出しました。海中の生物を自在に操るという意味では、彼女も非常に優秀でしたね。保持する魔力も膨大ですし、折角なら当家の嫁に欲しいのですが、うちの子とは年齢が釣り合わないので諦めました……
二十代後半の女性をベースにした金髪の人魚が映される。令也も彼女には会ったことがあるが、こんな姿は見たことがない。思わず目を見張る。
「お兄さんの
「待て、もういい」
「えー? まだ七人くらい居ますよ? ほら、有葉一族の分家筋で、ショゴス=トゥシャとしての実力は当代随一。十二体のショゴスのマニュアル操作を可能とする使い魔のプロフェッショナル、
「お前のその楽しそうな口ぶりが気に入らん」
総介は溜息をつくと虚空に手を突っ込んで一匹の猫を取り出す。
輝く毛並みの三毛猫だ。
にゃあと鳴く素振りさえも美しく、思わず全ての意識をその猫の優美なる姿にもちさられてしまうのではないかと恐ろしくなる……そんな猫だ。
「分かりました。これで手を打ちましょう。傾国の美猫と謳われたダゴン秘密教団東京支部の最終兵器……美獣タマです」
「タマ……?」
――実在したのか。
令也は思わず猫をまじまじと覗き込んでしまう。
――なんだこれは、欲しい。撫でたい。触りたい。
緊迫している筈の状況なのに、令也は自らの理性が徐々に溶けていくのを感じていた。
――不味い。こいつは不味い。深きものどもの力が有ると言っても俺なんかじゃ抵抗ができねえ……!
令也が限界を覚える前に、総介は猫をケージに入れて布で覆う。
「他の十二人は一方的に蹂躙できたこの私もこの猫だけは傷つけられませんでした。なので手土産代わりに貴方にお渡ししようと思いまして。人懐っこいですよ? 犬派じゃなきゃ、流石の私も心奪われているところでした」
「……お前さん。何者だよ」
「町医者ですよ。妻子を愛し、父祖を敬い、未来の為に日夜働く町医者です」
「ったく……まあ良い。それでお前さんの望みってのはなんだ。シモンちゃんとその猫を手土産にして、何の話を俺にするつもりだ」
令也は半ばあきらめて総介に尋ねる。
すると総介は悪魔の如き笑みと共に答える。
「この儀式の管理権、私にいただけませんか?」
令也の背筋がスッと冷えた。
――こいつ、俺が何をするつもりか知っているな。
――シモンちゃんの記憶を読んで、そこから推測したのか?
――だがそれにしては手際が良すぎる。既に大部分の予想を立ててから此処に来たとしか思えねえ。
「お前さん……何処まで分かっている」
「――全て」
「誰にも言ったつもりはないんだがな」
「いや、実に面白い発想だと思いましたよ。自らの持つ能力を最大限に活かし、魔術師でもない身で神を呼ぼうだなどとは。邪神船長ことダゴン秘密教団インスマウス本部初代理事長オーベッド・マーシュの子孫だけはある」
――嫌な名前だ。
――自分の家系なんて知りたくもなかったのにな。
――思えばあれを調べた時から俺の人生は狂ったのか。
令也は溜息をつく。
「あまりうぬぼれが過ぎると足元を掬われるぜ」
「人生の先達の意見は参考にさせていただきましょう。ですが、魔術についての知識は私が圧倒的に上だ。この魔術師めのアドヴァイスに従って取引していただきたい」
「アドヴァイス……はん」
「だって貴方、クトゥルーが呼ばれたら、それで貴方の本当の目的は達成されるじゃないですか。その後のこととか考えてないでしょう? というより丸投げしてる」
真意を言い当てられた令也は黙り込む。
――飲み込まれそうだ。
――全てにおいて圧倒的すぎる。
――何故こんな化物が北海道に居る。
――何故清水会の網にかからなかった。
――龍之介はこいつのことを知っているのか?
――仮に知っていたとしてもここまでの化物だと理解しているのか?
――ここまで話した以上、俺のことは確実に殺すつもりだろう。
――要するに俺に与えられているのは大人しく従って楽に死ねる可能性に賭けるか、意地を張ってあがいて死ぬかの二つに一つ。
――とはいえ、何をするにしても聞かねばならないことがある。
令也は僅かな時間で無数の可能性について思いを巡らせて、それから一つの問いを投げかける。
「お前さん、旧支配者を呼び出して何をするつもりだ? 見た所、俺と同じようにインスマウスの血族って雰囲気じゃねえが」
「完全復活した神ならば別ですが、不完全な儀式で蘇った神は素晴らしい純度の魔術的資源になる。魔力を生み出す炉心に、神殺しのアーティファクトに、魔術の家系の改良に、何にでも使えるじゃないですか」
「おぞましい発想だ。お前さんみたいな奴に神の力は渡せねえ」
令也は懐から煙草をとりだして、火をつける。
「
「いえ、匂いが残ると息子に嫌がられますから」
令也はゆっくりと一服を始める。
「……やはり貰えますかね」
「いける口か。佐々喜介もそうだった」
「父の真似で覚えてしまったんですよ」
二人は先程までの緊張感が無かったかのように煙草を吸い始める。
「お前さんさ、嘘は良くねえよ嘘は。お前の親父も、爺さんも、クソがつくぐらい真面目な男だった。ヤクザものがこんな事言うのも変な話だけど、誠実に生きるのが一番大事だぜ?」
「貴方も結構な嘘つきだったと聞いていましたが」
「馬鹿、確かにお前さんはとんでもない魔術師だ。しかし嘘じゃあ俺の方が一枚上手だ。そんな俺に嘘で勝負して勝てる訳が無いだろう?」
「……いやはや」
「あれだろ」
令也は灰皿で煙草をすりつぶす。
「お前さんが動いているのは……自分のかみさんの為だろ」
佐々総介は、眉を上げて驚愕の表情を浮かべる。
「俺が死を偽装して表舞台から姿を消した後、一応お前さんの家のことも調べていた。なにせ清水会が毎度世話になっている病院だからな」
「彼女のことを話した覚えはありませんでしたが」
「確かにお前は自分の研究にしか興味のない魔術師面で話を続けていた。子供も自分の魔術を継承させる装置程度の口ぶりだった。だがそれが本心じゃないのは一発で見抜くことができたぜ」
「素晴らしい……ですが、どうやってそれを知ったのですか? 実に実に気になります。ぜひとも教えてほしいものです」
令也はニタァと笑う。
「乗せられちゃったかい?」
「は?」
「ハッタリだよ、若造」
「なっ――!」
令也は身にまとっていたアロハシャツを
その下からは既に着火されたダイナマイトが現れる。
「何時の間に!?」
「魔術師相手の手品も、こいつで最後かね」
「させるか!」
総介はとっさに魔力を叩きつけてダイナマイトを奪い取ろうとする。
しかしその直前、突如として現れた漆黒の触手が彼の腹をしたたかに打ち付ける。
「良くも姉さんの姿を見せて愚弄してくれたな! 佐々総介!」
「阿僧祇シモン――っ!?」
総介は再び驚く。幻術にはめた筈の阿僧祗シモンが、使い魔である
「じゃあなあシモンちゃん! お先に行くわぁ!」
「お達者で!」
令也も、シモンも、不敵に笑う。
「おのれぇッ!」
だが佐々総介だけは普段の穏やかさから想像もできない咆哮を上げていた。
彼は
そして、佐々総介の視界を紅蓮の炎が包み込んだ。
*
廃墟の中で佐々総介は目を覚ます。
「不覚を取りましたか……!」
眼の前には香食令也だった肉片と
阿僧祇シモンの気配は無い。逃げられたのだと総介は悟った。
「くそ……ふざけるな。何故こうなる……私はただ……彼女が生きてさえいれば良いだけだというのに……!」
佐々総介はゆっくりと起き上がり周囲と自らの状況を確認する。
状況は最悪だった。
「あれは……!」
彼の目前、先程まで怪しげな儀式を執り行っていた広場の中央には、ヤリイカのような頭で、コウモリの翼を背から広げる巨人が立っていた。
巨人は黄色い瞳で虚空を睥睨し、名状しがたい奇っ怪な咆哮を上げ、巨大な拳を握りしめる。
表皮には絶えず明滅する斑点がくまなくついており、見ているだけで頭が痛くなるようなおぞましい光を放っていた。
「上手い策ですね……香食令也。自らを生贄にして、私の目論見を打ち砕いた訳ですか。あの怪我さえ無ければ手のうちようもあるのですが……忌々しい!」
一方で総介の全身には呪いの込められた木片が突き刺さり、
「しかし、これは……困りましたね」
――無事にこの状況を切り抜ける方法は無さそうだ。
巨人は一瞬だけ総介の方を見る。
しかし総介が自らの顔を見ても怯える様子が無いことを悟ると、プイと顔を背けて、近くの海へと向かって歩き出す。
覚悟を決めていた総介としては拍子抜けだ。
――助かった。
総介は思わずそんなことを考えてしまっていた。
それに気づいて、彼は屈辱と敗北感に唇を噛む。
「いえ、教訓……そうです。今日のことは教訓として心に留めましょう。これでまた一つ、私は強くなった。そうだ。それにあの十二人の魂を使えば、彼女の命もまた半年は伸ばせる」
佐々総介は懐にしまっていた手鏡を眺め、無事を確認する。顔を上げて海の方を眺める。
タマが爆発に巻き込まれて死んだので十二人分しか残っていないが、それでも彼にとっては十分な収穫だ。
「……それよりも」
全身から木片を排出し、わずか数秒の間に傷を塞ぎつつ、彼は海へと歩き始めた巨人を見送る。
「烏賊っぽいのは土地柄でしょうか……?」
かつてこの星の三分の一を統べた邪神王クトゥルー。
肝盗村の不完全な儀式と令也の用意した不十分な量の生贄によって復活したせいか、その足取りはどこかぎこちない。
かの神を知ればこそ、総介にはその弱りきった姿が信じられなかった。
「……禮次郎君に連絡しましょうか」
総介は何もない虚空から、突然紙人形を取り出すと、それに息を吹きかけて空へと飛ばした。
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