第48話 おっと、話の途中だがティンダロスの猟犬だ
「……待って下さい」
僕がそう言うと、有葉さんの動きがピタリと止まった。
「なんだい?」
「あの、まだ聞きたいことがあるんですけど、ヤロールってどんなところなんですか?」
「君のような特殊能力を持つ人間を捕まえて、売買するオークション会場さ。世界中の海を駆け巡り、世界中の金持ち・好事家・変態・魔術師・マッドサイエンティストを相手に商売している。とはいえ過去にそういった家の人間が攫われて売られたことも有るし、そのせいでイメージは最悪だから、よほどの変わり者でなければここを利用するなどと公言はしないけどね。ここを利用していると公言する魔術師が居るなら、俺のように頭がおかしいアウトサイダー・アーティスト気取りか、あるいは何も知らない素人だよ」
「売られるとどうなるんですか?」
「運が良ければ召使いにされる程度で済むし、主人に気に入られればそこそこ悪くない生活が待っているかもしれないね。だがまあ大方は実験動物だ。勿論どう転ぼうとも人権は無い。ここは今のようにチャイニーズマフィアに運営される以前から、その時代ごとの非合法組織が、神話世界と俗世の接点として用いる後ろ暗いビジネスの舞台だ。何をしても司法の手は届かん。表の世界にせよ、魔術の世界にせよ、ありとあらゆる権力から自由になって財力を思うがまま振るうこともできるのさ」
それを聞いて思わず身体が震えた。
確かに神話生物やカルト教団が関わる事件は体験した。
なんなら旧支配者の復活の儀式を止めたことだってある。
だけどこれはそれと別種の恐怖だった。
「景気の悪い顔をするなよ。君は助かるんだ。普通の家に生まれた人間なのに助かるなんて、ラッキーじゃないか」
「この船に捕まっているのは……僕だけじゃないんですよね」
僕と同じ思いをしている人がこの船には居る。
あの女を前にして震えるしかない人々が居る。
「んん、そうだね。色々な人が居たとも。だが俺が助けるのは君だけだ。ヤロールの主は人間じゃない。海の上ならばまだしも、船内で、只の魔術師である俺が、正面から戦って勝てる相手ではない……だから諦めてくれ」
諦める。
その言葉が胸の中に絡みつく。
有葉さんはそんな僕を見て溜息をつく。
「まあ脱出の後、君がこの船について追いかけるのは自由だ。君と俺だけでこの船を相手取るのが無謀ってだけだよ。君のような人間が心を痛めることを責めはしないよ」
【
慰めてくれているのだろうか。
確かに彼の言うことは正しい。まずは伊吹の居る場所に、皆の場所に帰らなきゃ。
この船は確かに危険なところだ。放って置くことはしたくない。だけど、僕一人では何もできない。それは事実だ。
悔しいけど、有葉さんの言うことは正しい。そうだ、正しいんだ。
「さて、ひとまずの行動指針が定まったことだし、早速動いていこうか」
有葉さんが両手を静かに合わせ、瞳を閉じる。
何かの魔術だろうか。
【
【
「俺の探知魔術では周囲に何も居ないと出ているが、どうだ?」
「はい。有葉さんは成功しています」
「便利だなあそれ。只の人間が持っているのには惜しい」
ニヤニヤと笑う有葉さん。
恐ろしくなって身構える。
「あ、冗談だよ! 読者から目を奪うなんて! 俺がするわけ無いだろう!」
「ほ……本当に、冗談ですよね?」
「当たり前だよ!」
【
ものすごく怪しい。だがファンブルと書いてある以上、違うのだろうか。
ともかく僕にはわからない。
「……まあそんな漫才をするのは後にしてだね」
有葉さんは咳払いをする。
「こいつを使え。俺は自分自身に同じ効果の魔術をかけているから気にせず使ってくれ」
「どんなものなんですか?」
僕は眼鏡を受け取る。
「変装用の簡単な魔道具だ。かけるだけで誰にも顔が認識できなくなる。同じものを知り合いに使わせて効果は確かめてあるから、安心したまえ」
言われるがままに僕は眼鏡をかけた。
*
「ここは特等客室のエリア。俺が使う一等客室はこの先にある」
有葉さんと共に僕は部屋を出て、船内を歩き始める。
調度は非常に豪華な中華風で、壁にはずらりと高そうな西洋が飾られている。
そのちぐはぐさになんとなく据わりが悪くなる。
ツンとするお香もそうだ。甘い香りの筈なのに、少し強すぎる。
見た目には美しいのに、全てが少しずつ歪んでいて、ここが現実の空間なのか不安になっていく。
廊下には誰も居ない。恐ろしいほどに静かだ。
「あまりここのものを見るな。人間の正気を奪う」
「有葉さんは平気なんですか?」
「俺は魔術師だからな……そこらの部屋の中はもっとすごいんだ。魔術師である俺でも、あるいは気がおかしくなるかも……」
「部屋……ですか」
「豪華客船だから防音は完璧だが、酷いものだぞ。良ければ聴覚を少し強化してやろうか? 若い女も居るから多少は楽しめるかもしれないが……」
「遠慮しておきます」
冗談じゃない。考えたくもない。
【
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一瞬で流れる文字列。
甲高い悲鳴が前を通り過ぎた部屋からわずかに漏れる。
防音は完璧じゃなかったのか。
何が起きたのだろう? 誰が居たのだろう?
【
「どうした君、顔が青いぞ」
「有葉さんは……」
「俺は君と違って悪人だからねえ」
有葉さんは楽しそうに笑って右手に持った中折れ帽子をクルクルと指で弄ぶ。
「悪人……」
「そうとも、善性を嗤い、悪性を嘲る。そして全てを物語に還元して陳腐化させる。そういう男だ。今も君のような善良な人間を玩具にして、今もこの扉の向こうに居るような弱い人間を見捨ててせせら笑う。そういう悪質な男だよ」
どう答えたものかと悩んでいる間に、有葉さんは喋り続ける。
「君は違う。話に聞く限り、君は善性の人間だ。俺はそういう人間の輝きが好きで好きで堪らない」
何処かで聞いた話だ。
【
これは誰の幸運だ?
「有葉さん、何か来ます」
「――何? 俺の魔術による探知に引っかからないとなれば……」
僕たちの目の前の空間に霧がかかる。絵だ。並んでいた絵の額縁から、青い霧が吹き出している。
「んん、楽しいおしゃべりの最中に申し訳ないがティンダロスの猟犬だ。君は少しだけ下がっていろ」
有葉さんはそう言いながら、懐から護符のようなものを取り出して何かを書き込んでいる。
その間に霧が凝結し、青い体液を滴らせながら、蝙蝠のような羽を持つ奇怪な生き物が這い出してくる。
【
【
ティンダロスの猟犬。
時間移動や過去視・未来視を行った人間を探し、命を奪おうとする神話生物だ。
通常の武器や物理的攻撃が通じにくい相手だというのは聞いているが……どうするつもりなのだろう。
「手短に済ませよう」
【
有葉さんがそう言って欠けた五芒星の書かれた護符を投げつけると、ティンダロスの猟犬の脚が止まる。
そのまま有葉さんは猟犬に近寄り、万年筆を突きつける。
「時と空間を司るヨグ=ソトースの名の下に命ず。汝、あるべき場所へ帰れと」
【
次の瞬間、万年筆から青白いインクのような物が飛び出して猟犬の全身に巻き付き、そのまま猟犬を音も無く折りたたんでしまう。
そしてドッという音が一瞬だけしたかと思うと、猟犬が今まさに這い出そうとしていた額縁へ、僕たちの周囲を覆っていた霧と共に押し返されてしまう。
「どうだい? これが古代ギリシャにおいて想定されていたヨグ=ソトースの拳の本来の用途さ」
「なんなんですか今のは?」
「ティンダロスの猟犬が這い出す“角度”の中に、ティンダロスの猟犬をそのまま押し返した。そして猟犬は一度撃退されるとしばらくは出てこられない」
「しばらくは襲われないってことですね……ともかく助かりました」
「実は助けられたのは俺もだ。君が前もって異常を検知していなければここまで手早く旧神の印は用意できなかった。つまり我々の共同作業という訳だ」
そう言って有葉さんは手を差し伸べて握手を求めてくる。役に立ったと言われても実感は無いのだが、なんだか嬉しそうなので、僕は彼の手を握り返した。
「お客様、何かございましたか? 船内での魔術の行使は原則として禁止されております」
そんな時、背後から声をかけられて思わず驚く。
シャンと名乗った女の部屋に居たスーツ姿の男たちがいつの間にか僕たちのすぐそばに立っていたからだ。
「この船のセキュリティはどうなっているんだ! ティンダロスの猟犬に襲われたぞ!!」
【
「ティンダロス?」
「この船の使い魔にそんなもの居たか?」
男たちが僕に気づく様子は無い。
注意はもっぱら有葉さんの方に向けられている。
しかし男たちはまだ何処か有葉さんを疑っているような雰囲気が有る。
「旦那様、やはりあの過去を視る水晶についてお話になった方が良いのでは? こちらの船にならば専門家の方もいらっしゃいますし……」
僕は有葉さんの召使いの振りをして、そう問いかける。
「――馬鹿もの! 余計な事を言うな!」
「お客様、もしもトラブルがございましたら……」
「ええい余計な口をはさむな! ここで見たことは忘れろ! 良いな!」
そう言って有葉さんは懐から幾ばくかの金を出して、スーツの男たちの懐に押し込む。
【
よし! 上手く行った!
男たちは若干困惑しながらも、ニヤニヤとした笑みを浮かべている。
「旦那様、もう参りましょう。今晩もご予定があるのですから……」
「ふん! 俺の目当ての商品まではまだ時間が有るんだから慌てるんじゃない! 俺の召使いならば常に優雅さを忘れるな!」
「は、はい……申し訳ございません」
「ペコペコするな! 行くぞ!」
黒服から離れて一等客室の有葉さんの部屋までたどり着く。それから僕たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。
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