第3話 魚人は神域の夢を見る・前編

 禮次郎れいじろうがクチナシの家でクチナシの父の手記を手に入れてから数日が過ぎた。

 昼は禮次郎からの宿題と家事をこなし、夜は禮次郎とテレビや映画を見て、休日は何処かに遊びに行く。そんな生活にクチナシが慣れてきた頃、禮次郎は突然組長に呼び出された。


「清水会、合成麻薬MDMA製造管理部門主任、香食こうじき禮次郎れいじろうです。只今参りました」


 呼ばれるままに飛んできた禮次郎が通されたのは、教科書で見覚えの有る油絵や日本画や水墨画が飾られ、高そうな壺や置物が洋の東西を問わずに並ぶ豪奢なオフィス。

 部屋の中には虎の皮を使った敷物と黒塗りの象革のソファー。マホガニーのテーブル。ソファーには黒のスリーピーススーツを着た老人が座っている。

 老人の名は清水しみず龍之介りゅうのすけ。札幌一体を取り仕切る暴力団やくざ清水会せいすいかい”の組長だ。


「来たか禮次郎。しゃっちょこばらずにまあ座れや」

「失礼致します」


 禮次郎が龍之介の向かい側のソファーに座ると、老人は枯れ枝のような腕で葉巻を手に取り、金色のライターで火を点け、見せつけるように紫煙をくゆらせる。


「禮次郎、表の仕事はどうだ?」

「ぼちぼちです。毎日お局様のおばちゃん薬剤師とやけに態度の大きい患者に頭を下げ、定時に帰るだけですよ」

「そうか。それにしちゃ最近、酒や博打や女遊びの付き合いが悪いって聞いたぞ。女でもできたか?」

「女……ですか」


 禮次郎は苦笑いを浮かべる。


「黙っといてやるから、ちょっと話してみろよ」


 龍之介がそう言った時、絶対に隠し事はできない。

 組長おや子分というのはそういうものだ。


「分かりました。組長オヤジさんには何時か話そうと思っていたことです」


 ――腹をくくるしかないか。

 覚悟を決めた禮次郎はポツリポツリと話し始める。


組長オヤジさん、俺……ガキを拾っちまったんです」

「ガキ? お前のか? 何時の間にこさえてた」

「いえ、深夜路上でぶっ倒れてたガキです。最初は家出娘かなにかだと思って、サツにでも引き渡そうかと思ってたんですが、何分込み入った事情がありまして……」

「事情?」

「その娘、どうも父親を殺したみてえなんです」

「親殺しか……そいつぁ任侠じゃねえな」

「ですがその父親ってのが頭のイカれたクズ野郎でして……母親を亡くしてから娘を家に閉じ込めていたみたいで……」

「なぁにぃ? そいつも任侠じゃねえな」

「その父親を殺して、家を逃げ出した後、行く宛も無い娘を俺が拾ったという次第でして……」

「……成る程、そいつは任侠だな」


 龍之介はニヤリと笑う。


「で、お前さん死体の処理はどうした?」

「不要でした。俺が調べた範囲では警察も捜査のしようが無いかと」

「それは良い。娘の戸籍は?」

「分かりません。家には何も残されていなくて……」

「よし、分かった。その娘の戸籍を用意してやる」

「良いんですか!?」

「ああ、代わりにお前さんにゃ一働きしてもらう」

「一働き……ですか」

「ウチの組がクスリの取引に使っている創成川の岸に人面魚が出たって噂が立っている。お前にはその噂の真偽を確かめ、できれば人面魚を追っ払って欲しい」

「人面魚? ああ、俺も噂にゃ聞いてましたが……」


 禮次郎は耳を疑う。まさかヤクザが人面魚を退治なんてやらなきゃいけないのか。


「確かに馬鹿げた仕事に思えるかもしれねえ。だがそこそこ暇で、出世に興味の無いお前にしか頼めねえんだよ。こんな馬鹿馬鹿しい仕事は」


 ――警察を使って野次馬を追っ払っても、噂がある限り戻ってくる。警察に貸しを作るだけだ。

 ――専業やくざの他の組員達を使っても、馬鹿馬鹿しい仕事を任されたことで反感を買う可能性が有る。

 ――クスリの取引に関わる問題ならば、できるだけクスリの現場に詳しい人間に任せたい。

 ――確かに俺が適任だ。


「分かりました。お任せ下さい」

「よし良く言った禮次郎。埒を明けてこい」

「はい。お任せ下さい。早速行ってまいります」

「おう、その娘さん幸せにしてやれよ」

「ありがとうございます……頑張ります」


 禮次郎はソファーから立ち上がって、深く頭を下げる。

 それから仕事の資料を受取り、家へと戻った。


     *


「ただいま。遅くなったな」

「おかえりー、ご飯作っといたから食べてー。今日は料理本に載ってたビーフストロガノフでーす」


 禮次郎が家に戻ると、クチナシは床に転がりながらお笑い番組を見ていた。

 禮次郎はキッチンに作り置きしてあるビーフストロガノフを皿に盛り、ワイン片手にクチナシの隣りに座る。

 ――やっぱ、すごいなこいつ。

 プロの料理に勝るとも劣らない出来栄えのビーフストロガノフに、禮次郎は舌鼓を打つ。


「クチナシ、人面魚の話を聞いているか?」

「人面魚? そういえば最近噂になってるね」

「やっぱりそうなのか?」

「近所のお菓子屋さんとか、八百屋さんとか、皆話してるよ。夜中なのに川沿いが騒がしくて迷惑だって」

「他には?」

「お菓子屋さんのおじいちゃんが神様の使いなのに興味本位で見に行くなんてバチあたりだーって言ってた」

「神の使い?」

「おじいちゃんもあんまり詳しく話してなかったからなあ……」

「お菓子屋のおじいちゃんって言ったら……ああ、高血圧の人か」

「知ってるの?」

「偶に薬局に来るんだ。明日、ちょっと付き合ってくれないか? そのおじいちゃんに話が聞きたいんだ」

「良いけど、二人で行ったら僕達の関係どうやって説明するつもり?」

「良いじゃねえか、この前言った通り親戚の子供で」

「うーん……正直な所ね。僕はそういう扱い好きじゃないなあ。もう子供じゃないんだし」


 禮次郎はため息を吐いて肩を竦める。


「あのな……」

「うん」

「バカ正直に同棲相手って言ったらな」

「うん」

「おまわりさんが来る」

「うーん……」


 クチナシはあっちゃーと言いながら自らの額をピシリと叩く。


「……じゃあそういうことでいいや」


 複雑そうな表情のクチナシ。

 だが彼女もそこで我儘を言う程子供ではない。


「禮次郎は僕に早く成長して欲しい? それとも……」

「あまり大人をからかうな。俺は少し手記を読む。もしかしたら創成川の人面魚について何か分かるかもしれないからな。何か有ったら言え」


 ビーフストロガノフを食べ終え、ワインを飲み終えた禮次郎は、部屋の金庫からクチナシの父が遺した黒革の手記を取り出して布団に寝転ぶ。

 手記からはまだ微かに血の香りがする。


「テレビ消す?」

「いや、つけとけ。じゃないと頭がどうにかなりそうだ」


 テレビの中でミルク姐さんなるキャラに扮した芸人が「水曜の夜いかがお過ごし? ミルク姐さんよ」と視聴者に問いかけていた。


     *


 翌日、仕事が休みの禮次郎はクチナシと共に和菓子屋を訪ねた。

 

「どうも、元気になさってましたか?」

「ああー! あの若い薬剤師さんじゃねえか! 心配せんでも薬は飲んでおるよ」

「おじいちゃんこんにちわ。またお菓子買いに来たよ」

「おう、この前の嬢ちゃんも居るのか! どうした二人共知り合いなのか?」

「大学の学費をお世話になっていた遠縁の親戚の子を預かっているんですよ。親が病気で、しかも俺以外に親戚が無かったものですから……」


 いつもと違って慇懃な物腰の禮次郎にクチナシは思わずニヤニヤしてしまう。

 これに気づいた禮次郎は嘘と見破られないかヒヤヒヤしたが、和菓子屋の老人はクチナシが禮次郎に懐いているから笑顔なんだと好意的に解釈していた。


「なるほどなあ……嬢ちゃんも苦労すると思うが、頑張りなよ」

「大丈夫です。禮次郎さんには優しくしてもらってますから!」

「そうかそうか……ほい、芋ようかん詰め合わせだ。一週間以内に食っとくれよ」


 禮次郎はぴったりの額を代金として渡すと、ようかんの詰め合わせを受け取る。


「どうも。こいつがまたお茶に合うんですよ。職場に持ってって食べてます」

「そういう話を聞くのは嬉しいもんだなあ。やり甲斐になるぜ」

「何時迄も元気に商売してくださいね……」


 禮次郎は店に他の客が居ないことを確認してから、世間話の体で老人に創成川の人面魚について聞いてみることにした。

 

「……そういや最近、このあたりも騒がしいですね。夜も歩き回っている人が居るんで驚きましたよ」

「ああ、その話な」

「どうしたんですか?」

「人面魚さ。最近出たって言う人面魚を探すつもりなんだろうが、とんでもねえことだ。あのバチあたり共め!」


 先程まで和やかに笑っていた老人が、語気を荒くして怒りを見せる。


「バチあたりですか?」

「俺達のガキの頃はよく聞かされたもんよ。元々、創成川ってのは大友亀太郎って人が作ってくだすった川でな。川を作るにあたって、亀太郎さんは石狩川のヌシに三日三晩お願いして水を引くことを許されたんだ」

ぬし?」

「おうよ、それが人の顔をした巨大な魚だ。元々住んでいたアイヌはニツネカムイって呼んどったそうな。だいたいなあ、考えてもみろ? あんな浅い創成川に居る魚なんぞ普通鳥に食われちまうだろうが。それを食われもせずにずっと居るってのはお前、間違いなくヌシの使いなんだよ」

「石狩川にそんな伝承が……」

「若い薬剤師さん。あんた何処から来なすった?」

「函館ですが……」

「あすこにも色々有るぞ? 今度聞ける機会が有ったら聞いてみい」

「知りませんでした……郷里の友人と連絡を取る機会があったら聞いてみます」

「おじいちゃんありがとう。またお菓子買いに来たら、お話聞かせて下さい」

「はっはっは、昔の言い伝えだ。こんな可愛い嬢ちゃんが、年寄りの話を聞いてくれるんなら、逆にお菓子をごちそうしてやりてえくらいさ」

「それじゃ俺達はこの辺で失礼します。また今度!」

「おう、また来てくれよ」


 二人はにっこりと頷くと店を出た。

 店の前の創成川には相変わらず軽薄そうな面の男女が、カメラ片手に騒ぎながら、アテもなくうろついていた。

 二人はうんざりとした顔で同時にため息を吐いた。


     *


 三十分後。

 二人はコンビニに寄って弁当と飲み物を買った後、高速道路を北に飛ばしていた。


「しっかしさっきの創成川沿いの道は混んでいてひどかったねえ」

「馬鹿が車道にも飛び出してくるしな」

「このままだと屋台でも並ぶんじゃない?」

「かもしれねえ。地方紙も人面魚騒ぎで一杯だ。ここ最近、ますます紙面が増えている。人面魚らしい写真も新聞に載っていた」


 禮次郎は地方紙の朝刊をクチナシに渡す。


「禮次郎はなんで人面魚の調査にこんなに熱心なの?」

組長オヤジさんから頼まれてな。取引の邪魔になるから野次馬が寄り付かないようにしろって」

「禮次郎のお父さん?」

「ああ、わかりやすく言うと組長くみちょうって奴だ」

「ふうん……」


 クチナシは怪訝そうな目で禮次郎を見る。

 それに気づいた禮次郎は首を傾げる。


「どうした? 俺は何か変な事を言ったか?」

「禮次郎、そういう時に真っ先に人面魚やら伝説やら調べるのって変だよ?」

「え? いや、待てよ。だけど現実にああいう連中は居るだろう? お前が一番良く知っている筈だ。だってあの時俺を生きたまま食って……」

「――何のこと?」


 怯えた瞳のクチナシ。

 

「……僕、知らないよ?」

「そうか……そうなのか」

「禮次郎まで、僕のお父さんみたくならないでね?」

「ああ……気をつける」

「その手記だって危険だよ、もう捨てた方が……」

「それは駄目だ。こいつを捨てる方が危険だ」


 禮次郎はハッキリとした口調で断言する。

 ――この手記に書かれていることには価値がある。

 禮次郎はもうこの手記を手放す気にはなれなかった。


     *


 1990/6/12

 協力者の佐々博士が提供してくれた資料によれば、神居古潭カムイコタンと呼ばれるアイヌの聖地には我々が“深きものども”と呼び習わす異形の一族が居たらしい。

 彼等は人間としばしば取引をした。

 狩猟の獲物や捧げられた生贄と引き換えに財物や魔術を与え、近くの集落を豊かにしていたというのだ。

 勿論、それだけならば何処にでも有る古い民話になるが、この“深きものども”はより悍ましく悪辣な交換条件を提供する。

 それは混血だ。人間を使い自らの子孫を遺していたというのである。

 幸いにして、後の時代にその集落は滅びたものの、今も彼等の子孫が神居古潭に残っている可能性は高い。

 人間の遺伝子と適合性が高いことから、近々実験用のサンプルを採取しに行く予定。


【第3話 魚人は神域カムイコタンの夢を見る・前編 終】

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