第2話 悪夢に誘う手記を読む
「今日の運勢第一位はふたご座の貴方! 運命の相手に出会うかも!」
「……夢か、あれ? なんで俺がクチナシの布団で寝てるんだ……?」
禮次郎は自分が五体満足で布団の中に居ることに驚く。
――記憶が正しければ、俺はクチナシに食い殺された筈なんだが。
さて何処からが夢で、何処までが現実だったのか。
今の禮次郎には分からない。
「おはよう禮次郎! 朝ごはん作ってるからちょっと待っててね!」
一つだけ分かることは、禮次郎のエプロンをつけたクチナシが、禮次郎の為に朝ごはんを作ってくれたということだ。
「禮次郎ったら冷蔵庫にネギと玉子とお肉しかないんだもの。こんなんじゃチャーハンくらいしか作れないよー!」
クチナシは口ではぼやきながらも、楽しそうにフライパンを振り回し、黄金色に輝くチャーハンを作っている。
その器用さに感心しながらも、禮次郎はどうにも状況が解せない。
「え? ああ、すまないな」
「そうそう、お布団汚れちゃったからゴミに出しておいたよ」
「なに?」
禮次郎は凍りつく。
――やはり昨日の悪夢は現実だったのか?
――じゃあ何故俺は生きている?
戸惑う彼を他所にクチナシは頬を赤らめている。
「昨日は激しかったね禮次郎。まあ禮次郎なら良いかもなってちょっと思ってたけどまさかそこまで大胆だとは……確かにヤクザだよ……」
「んん……?」
禮次郎は顔面蒼白になって頭を抱える。
――ちょっと待て、何をやったんだ俺は。
その問に答える者は居ない。
――こうなると、あの悪夢が現実だった方がマシな気がする。
禮次郎は深く溜息を吐く。
「……昨日」
「うにゅ? どうしたの?」
クチナシは刻んだネギをフライパンに放り込みながら振り返る。
その瞳は輝き、頬は上気し、今まさに幸せ一杯という顔だ。
そんな顔を見ていると、禮次郎は何も言えなくなってしまう。
「……いや、良い。分かった。俺も
――こうなったら、真正面から受け止めるしかねえ!
結局、禮次郎は腹をくくる。
――昨日の夜は酔っていた。何をやらかしたとしても、何をされていたとしてもおかしくはない。
――たとえ、この少女の見た目年齢がどう見ても未成年だったとしても。あるいはこの少女が人間ですらなかったとしても。無防備に彼女を引き入れた己の
――そうだ。全ては己が過ち。そして大人は自分で責任を取る物だ。
禮次郎の正気と日常が音を立てて崩れ去っていく。
それでも禮次郎は、
「それよりもチャーハンできたよー! めしあがれ!」
「ああ、ありがとよ。貰うぞ」
禮次郎はテーブルに座り、運ばれてきたチャーハンに手を合わせる。
クチナシはニコニコ笑いながらその様子を眺めている。
「僕も一緒に食べていい?」
「勿論。お前が作ったんだろうが。分けてやるから皿もってこい」
「はいはーい!」
こうして、禮次郎はこの歪んだ日常に順応することになった。
――考えてみれば、家に女が居て、こうやって家事をしてくれる生活というのも悪くない。
――いや、違うな。
――もう考えるのが面倒くせえ。
若干投げやりになったとも言う。
*
「どうかな禮次郎? 美味しかった?」
「美味かった。久し振りに家で美味いもの食ったよ」
「やったー!」
「こんな仕事じゃ嫁さんも貰えないし、難儀してたんだ」
「仕事っていうかさ」
「ん?」
「禮次郎……ロリコンだよね」
クチナシは若干憐れみの篭った生暖かい目で禮次郎を見る。
「ばっ、おまえ……ちげえよ! ちげえっつうの!」
禮次郎が否定するほど、クチナシの瞳の中に宿る憐れみの色が濃くなっていく。
これから世話になる人間を追い詰めるのも良くないと考えたクチナシは、話題を切り替えることにする。
「あっそう。そういえば禮次郎の仕事って何?」
「だーから、昨日言っただろ。ヤクザだよ」
「ヤクザ? え、冗談じゃないのあれ?」
「麻薬の密造管理やってる。口外したら石狩湾で蛸の餌だ」
「嘘?」
「嘘じゃない」
クチナシはしばらく沈黙する。
仕方ないので禮次郎は小型の拳銃を取り出してサイレンサーを付け、壁に向けて発射する。
プスッという気の抜けた音と共に壁に弾丸がめり込んだ。
と、同時にクチナシがしなしなとへたり込む。
「壁は心配するな。どうせ組の管理する物件だ」
「わ、分かったから殺さないで……ください! ロリコン呼ばわりしたの謝るからぁ!」
クチナシはプルプル震えながら首を左右に振る。
そんな彼女の姿を見て禮次郎はカラカラと笑う。
「だから、別に喋んなきゃ何もしねえよ」
「ほ、本当の本当!?」
「喋ったら石狩湾でタコの餌な」
「は、はい……」
「昼間は薬剤師してるから、人に聞かれたらそう答えておけ」
「うん……」
「とりあえずお前は親戚の子供ってことで頼むわ」
「わ、分かった……あ、あのさ」
「どうした?」
「禮次郎が本当にヤクザなら、お願いがあるの」
クチナシは禮次郎に手を合わせて頭を下げる。
「普通の人には頼めないんだ」
「なんだ」
「僕、家に戻りたいんだ。一緒に来てくれないかな」
「家?」
「昨日話したよね? 僕が父親を殺したって」
「あー……そんなこと、言ってたような……」
「でも変なんだよ。数日前に殺したのに、ニュースじゃ全く事件の話をやらないんだ……そこのテレビで幾つもニュースを見たし、禮次郎の部屋の新聞も漁ったけど全く無い。確かに山奥に住んでいたけど、変だなって……」
「近所との交流は有ったのか?」
「僕、9歳くらいの頃から部屋に閉じ込められてたから良く分からない」
「そうか……となると、案外見つからない可能性も有るぜ。近所との交流が無かったんだろう」
「そうなの?」
「じゃなきゃ子供を家に監禁しておくなんて出来ないだろうが」
「そうか……」
「だが本当に行くのか?」
「うにゅ? どゆこと?」
「仕事柄、厄介事には良く巻き込まれる」
「ヤクザだから?」
「言っておくが、触らぬ神に祟り無しだ。目と耳を塞いで、お前が悩んでいる幾つかの問題も忘れ、俺と大人しく暮らした方がお前にとっては絶対に幸せだ」
「プロポーズ?」
「ちげえよ」
「……いやまあ、それは分かるけど……そうけもしれないけど、さ」
不服そうなクチナシを見下ろして、禮次郎は溜息をつく。
「お前がどうしても行きたいってなら俺も行く」
「良いの?」
「じゃないと、お前一人で行くだろ?」
「ありがとう禮次郎!」
クチナシは笑顔を見せて禮次郎に抱きつく。
「そうと決まれば服買うぞ服! その格好で外歩き回るつもりか?」
「良いの!? ありがとう禮次郎!」
クチナシの表情がパッと輝いた。
狂っていく日常。狂っていく思考。狂っていく運命。
香食禮次郎が完全に正気を失うまで、あと三ヶ月。
*
その日の午後。
二人は札幌が誇る魔境・南区に有るクチナシの生家へと向かうことになった。
「此処がお前の育った家か」
定山渓に程近い場所にある丘の上の一軒家。
白い壁に赤い屋根、家の前の駐車場に車は無い。
禮次郎はその空っぽになった駐車場に愛車のFIAT500を停めた。
二人は車から降りて、家を眺める。
「随分洒落ているじゃないか」
車から降りた禮次郎は普段から裏の仕事の時に着るオースチンリードのスーツ姿だ。
「良い思い出なんて無いけどね」
その隣に立つクチナシは禮次郎が馴染みの服屋で買ったベージュのダッフルコート。下にはチョッキ、ブラウス。履いているのは赤と黒のチェックのスカート、110デニールの黒いタイツ、靴は赤いローファーを選んでいる。
「俺が先に行く」
「うん」
家に表札は無い。それがなんとも言えず不気味だ。
禮次郎は意を決して、扉に手をかけ、ノブを捻る。
小さな家の扉はあっけないほど簡単に開いた。
「鍵はかかってないみたいだな」
「だね……内側と外側に南京錠が沢山付いていたのに……」
「ずいぶんと……ん?」
禮次郎が「落ち着いているな」と言おうとして振り返ると、クチナシは彼のスーツを掴んだまま、建物の中をじっと見つめている。
落ち着いた口調とは裏腹に、本当のところは怖いのだ。
「ほら、そんなとこじゃなく手を握っておけ」
「べ、べ、別にそんなことしてもらわなくてもいいし!」
「照れるんじゃねえよ、ガキ」
「な、なによ!」
禮次郎はクチナシの頭を撫で、彼女の小さな手を包み込むようにして握る。
彼はまずは玄関の様子を探る。
綺麗に掃除された玄関。靴は並んでいない。靴箱の中にも何も無い。
真っ直ぐな廊下とその奥にはリビング。そして玄関からすぐの場所に二階に繋がる階段が有る。
「二階に父さんの書斎と寝室が有るから……死んでるなら多分其処だと思う」
「分かった」
二人は靴を脱いで玄関に上がり、階段を静かに登る。
音を立てないように一段一段慎重に。
周囲から物音は聞こえない。
「途中で待っているか? それとも俺と来るか?」
「ねえ、こんな所で僕一人にするの?」
「馬鹿言え。そんな訳無いだろう。嫌がらないか不安だっただけだ」
「良かった……上がってすぐの部屋が書斎だから。まずそっちから行こう。寝室はちょっと嫌だし」
二階に上がるとすぐに二人は書斎の前まで来た。
禮次郎は迷わずドアを開ける。
「うぅわっ……なにこれ!」
その瞬間、悲鳴を上げてわざとらしく鼻をつまむクチナシ。
流石に慣れていることもあって顔色一つ変えない禮次郎。
小さな書斎は濃厚な血の匂いに満たされている。
「血の匂いだよ。嗅いだことが無いのか? だが、どういうことだこいつは……」
禮次郎は小さく呟く。
怯えはしないが、禮次郎は戸惑っていた。
「なんでこんな綺麗な部屋なんだ」
だが、その部屋が血に汚れた様子は無い。
整然と並ぶ本棚も、白い天井も、うっすらと埃が積もっているが、それだけだ。
禮次郎も細かく観察してみたものの、本棚の埃の跡から何冊か本が抜き取られたような形跡が有ることしか分からない。
――俺達以外にも誰か来たのか?
禮次郎はそんなことを考えながらも、部屋の観察を続ける。
そんな時だ。
「ねえ、禮次郎。あれって何かな……見たこと無いんだけど」
そう言われて禮次郎は初めて気づく。
クチナシが指差す先、机の上に分厚い黒革の手帳が有った。
表紙には手記と書かれている。
「読んでみればわかると思うが……」
「禮次郎、僕読みたくないから代わりに読んで」
「良いのか?」
「だってそれの中身ってあいつの書いたことだから……嫌だよ。これ以上あいつについて知りたくも無い」
「そうか……」
禮次郎はクチナシから手記を受け取る。
「ん?」
「どうしたの?」
「これ、何処かで……」
「知ってるの?」
「似たような手帳を……いや、まあ良い。まずは読む。ちょっと待ってろ」
禮次郎は僅かに浮かんだ違和感を押し込め、手記の斜め読みを始める。
そこには茶色に近い黒緋の文字で、こんなことが書かれていた。
*
1986/6/12
娘と共に石狩へとピクニックに行った。
彼女は初めて見る海の風景に驚き、波打ち際でおっかなびっくり波と戯れていた。
妻と私はそれを見て微笑む。幸せだ。
1986/7/12
娘と共に夏祭りに行った。
当たりもしないクジを引きたいとせがむ娘に、私達は思わず微笑んでしまった。
そんな私達を見て、クジを引けると思って喜んだ娘があまりに可愛かったので、お小遣いをあげてクジを引かせてしまった。
勿論外れだった。
1986/8/12
父が急死した。決して良い父親ではなかったし、私も家には寄り付いていなかったが、それでも寂寞の情というものを感じる。我が父の亡骸にすがりついてわんわんと泣く娘に、私と妻は目頭が熱くなった。兄弟で話し合った結果、遺産の一部を私が受け取ることになった。欲しくはなかったが、全員で均等に分け合うのが筋と言われればどうしようもない。誰か一人が持っていくよりはずっと良い。相談した所、妻も同意してくれた。厳重に封印する。
1989/7/12
娘が死んだ。長い闘病の末に死んだ。
死にたい。死ねない。
どうすれば良いだろう。
彼女の延命の為に、私はもう父の遺産に手を付けてしまった。
それどころか、兄弟に頼んで全ての遺産を私が受け継ぐことにしてしまった。
すまない。本当にすまない。情けない父親だ。
だが、私と妻は、娘にもう一度会うためならなんでもすると誓ったのだ。
1998/4/10
娘を生き返らせる方法を見つけた。佐々博士から購入した検体Σの細胞を肉腫に植え付け、機能不全を起こしている部位を再生させる。凍結保存も限界だ。これしか手段は無い。
1999/3/28
駄目だった。やり直す。これは禁忌にはあたらない。あれはもう娘などではないのだから。私は禁忌を犯してなどいない。
*
「どう?」
禮次郎は手記を閉じて首を横に振る。
――クチナシの父は何処かで狂気に陥った。
――その結果、クチナシが異形になってしまった。
――そして本来の娘を取り戻す為に、彼女の父は何かをしようとして……クチナシに殺された。
「クチナシ。此処から出るぞ」
「え、なんで?」
禮次郎は気づいたことを頭の中で整理する。
書棚から本が消えた形跡。
クチナシだけが発見できた本。
やけに綺麗に掃除された家の中。
そして、自らでも訳が分からぬまま、不幸にも直感してしまう。
「分からない。分からないけど……」
この手記を探している誰かが居る、と。
「なんでもいいから、すぐにだ。ここはやばい。ここがやばいんじゃない。お前の父親、あいつは、あいつは……!」
「なに!? きゃっ!」
禮次郎はクチナシの手を引いて部屋から飛び出す。
「そんな手記、捨てていこうよ!」
「いや、これは必要だ。だがもう此処に居ることはできない。行こう」
「なに? 何か分かったの?」
「後で話す。車に乗れ」
禮次郎はクチナシの腕を掴んで強引に彼女を引っ張り出す。
「何なの禮次郎? 怖いよ!」
「クチナシ、俺を信じろ」
禮次郎はクチナシを連れて乗ってきた
丘を下る道を駆け抜ける間、禮次郎は終始無言だった。
クチナシは耐えきれず、彼に話しかける。
「ねえ、禮次郎……一体どうしたの?」
「聞きたいか?」
「……全部聞かせて、お願い。禮次郎の考えてることを知りたいの」
「お前の親父さんが使っていたらしい手記な、全部人皮で作られている」
大学生の頃に博物館で見た。
組で始末した男が見せしめに殺された時もこういう加工は見た。
「え……?」
「お前が生まれる前も、お前が生まれた後も、ずっと、ずっと、奴は最初から人皮で作られた手記を当たり前のように使っていたんだよ。手記だけ見れば、まるで最初は善人のようだった。だけど彼は恐らく最初から――」
それ以上、禮次郎は何も言えなかった。
【第2話 手記 終】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます