第8話 多世界線上の道化師
三笠市。夕張や美唄に隣接する町で、名物は化石と炭鉱とメロン。土地が近い為に夕張や美唄とは一部の名物が被っている。
しかしそれでも古代の香りを好む北大の理学部の研究者達や日本中の化石マニアがしばしば此処を訪れる。そして観光地化した夕張に行くにはちょっと懐が寂しい学生なんかも遊びに来る。
そんなこんなで禮次郎達が訪れたのは三笠温泉化石の湯。樹齢1000年の木材を豪盛に使った湯船と、地元の美味しい料理が有名な、知る人ぞ知る温泉宿である。
「さて、今日は此処が俺達の部屋だ」
「意外だね、洋室なんだ。しかもツインルーム! 豪華! てっきりダブルベッドで僕を無理矢理寝床に引きずり込むかと――痛ッ!」
禮次郎はクチナシにデコピンを決める。
「調子に乗るんじゃねえ。昨日は風の音が怖いからって人のベッドに入ってきた癖に」
「だってー! 絶対変だったんだもん!」
「あの程度、北海道では日常茶飯事だ。少し山に入れば熊は出るし、少し心霊スポットに行けば祟られる。居酒屋で神様と飲むことだって有るさ。ほらさっさと喰うぞ。ビールがぬるくなる」
「あっ、そうだった! アイスも溶けちゃうもんね!」
「そういうことだ」
二人は近くの道の駅で買ってきた三笠名物をベッドの上に広げ、早速プチ宴会を始める。禮次郎は夕張石炭ビール、クチナシはカルピスウォーターで乾杯である。
「見てよ! この三笠スイートメロンアイス! 果汁で出来た甘~いアイスがメロンの皮の上にそのままオン! 美味しい! 禮次郎は何食べてるの?」
「はっはっは、この三笠炭鉱ザンギのことか? 見た目は石炭みたいに真っ黒でびっくりしたかもしれないが、とぉっても美味しいぞ! 行者にんにくや玉ねぎといったご当地素材を使って味付けした鶏もも肉を、油でカラッと揚げているんだ! ビールのおつまみにグッドだ!」
二人はそれぞれの戦利品を自慢するように口に運ぶ。
互いに互いの食べているものがちょっとだけ羨ましかったので、後で買おう(買ってもらおう)と心に決めた。
「ところで禮次郎。僕達何しに来たんだっけ」
「レジャーだろ」
勿論、禮次郎はクチナシの父の協力者と目される佐々総介に会いに来たのだが、そんなことを今わざわざ言う気分にはなれなかった。
「そうだっけ?」
「あと温泉、ここの風呂は良いぞ」
「そうなんだ!」
「飯まで少し時間が有るし、入って来るか?」
時計の時刻は午後三時。
丁度温泉は人もまばらになっているだろう。
禮次郎とクチナシは一時間後に出てくることを約束して、それぞれ温泉へと向かった。
*
きっちり一時間で温泉から上がった後、二人はお休み処で風呂上がりの牛乳を飲んでいた。
お休みどころは畳の部屋に幾つかテーブルと座布団が並んでいて、旅館とは思えない庶民的な雰囲気である。
化石の湯自体が地元の人にとっては普通の日帰り温泉なので、旅館と健康ランドが一緒くたになったような造りだ。
「いや、良い湯だったね。僕気に入っちゃったよ」
浴衣姿のクチナシはウットリとして呟く。
しっとりと濡れた肌や巻いたタオルの隙間から覗く髪のツヤが、少女を少しだけ大人に見せる。
「……良い」
「だよねー」
窓から三笠の空を眺める。
それはとても平和な土曜の午後。
このまま冒涜的な怪物や、陰惨な出来事、そして重ねた罪の数々を忘れ、この少女と何処か遠くへ逃げ出せたならば……と禮次郎は思う。
――クチナシが人間に戻れたなら、それも悪くは無いかもな。
禮次郎はそんな夢を見る。
「なにニヤニヤしてるの禮次郎? なんか悪いことでも考えてたでしょう? 僕そういうの分かっちゃうんだから」
「クチナシ、お前は海と山ならどっちが好きだ?」
「え?」
「例えばの――」
そう、禮次郎が言いかけた時だった。
「お前がニャルラトホテプだな!!!!」
禮次郎めがけてバールが振り下ろされる。
振り下ろしたのは見ず知らずの謎の男。
警官の制服を着ているが、一体何者なのかは分からない。
「ぐあっ!? くっそ!」
禮次郎は咄嗟に左腕でバールを受け止めると、骨が折れる痛みをこらえつつマッサージチェアから飛び降りる。
「ざっけんな!」
ヤクザキックで男を蹴り飛ばすと、禮次郎は周囲に助けを求める。
「誰か来てください! いきなり襲いかかられたんです!」
「ふざけるなニャルラトホテプ! これ以上お前の好きにはさせないぞ!」
起き上がる警官姿の男。
「頭おかしいぞこいつ……!」
慌てて逃げだす禮次郎。
最初は訝しむばかりだった周囲の人間も、警官の服装をした男が意味不明なことを叫んでいるのに気づく。
「おやめ下さいお客様!」
他の客に呼ばれた旅館のスタッフが禮次郎と男の間に入ってくる。
これで騒ぎも終わるかと禮次郎が思った瞬間だった。
「来たな! ニャルラトホテプの手先め!」
男はニューナンブと呼ばれる拳銃をどこからか取り出すと、間に入った旅館のスタッフに向けて引き金を引いた。
乾いた音色がお休み処に反響する。
突き刺さる弾丸。
舞う鮮血はお休み処を血に染める。
周囲からは悲鳴。
「冗談じゃねえぞ! 俺が何をしたっていうんだ!」
禮次郎は咄嗟にクチナシの方を見る。
彼女はドサクサに紛れて群衆の中に逃げ込んでおり、心配する必要は無さそうだ。
「その全身の歯型が何よりの証拠だ! 怪しい奴め! お前がニャルラトホテプに違いない! 俺は知っているぞ! 俺は分かっているんだ! 今回のキーパーなら絶対にお前みたいな怪しい奴をニャルラトホテプにする! お前が人間の内に殺してやる!」
男はニューナンブの銃口を禮次郎に向け、続けざまに引き金を引く。
禮次郎は男が長々と喋っている間に近くのテーブルを壁に斜めに立てかけており、引き金を引く直前にその影に隠れた。
――ニューナンブの装填数は五発。
――だったらまずは弾切れまで粘れば良い。
テーブルによって逸らされ、弾丸が畳や天井に突き刺さる。
――これで残り三発。
「くそっ! ちょこまかと!」
「おい! お前何をやっているんだ!?」
「邪魔しないでください先輩! 今、ニャルラトホテプが! ああ! もう少しで殺せるんですよ! もうSAN値が残ってないんですよ! 殺してSAN値のボーナスを貰わないと駄目なんです!」
「警官が市民に銃を向けてどうする! まずはそれを捨てろ!」
テーブルの向こう側で二人の男がもみ合う声。
そしてもう一度銃声が響く。
――これで残り二発。
禮次郎はテーブルの向こうで死んだ誰かのことを一々考えたりはしない。
その代わりさっと自らの浴衣を脱いで、テーブルの影から投げ捨てる。
「逃すか!」
銃声。
――残り一発!
禮次郎は微かに見えてきた希望に思わず笑みを漏らす。
「ふざけやがって、これでも喰らえ!」
禮次郎はテーブルの影から躍り出て、警官姿の男に向けて牛乳瓶を投げつけようとする。
だがその時だった。
禮次郎の足が、立てかけていたテーブルの足にひっかかる。
「あ……」
スローモーションになる世界。
向けられたままの銃口。
遅れて聞こえる銃声と、真っ直ぐ飛ぶ銃弾。
禮次郎がもう駄目かと諦めかけた瞬間、銃弾が彼の目の前でほんの僅かに逸れた。
逸れた弾丸は禮次郎の目の前の畳にめり込む。
「くそっ! またか! また駄目なのか! ニャルラトホテプ! お前はなんで、何処まで俺を苦しめるんだ!」
絶叫する男。
安堵する禮次郎。
「湯島巡査部長及び旅館スタッフを殺害した容疑者発見! 確保!!」
そして遅れてきた警官達が旅館になだれ込み、警官姿の男に飛びかかっていく。
「酷い有様ですね」
禮次郎の頭上から涼やかな声。
顔をあげると、眼鏡をかけた長髪の男性と、一見すると子供にしか見えない女性が立っていた。
眼鏡の男の名は佐々総介。
禮次郎がこの温泉で待ち構えていた医師である。
「奇遇ですね
「佐々先生……こんな所でお会いするなんて……! そちらの方は奥様ですか?」
赤ん坊を抱いている所作と左手に輝く黒い石を嵌めた指輪から、かろうじて総介の妻でその赤ん坊の母親なのだろうと推測できる。
眠った赤ん坊を抱きながら、女性は幸せそうに微笑む。
「妻の佐々凛です。この子は佐助、我が家の自慢の長男です。ふふっ♥」
「おや、利発そうなお子様で」
「あらやだ! 香食君ったら良い子ね! うちの人が言った通りだわ!」
「そうでしょう? 僕も気に入っているんですよ」
「ど、どうも……」
禮次郎は頭を下げる。
佐々総介が妻子同伴で禮次郎に会いに来た。
つまりそれは、禮次郎が何をやっても問題ないと佐々総介が判断したからである。
その事実に気づいた禮次郎は内心震え上がる。
「それにしても大変でしたね。ニャルラトホテプに間違えられるなんて」
「は?」
総介から先程の狂人と同じ名前を聞いた禮次郎は思わず己の耳を疑う。
「あの、今、なんと……」
「凛、君もそう思うだろう?」
「ええ、そうね貴方。とっても怖いわ。ニャルラトホテプですって。この子があんな恐ろしい物に関わったら大変よ」
夫に話を振られた凛は人目も憚らず総介に甘える。
総介は彼女の頭を撫でてから、倒れている禮次郎に手を差し伸べる。
「さあ、いつまでそうして倒れているつもりですか? あちらで連れの方が待っていますよ」
「ま、待ってくれ佐々先生。貴方ニャルラトホテプって何か知っているんですか?」
「そんなの常識、いわゆるコモンセンスという奴では?」
総介は凛と顔を見合わせて不思議そうに首を傾げる。
禮次郎は何が起きているのか理解できずに固まってしまう。
「禮次郎! 大丈夫!?」
困惑しきった禮次郎にクチナシが駆け寄る。
「大変だったね! まさかニャルラトホテプに間違われるなんて!」
「待て、クチナシ。お前まで何を言っているんだ?」
「え? どうしたの禮次郎? まさかさっき転んだ時に頭でも……」
「馬鹿な、そんな馬鹿な……」
禮次郎は震えながらも立ち上がり、辺りを見回す。
「ニャルラトホテプと間違えられたんですって」
「ニャルラトホテプと?」
「それで警官に撃たれたんですってよ」
「最近の警察ってのはおっかねえなあ」
聞きなれない言葉が周囲を飛び交う。
自分の知らない言葉を皆が知っている。
――此処は何処だ。
――お前らは何だ。
禮次郎はバールで殴られた左腕を庇いながら、その場から走り去ろうとする。
だが不思議なことに腕の痛みが消えている。
――何処までが現実だ?
――何処からが夢だ?
「禮次郎? もうお部屋に帰ろうよ。今日は疲れちゃったし、二人っきりで部屋でゆっくり……」
何時の間にか休憩処の人々は消えている。
総介と凛の姿も無い。
「お前は誰だ」
「僕は僕だよ? クチナシだよ? ねえどうしちゃったの禮次郎?」
「違う……お前は俺の知っているクチナシじゃない」
「酷いよ禮次郎、僕の何がおかしいっていうの? そんなこと言うなんて……僕は悲しいよ……」
禮次郎はクチナシの肩を掴んで揺する。
何時の間にか周囲は漆黒に包まれ、そこにいるのは二人だけだ。
「じゃあ見ろ、この風景を。一体何が起きている」
「何も起きていないよ。おかしいよ禮次郎、ニャルラトホテプに何かされたの?」
「ニャルラトホテプ! なんだよ! なんなんだよそれ! あの手記にもそんな名前無かった!」
「落ち着いて禮次郎、ニャルラトホテプはニャルラトホテプでニャルラトホテプ以外の何物でもないんだよ。この宇宙は三重の構造から成り立っていてその最下部に有る宇宙の土台こそがニャルラトホテプの――」
「黙れ! お前はクチナシじゃない!」
禮次郎は目の前の少女を突き飛ばして走り出す。
だが周囲の風景は相変わらず闇、闇、闇。
時折足元を何かが掠めていくが、それが何なのかはわからない。
漆黒の世界の中で禮次郎だけが走り続けている。
「此処は何処だ! 俺は誰なんだ! 誰だ! 助けてくれ! 誰か! 誰か! 誰か! そうか! これか! これがニャルラトホテプか! 来るな! これ以上俺の側に近づくな! これ以上一歩でも近づいてみろ! ぶっ殺してやる! ああ、ぶっ殺してやる! どんな手段を使ったって! あの警官みたいにはいかねえぞ! やめろ来るな何処だ来るなやめろやめろやめろやめろやめろあああああああ――」
「――起きて、禮次郎」
その絶叫を最後に禮次郎の意識は一度完全に途絶える。
最後の一瞬、彼の耳に届いたのはクチナシの声だった。
*
「ん? 此処は……」
化石の湯の客室で目を覚ました禮次郎が最初に見たのは、自分を心配そうに見守るクチナシの顔だった。
「あっ、起きた! 良かった……」
「起きた?」
「心配させないでよ禮次郎! 佐々先生! 起きました!」
「佐々先生?」
禮次郎はベッドから上半身を起こして、クチナシが声をかけた方向を見る。
その先では佐々総介が椅子に座って聖書を読んでいた。
「これは良かった。香食君、何か身体におかしいところはありませんか?」
総介はにこやかに微笑みながら禮次郎に問いかける。
「佐々さん! あの、俺は一体……」
「もしかして禮次郎覚えてないの!? やっぱビール飲みすぎてたんだね!」
「ふふ。香食君、
――シグマ?
禮次郎はクチナシの方を見る。
「いや、困った婚約者です! ところで僕のことはもう香食って呼んでください!」
――婚約者?
禮次郎は状況が飲み込めずに首を傾げる。
「……いやはや、どうにも記憶がぼんやりしているのですが、迷惑をかけてしまったみたいで」
「貴方と私でサウナに入っていたら、貴方が倒れたんですよ。そこで迷惑をかけてしまったお詫びに、貴方の治療をしていたんです」
――そういやそうだったな。
――佐々さんとサウナで女性の好みなどしょうもない話に花を咲かせていたっけ。
「そいつはすいません。あの、ですが先生は家族旅行の……最中……では?」
「ふふ、妻も僕より赤ん坊の相手をしている方が楽しいみたいでして。ちょっと泣けますね。君も彼女さんに愛想を尽かされないように頑張ってください」
「いやですね佐々先生! 僕は禮次郎にぞっこんラブですよ! 子供が生まれても変わりません!」
「羨ましいことだ……それではそろそろお邪魔でしょうし私は帰ります」
「佐々さん、どうもありがとうございました」
「いえいえ、ところで君も身を落ち着けると良いですよ。人間、普通の幸せが一番ですから。それじゃあ」
聖書をテーブルの上に置いて、総介は部屋から出ていく。
「クチナシ……そういやお前の名字って……」
それを聞いたクチナシは、間髪入れずに禮次郎に抱きつく。
「うっ!?」
勢いの乗った体当たりでベッドに叩きつけられる禮次郎。
「――ねえ、そんなことよりさ」
クチナシは禮次郎の隣に寝転ぶ。
「僕達何しに来たんだっけ」
「……レジャーだろ?」
禮次郎はクチナシのわざとらしい問いかけに何か妙なものを感じる。
――やはり、佐々さんには何か有るのか。
そう考えながらも、今も監視されているような気がして、禮次郎はそれを口に出せない。
「ただまあ……今日はゆっくり眠らせてくれ」
「はーい、僕は振り回された分のお詫びとして腕枕を要求します」
「ん……おらよ」
禮次郎は不思議と痛まない左腕をクチナシの首元に回した。
そして翌日、二人は何事も無かったかのように札幌へと戻った。
「――さて、彼には申し訳ない事をしてしまいましたね。お詫びをしなくては」
二人の乗るフィアットを見送りながら、そう呟く影が有ったことは誰も知らない。
【第8話
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