第26話 定山渓クトーニアン 前編

 有葉緑郎からの依頼を禮次郎が受けた翌日。

 無事に帰ってきた禮次郎は、クチナシと共に自宅のマンションでくつろいでいた。

 二人は冷蔵庫に入れた寿司折りを仲良くつまんでいる。


「――ってことが有ったから昨日は遅くなったのさ」

「仕事なのは分かるけど、連絡くらいしてよね。僕だって心配になるんだからさ」

「お前が一番心配してくれてるもんな……分かってたんだがなにせ急でな」

「もう、仕方ないなあ。今日は二人で温泉行くことになっていたんだから、無茶しないでよ?」


 禮次郎の部屋には白い花瓶、大きな木製のテーブル、細かな模様の刻まれた高そうな椅子。窓から差し込む光と、雀の鳴き声。

 平和そのものだ。

 

「あ、これ美味しい。今度連れてってよ禮次郎」


 寿司を摘みながら笑うクチナシ。


玉子ギョクの味が分かるか。流石だな」

「卵焼きの味の違いくらい分かるよ」


 笑顔が眩しくて禮次郎は目を細める。

 時々、禮次郎は怖くなる。今の生活が唐突に理不尽に終わるのではないかと。

 それこそラーメン屋の彼らのように。

 

「どうしたの禮次郎?」

「いや、なんかこう……不安になってな」

「不安?」

「昨日会った人魚の話じゃ、彼女が人ではなくなったのが半年程前だ。俺とお前が会った時期に近い」

「それが?」

「いや、実は……そういう事件が他にも起きているんじゃないかと思ってさ」

「可能性はあると思う」

「だろ?」

「でも、今心配する必要は無いよね?」

「それは……」

「何があってもおかしくないって心の備えは必要だけど、禮次郎がそんなチベットスナギツネみたいな顔しなくても良いんだよ」

「チベットスナギツネ?」

「前に動物図鑑読んでたら出てきたの。禮次郎に似てたから今度見てみると良いよ」

「買ってやった専門書か?」

「いいや、大学の図書館から借りてきたの」

「そういえばお前、大学生ってことになってたな」

「ひっどーい! 忘れてたのぉ?」

「まさかだよ。最近はどうですか女子大生クチナシさん?」

「まあ暇つぶしに講義聞きに行く程度だけどね。身分証として学生証は便利かな。それも運転免許証手に入れたからもう要らないけど……」

「他の学生とかと話したりするか?」

「浮気でも心配してるの?」


 禮次郎を馬鹿にしたように笑うクチナシ。

 心ひそかに心配していたことを一瞬で当てられて返す言葉が見つからない禮次郎。

 ――男って奴ぁよう。

 と、自分で自分を相手に嘆くことしかできない。


「大丈夫だよ、禮次郎。ほら、子供が遊びに来ているのかなー程度にしか思われないから」

「やめてくれよ恥ずかしい。分かってても言うなよ……」

「ごめんごめん。ほら、寂しいなら甘えていいよー。食後の一休みー」


 ソファーに座って膝の上を叩くクチナシ。


「う……ああ……うん」


 恥ずかしいとは思ったものの、禮次郎は大人しく彼女に身を任せるのであった。


     *


旧神の印おまもりは持ったか?」

「僕、あれきらい」


 顔をしかめるクチナシ。

 禮次郎は彼女の頭を撫でて微笑む。


「嫌いでも持っておけ。役に立つんだから」

「分かってるよ。今日は運転手さんだしね」


 朝食を終えた二人は急いで身支度を終え、愛車のFIAT500に乗り込んで定山渓へと旅立った。

 車の運転はまだ慣れないクチナシだったが、生来の覚えの良さで運転技術はかなり向上していた。

 不安なものは道順くらいである。


「このまま真っ直ぐでいいんだっけ?」


 禮次郎は地図にギリギリまで顔を近づける。


「ちょっと待て、今地図を確認しているんだ……そうだな、それでいい」

「あ、案内標識有ったよ。定山渓って」

「だったら間違いない。しかし、地図を読むのもこの目じゃ楽じゃないな」


 最後に少し山間の道を通ると、其処はすぐに定山渓だ。

 

「ついたよ禮次郎! やったぁ!」

「ああ、よくできた。免許取り立てだっていうのに、お前はすごいな」

「ふふ、禮次郎はしょっちゅう褒めてくれるから嬉しいな」

「どうした急に?」

「んー、大学で仲良くなった天美あまみちゃんって子が言ってたんだ。彼氏が何してやっても当たり前みたいな面でむかつくって」

「なんだ、友達もできてたのか。大変だな……」

「ワッフルみたいなもこもこパーマかけた茶髪のお姉ちゃんでさ。お互い一人で講義聞いてたら、ある日たまたま隣に座って、それでノート貸し借りする感じになったの。偶に勉強教えてるよ。大学が夏休みだったから最近はメールくらいしかしないけどね」

「そうか。せっかくの友達だ。大切にしろよ」

「うん」


 クチナシは、定山渓の外れにある宿屋“定山渓温泉湯ノ花”の広い駐車場に車を停める。

 定山渓温泉湯ノ花。元々日帰り専門の温泉だったが、最近は宿泊もできるようになった温泉宿だ。

 個室が少ない分、部屋ごとに露天風呂がついているのが目玉である。

 チェックインを済ませた禮次郎達は案内されて客室まで向かった。


「流石に観光シーズンを外れた平日ときたら、人の姿もほとんど無いな」

「これはこれで快適で良いね。僕、こういうの好きだな」


 二人は荷物を部屋に置いて、椅子に腰を下ろす。

 部屋は和洋折衷で、畳部屋の横に椅子とテーブルの有る小さなラウンジがくっついている。そしてそこから外に出ると個室露天風呂が有る。

 中々どうして趣のある岩風呂だ。

 禮次郎達が泊まっているのは増築した離れの二階なので、生け垣の間から外の風景も見える。


「禮次郎、この後はどうするの?」

「そうだな……今の時期だと見る程のものも無いんだよな」

「このクマ牧場は?」

「んー、組長オヤジさんがそろそろ潰れそうだって言ってたし、あまり見て楽しいものじゃないかもしれないな」

「そっかー……」

「あれも結局うちの組のタチが悪いペットショップみたいなもんだしな……」


 禮次郎はぽそりと呟く。


「どうしたの?」

「いやなんでもない」

「じゃあいいや。今回ものんびり温泉入って、グルメ旅?」

「少し気が早いかもしれないが、紅葉を見に行くってのはどうだ?」

「良いね!」

「じゃあ決まりだ。行くぞ」


 禮次郎とクチナシは最低限の荷物とお守りとなる旧神の印だけを持ってホテルの部屋を出ようとする。

 その時、禮次郎の持つ携帯電話がブルブルと震えた。


「……くそっ」


 画面に表示されるのは清水会の番号だ。

 ――恐らくは組長オヤジさんだな。

 ――折角のオフだってのに!


「ちょっと待ってろ。クチナシ」

「うん。でも早くしてね?」

「分かってるよ」


 ――組長オヤジさんは俺が予定を空けてたことを知っている。

 ――なのにわざわざ電話をかけてくるってことは、絶対に早く済まない案件だな。

 禮次郎は一度ため息をついてから通話に応じた。


「はい、香食です」

「禮次郎か。ちょいと火急の案件だ。今何処にいる?」

「定山渓です」

「丁度良い! やっぱりお前さんに電話してよかったぜ!」


 ――俺が定山渓に来るって知ってたじゃないですか!

 ――この前予定聞いてきたじゃないですか!

 と、ツッコミを入れたくなったが、禮次郎も時間が惜しい。


「それで一体どのような案件で?」

「話が早くて助かるぜ。いや、普段行く温泉の従業員の子供が失踪しちまったっていうんで騒ぎになってるんだ」

「それなら普通警察に話が行く筈では?」

「それが妙なんだ。警察の対応が随分と遅いらしくてな。しかも周辺で同じような失踪事件が数件起きている。いずれも子供や若者を狙った犯行だ」

「それだけだと探偵を雇った方が早いように思えますが……俺に電話が来るということは、その……」

「ああ、また例のオカルト案件だ。組の内部で解決できりゃ良いんだが、生憎と今は組も忙しくてな。そういうのに対処できる人員が別件で出払っている」

「分かっちゃいましたが、やっぱ居るんですね」

「まあな。裏社会に居れば嫌でも関わり合う。それもまた任侠さ」

「今度詳しく聞かせてもらいたいもんですね」

「今度な。報酬は組に居た頃使ってた口座で良いか? 金は倍払う」


 禮次郎はクチナシの方をチラリと見る。

 クチナシは肩を竦めながらも、仕方ないなという表情で笑って、それから頷いた。


「……分かりました。お受けします。まずは詳しい事情をお聞かせください」


 ――この仕事が終わったら今度こそしっかり時間をとろう。

 クチナシに向けて、禮次郎は固く誓った。


     *


「……で、さ」

「おう」

「仕事を受けるって言って、なーんで風呂なんて入ってるのさ」


 禮次郎とクチナシは個室の露天風呂に入っていた。

 タオルを巻いたクチナシは禮次郎の膝の上に乗って、彼の胸に体を預けている。

 責めるような口調とは裏腹にリラックスしきった表情だ。

 

「いきなり仕事というのもスマートじゃないだろう。三十分くらいプランを考えてから仕事に移る」

「……あー、そっか」


 クチナシは一瞬で禮次郎の意図に気づく。

 

「そうだ。別に三十分くらい早く動いても変わらねえんだよ。だったらまず体調を整え、心を落ち着けて仕事に望むとしよう」

「じゃあゆっくりお風呂入るしかないね!」

「そういうことだ」


 禮次郎はだらしない顔で温泉を楽しむクチナシの頭を撫でつつ考える。

 清水会の組長である清水龍之介からの話を簡潔にまとめるとこうだ。


・龍之介が良く行く旅館の従業員の子供が昨日の夕方に地元の神社で失踪した

・最近、子供や観光客の若者が消える事件が発生していたのだが、警察は動かない

・清水会の人間は今の警察とその背後に居る者の動きを探っている

・禮次郎にはこの事件の原因を探り、可能ならば子供を救出して欲しい

 

 これらの情報を与えられた時、まず真っ先に禮次郎が考えたのは、子供の生死だ。もしも死んでいるならば、今更急いだところで意味が無い。逆に生きているとしたら何かの目的が有って生かしている。だとすればやはり今急いだところで意味が無い。


「よし」

「なんかわかった?」

「方針は決まった」


 ――この手のオカルト案件で鉄板の調査方法は“条件”を揃えることだ。

 ――だとすればその夕暮れにでも、神社とやらに行ってやるか。


「そういえばちょっと見てみたいところあるんだよね」

「何処だ?」

「郷土資料館。丁度今、大学の講義でそういうことやってるからさ」

「大学生の癖に勤勉だな」

「禮次郎は違ったの?」

「俺の友人は……まあ、マチマチだったな。あいつら元気にしているかな」

「ふーん……で、郷土資料館は何時行くの? もう少し時間あるならしてってもいいけど?」


 クチナシはそう言って笑う。

 歳にそぐわぬ艶やかさは、何処か恐ろしくもあった。

 そう、あの阿僧祇マリアを思わせるようで。

 ――思えば、郷土資料館行きを言い出したのも俺の調査の為か?

 ――電話口の会話を簡単に聞いて、俺が神社を調べに行くと推測して、その下準備になるように郷土資料館に行くことを提案したのか?

 ――だとすれば、なおのこと恐ろしいな。


「残念ながら、ゆっくりしている時間は無さそうだ」

「なーんだ」


 年齢よりも子供っぽい声をあげるクチナシ。

 禮次郎は安堵のため息を吐く。


「じゃあ、あと少しだけこのままで居させて」


 クチナシは、そう言って禮次郎に身体を預け、湯船に浸かって瞳を閉じる。

 禮次郎はそんな彼女の隣に寄り添うように、自分も肩まで風呂に浸かった。

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