第27話 定山渓クトーニアン 後編
時は黄昏。
清水龍之介から教えられた子供の失踪時刻だ。
郷土資料館で定山渓についての知識を集めてきた禮次郎とクチナシは、早速温泉街の片隅にある神社までやってきた。
二人は誰もいない神社の駐車場に車を停め、神社の鳥居の前まで辿り着く。
「なんだか人が居ないねえ……それに」
すんすんと鼻をひくつかせるクチナシ。
「なんだか、嫌な匂いがする~!」
顔をしかめるクチナシ。
禮次郎は彼女の頭をポンポンと撫でた。
「ああ、俺も臭うよ。俺達にとって嫌な匂いってことは、神話生物の類にとっても嫌な匂いということだろう」
「あ、そっか」
「しかし、そうなると……誘拐事件とは関係無いのか? いや、神隠しと考えればなおのこと此処は怪しいのか」
禮次郎とクチナシは鳥居の前で立ち止まる。
「何か分かるかクチナシ?」
「……此処が悪臭の発生地点だと思う」
「どういうことだ? 本殿ならまだしも、鳥居に何かが有るってことか?」
「うん、そうだと――」
クチナシの声は最後まで禮次郎に届かない。
「……クチナシ!?」
それは一瞬の出来事だった。
禮次郎の視界からクチナシの姿が消える。
視力が落ちた禮次郎には何が起きたかさっぱり分からなかった。
「いや……違うな」
禮次郎はそうつぶやいて周囲を見回す。
ぼんやりとしてよく見えないが、禮次郎の目の前に有ったはずの鳥居が背後に有る。
「俺が神社の境内に引きずり込まれたのか?」
禮次郎は舌打ちした。
「まずは様子を探るしか無いか。案外簡単に出られるかもしれないしな」
禮次郎は懐の旧神の印を強く握りしめた。
*
「……やっぱり駄目か」
禮次郎は神社の境内をしばらく歩いた後、ため息を吐いた。
一見すると出入りは自由に見えるが、神社は見えない壁に囲まれていて、禮次郎は出られなくなっていた。勿論、携帯電話は圏外だ。
「俺の目が悪いからじゃないな。見えないけれども此処に間違いなくある」
禮次郎は目の前の見えない壁をたたきながら溜息をつく。
じっとりとしていて冷たく、柔らかいが手応えは確かにある。
「旧神の印のお陰で無事なのか、それともこいつが効かない相手なのか……」
カサリ。
そんな時、禮次郎の耳が境内の木々の隙間から物音を捉える。
ヌルリという擬音が似合う滑らかな動きで、禮次郎はデリンジャーを構える。
視力の落ちた彼だが、音の反響、匂い、対象の細やかな変化の一つ一つを捉え、正確に狙いをつける。
「――ッ!」
しかし引き金を引く寸前、禮次郎はその鋭い感覚で僅かに漏れた標的の声を捉え、己の間違いに気づく。
――あれは子供だ!
禮次郎は引き金から指を離し、拳銃をホルスターに仕舞う。
「いやああああああ!」
一瞬遅れて銃を見つけた子供の悲鳴。少女は年の頃で十かそこら、前髪を一直線に切りそろえていて、背は小さい。まるで小動物のようだ。
――撃たずに済んで本当に良かった。
その悲鳴を聞いて、禮次郎は胸をなでおろす。
「……びっくりさせるんじゃねえっての」
決まりが悪そうに呟く禮次郎。
「おい、そこを動くなよ」
禮次郎は子供の方に歩きだす。
「怪我は無いか? あまり叫ぶな、妙な連中に嗅ぎつけられるとまずい。俺はお前を助けに来たんだ」
「ひっ! 来ないでぇ!」
子供は慌てて逃げ出す。
「あっ、馬鹿このあたりは足場が――」
禮次郎がそう言いかけたところで、子供は見事に木の根に足を取られてすっ転んだ。
「言わんこっちゃねえ……」
「ひゃあああああああ! 来ないでぇえええええええ!」
禮次郎は悲鳴を上げる子供を抱え上げた。
「変質者あああああ! 誰かああああ! うぇえええええん!」
「耳元で叫ぶな……頼むから……」
禮次郎は暴れる少女を抱えながら神社の社殿まで連れて行くことにした。
「君の名前は
「な、なんで私の名前知ってるですかあああああ!」
「俺は香食禮次郎。君のお家の人から捜索を依頼されたんだ」
登美はそれを聞くと暴れるのを止める。
「
「おじさんじゃない。お兄さんだ」
「ひぃっ! ご、ご、ごめんなさいです!」
「ああ、わりぃ。怖がらせるつもりは無かったんだがな……」
「あ、あの……拳銃を持ってたってことはもしかして……警察の人?」
「んんっ……!? あ、ああそうだな」
――考えてみれば、そういうことにしておいたほうが都合がいいな。
――子供に拳銃の見分けなんてつかないし、ヤクザなんて言ったらまた怖がらせちまう。
すっかりヤクザらしい思考回路になっている自分に、禮次郎は苦笑いを漏らす。
「こほん……バレてしまっては仕方ない。君のご両親に頼まれた。非番の日に拳銃を持ち出していたのは黙っておいてくれ」
如何にも真面目そうな口調に変えて少女の様子を伺ってみる。
「わぁ……すごい! ありがとうございます!」
――反応が良いのは嬉しいが、騙されやすくてちょっと将来が不安になる子だな。
禮次郎は登美がすっかりおとなしくなったのを見て彼女を地面に下ろす。
「とりあえず落ち着いてくれたなら何よりだ。話を聞かせてもらえるだろうか」
「はい!」
手入れする人も少なくボロボロの社殿の縁側に腰掛けながら、二人は話を始めた。
「此処に来るまでのことを覚えているかな?」
「それがその……父様と母様が喧嘩してて……」
「喧嘩?」
「旅館の経営が危ないとか、バブルが弾けてからとか、あと……あの……教団? からの団体予約がどうとか」
「教団……なんて教団だか分かるかな? 捜査の手がかりになるかもしれないんだ」
「分からない……です。ごめんなさい……」
「そうか、いや気にすることはない。大丈夫だ」
――教団ね、有葉のやつも何か言っていたな。
禮次郎は緑郎がダゴン秘密教団の動きが活発化していると言っていたことを思い出す。
――警察の動きが鈍い理由は奴らが絡むものなのか?
「ともかく、それで君は嫌になって家から飛び出したと。それでどうして神社に?」
「はい……あの、信じてもらえるかは分かんないんですけど……」
「まあ、聞かせてみてくれ」
「呼ばれたんです」
「呼ばれた?」
「知らない人に追いかけられている途中に、この神社まで呼ばれました。いきなり腕を掴まれて……突き飛ばして逃げたんですけど」
「……知らない人にね。その人達について覚えていることはないかい?」
――定山渓では失踪事件が続いていたな。
――となるとその失踪事件とこの神社の異界は無関係か。
「その人達、なんだか生臭い匂いがしました……海みたいな……」
「海ね……ありがとう。参考になった」
「本当ですか?」
「ああ、犯人の目星がついてきたかもしれない」
「良かったです! 他になにか思い出せれば良いんですけど……」
「いいや、充分だ。君はこの事件の事を忘れて、お父さんとお母さんを大事にな」
「え? は、はい」
「それじゃあ早速この外に出る方法を探してみようか」
禮次郎は立ち上がる。
――こんなことなら、クチナシの父親が書いていた手記の、脱出用の魔術くらいは覚えておけば良かった。
そんな弱音を吐きたくなりながら。
「いや、待たれよ」
しかしその時、禮次郎の背後の社殿、その扉の向こうから声が聞こえる。
禮次郎は登美をかばうようにして、彼女と社殿の間に立った。
「誰だ」
デリンジャーを向けながら禮次郎は問いただす。
閉ざされた扉の向こうからは老人の笑い声。
「はっはっは、儂はお主らをここに引きずり込んだものだ。まあその物騒な物をしまえ。扉越しで悪いが少し話を聞いてくれんか」
「こ、怖い人!?」
ビクリと震える登美。
「そうか……出てきてくれるとは話が早いな」
禮次郎は登美に囁く。
「怯えることはない。恐らく彼は俺達を守る為に此処へ連れてきた筈だ」
「えっ!?」
登美は信じられないと言う顔で禮次郎を見上げる。
一方、扉の向こうの老翁はそれを聞いて楽しそうに笑いだした。
「どうしてそう思うんじゃ?」
「クチナシと共に行動していた俺、磯臭い連中に追いかけられていた登美ちゃん。それぞれを守ろうとして引きずり込んだんだ」
「クチナシ? 誰です?」
「ああ、それは後で話す。で、どうなんだ爺さん」
老人は耳を小指でほじった後、フーと吹いて茶目っ気たっぷりに肩を竦める。
「まあ、そう思ってくれて良い」
「そうか。あんたは何者だ?」
「それを教える訳にはいかんのう」
禮次郎は舌打ちをする。
――こいつも佐々先生や有葉と同類か。
「魔法使いってのはこれだから……」
「あ、あの……もしかして……私知ってるかもです……」
「本当か登美ちゃん?」
「はい! きっと、じょーざん様です! 父と母が神社から見守ってくださるって……」
「じょうざん?」
禮次郎は首を傾げる。
「ん~! 知らんなあ~! 定山渓の開祖であり湯治の効能を人々に説き、定山渓の発展に尽くした後、人々の前からふらりと消えた美泉定山などという坊主のことなどまぁったく知らんわぁ! そもそも坊主が神社にいる訳がないしのぉ!!」
老爺は丁寧に解説してカカカと笑う。
――あ、こいつよく知らないけど美泉定山なんだ。
――そういえば郷土資料館でそういう僧侶が居たって書いてたけど。
禮次郎はなんとなく察する。
「ダメでしたお兄さん……」
「君はもう少し人を疑って良い」
「で、香食禮次郎。お主はその子供を連れて行くのか?」
「両親が待っている」
「……そうか、そうじゃな。まあその娘は一時的に匿っただけのこと。それもよかろう」
老人は溜息をつく。
「だがお主は此処に篭っても良いのではないか? 此処で畑でも耕し、俗世から離れて平和に死んでも良いと思うぞ。一人が寂しいというならば、何処かからお主と同じような哀れなものを連れてこよう。百年でここまで再現できた。次の百年、手伝ってはくれぬか?」
先程までのゆるい雰囲気とは打って変わって、老人は真剣な声色で禮次郎に告げた。
「俺も女を待たせている」
「あれは駄目じゃ。お主が思う以上に
「邪? お前が何を知っている」
「そういうすぐに物を気にするところがお主の身に起きる災いの元じゃろうに。あの娘は捨て置くべきであった。人間には人間しか救えぬ。お主は……」
「知らねえなあ」
禮次郎は突如として目の前の扉を蹴り開ける。
だが其処には老人など居ない。
「キャアアアアアアアア!」
登美の悲鳴。
其処に居たのは虫だった。
目の無いイカに良く似た虫が、神社の中を所狭しと這い回っていた。
想像を超える現実に耐えきれない登美は、悲鳴を上げたかと思うとスッと意識を失って倒れる。
禮次郎は登美を左腕で受け止め、右腕で虫達に銃を向ける。
「人には人しか救えない。じゃあ虫に俺は救えねえな」
虫の一匹が老人の声で禮次郎に答える。
「開けるなと言うたのじゃがな」
「斬新な健康法じゃないか美泉定山。何だこいつらは」
「地を穿つ魔よ。こ奴らは水が苦手でな、儂がかつてこの地に温泉を用いて封じたものの末裔よ」
「その封印の為に温泉地を発展させたのか?」
「そうじゃ。集まる人々の精気を少しずつ、ほんのすこしずつ集めねばならんかったからな」
「立派な御坊と聞いていたが、蓋を開ければ只の外道か」
「今回開けたのは扉じゃがな」
「上手いこと言ったつもりか?」
「まあ落ち着け。お主も儂も同類じゃろう。神々の手から、我々の世界を守る為、小を犠牲にして大を救おうとする」
「俺の何を知っている?」
「魔法使いじゃからのう。なんでも知っておるよ」
禮次郎は老爺の話を聞いて悪巧みを思いつく。
「なんだ。それならダゴン秘密教団を定山渓に引き入れたのも世の為か?」
「待て、それは違う!」
――入ってきているのはダゴン秘密教団で間違いないみたいだな。
慌てる老爺の声を聞き、禮次郎は内心ほくそ笑む。
彼は老爺に弁明させる形で彼の知るダゴン秘密教団の知識を引き出そうと考えたのだ。
「あれは勝手に入ってきた連中じゃ! だから儂も困っておったのじゃ! お主が予想したとおり、登美を助けたのも土地の人間が目の前で奴らに追われていたからじゃよ! あの登美という娘の両親が経営するホテルに泊まっているようなんじゃが……」
「目障りならあんたが奴らを手ずから潰せば良いだろう」
「儂は自らの意識を魔のものの身体に移し替えた。そのせいでこの世界の外には出られぬ。出れば儂は儂でなくなる!」
「なんとも……馬鹿な真似をしたな」
憐憫の感情を覚える禮次郎。
だが老爺は逆に禮次郎を嘲笑う。
「馬鹿? お主とてもう気が触れるが先か、死ぬが先か。儂とそう変わるまい」
「俺にはクチナシが居る。お前が何と言おうと、俺にはあいつが居る」
「見てしまえば恐れる。恐れてしまえば何かに縋る。違うか? 儂は仏道と旧き経文に縋り、お主はあの少女に縋った。どちらにせよ行く路は無明よ」
「仏の道にどうこう言うつもりは無いが、俺は虫にまでなって人助けはしないぜ。俺はあの化け物どもが憎いだけだ」
「どうだかのう。お主とて、心根こそ人じゃが、もう身体などとっくに変質しておるではないか」
「……俺の身体が、か」
「魔の匂いがお主からも匂うてくるわ。ああそうじゃ、あのクチナシとかいう少女と同じ魔の匂いがよう漂ってくる」
老翁の声に、嘲笑の響きはもう無い。
「なあ香食禮次郎。無理をするな。これ以上、儂のようになる必要は無い。今ならまだ人間として死ねるかもしれん。もうあの娘とは距離を……」
「……うるさい。帰り道を教えな。そういうのを老婆心って言うんだよ爺さん」
低く唸るような禮次郎の声。
もう恐怖で叫び出したくなっていた禮次郎だったが、片腕に抱える登美を見て禮次郎は自らを抑える。
「どうしても止められぬか。それ程にあの娘が良いか」
「黙れ……いや、道を教えないなら勝手に帰る。手段を選ばないなら、やりようはあるしな」
禮次郎は扉を閉め、銃をしまう。
そして登美をお姫様抱っこして、鳥居の方へと歩きだす。
あの本殿の中でうごめく虫達が自分の死体のようで、吐き気がした。
ここから一刻も早く離れたかった。
「此処で暴れられてはかなわん。神社の裏手の山を登れ。それで地上に出られるようにしてある」
禮次郎の背後から老人の声。
「ありがとよ」
「礼には及ばん」
気絶した少女を抱きかかえ、禮次郎は霧深い山道へと歩きだした。
「……そういや爺さん」
足を止め、禮次郎は呟く。
「あんた、クチナシが何者か分かるのか?」
数瞬の沈黙の後、山道の木が奇妙にねじれ、そこに老爺の顔が浮かぶ。
「――旧き神じゃよ」
「……神?」
「お主の目は節穴ではない。何か思い当たる節は無いのか?」
「思い当たる節、ね」
――そういえば、美唄でも俺には聞こえない声が聞こえていた。
――もしかして、それは彼らの世界に近いからか?
――そういえば、神の力を持つ阿僧祇マリアの攻撃から生き延びたのはなぜだ?
――もしかして、ただの死んだふりじゃなかったのか?
――そもそも、クチナシの正体について有葉緑郎の姿を借りたニャルラトホテプの語った言葉は真実なのか?
わからないことが多すぎる。
禮次郎は溜息をつく。
「……まあいい。礼を言うよセンパイ。俺が無事に死ねたら経でも上げてくれ」
その言葉に返事は無い。
禮次郎はまた山道を登り始めた。
進むほど霧が深くなる山道をしばらく歩くと、急に霧は晴れ、禮次郎は日の沈みかけた定山渓の神社の境内に立っていた。
「禮次郎!」
背後からの声にハッとした禮次郎は振り返る。
いつの間にかクチナシが立っていた。
「お前、何時から其処に?」
「何言っているの? 禮次郎が急に現れたんだよ! その子はどうしたの?」
――ああ、言われてみればそうか。
自分が消えた時もクチナシが消えたと勘違いしていたことを、禮次郎は思い出す。
だが、それでも恐怖が拭えない。
定山の言葉が禮次郎の中から消えてくれない。
「頼まれていた子供だ。親御さんの下に届けるぞ」
「ふーん……まるでヒーローだね禮次郎」
禮次郎に抱きかかえられた登美を見るクチナシの目がジトッとしている。
「しばらくは家から出さないように言って、俺達の仕事はお終いだ」
「あっそ、じゃあ良いかな」
「なんだよ。怒ってるのか? 心配させて悪かったって」
「そういうことじゃないもん」
「今夜は何処か別のところに行こう。お前の好きなところにな」
「んー、じゃあどうしよっかな。夜景の見えるレストランが良い」
「金のかかる女だよお前は」
――クチナシが何者なのか。俺もまだ理解している訳じゃない。
――それでも、まだこういう会話ができるうちは大丈夫。きっと。
禮次郎は胸の奥に不安を沈め、停めていた車の方へと歩き出した。
「……禮次郎は僕だけのヒーローで良いんだからね」
そして、クチナシが小さくつぶやいた言葉に、禮次郎は気づかない。
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