第6話 老作家の渡せない遺産

 香食こうじき禮次郎れいじろうが職場に復帰してから数日。

 今日は彼が普段から受け持っている患者の下を訪問していた。

 患者が薬局まで来れない場合は、自宅まで訪問して薬について説明するのも薬剤師の仕事である。

 患者の名は佐藤喜膳。

 彼は高級感漂う丁度に溢れた洋間で、最新のリクライニングベッドでくつろぎ、ワープロ相手に書き物をしながら、何時も禮次郎を待っていた。


「本日出ているお薬は以上となります。お大事にしてくださいね」

「おう、いつも家までありがとうな」


 佐藤喜膳は札幌市在住のプロのミステリー作家である。

 戦前から活動を続けており、今や日本ミステリー界の大御所である彼だが、近年は持病の高血圧に悩まされていた。

 禮次郎はそんな喜膳の愚痴の相手をしつつ、なんとか薬を飲んでもらえるように定期的に家に通っていた。


「当たり前のお仕事を当たり前にしようとしているだけですよ。俺なんかそれで一杯一杯になっている未熟者です」

「未熟? いやいや馬鹿言っちゃあいけねえな。若いってのは良い。年をとるとそう思うよ」

「そういうものなのでしょうか?」

「そらそうよ……兄ちゃんもその内分かるぜ。何が無くても未来が有るってだけで楽しいものなんだって」

「成る程……今の言葉は心に留めておきます。それではまた来週お会いしましょう」

「ああ、待ってるぜ兄ちゃん」

 

 禮次郎は笑顔で佐藤喜膳の邸宅を退出する。

 だがそういう時、喜膳は何時も寂しそうな顔をしていた。


     *


 別れは突然訪れる。

 翌日、朝早く出勤した禮次郎は薬局長から声をかけられる。


「禮次郎君」

「どうしたんですか薬局長」

「君が担当していた佐藤さんが脳溢血でお亡くなりになったそうだ。先程病院から連絡があった」

「脳溢血……ですか」


 禮次郎はため息をつく。

 脳の血管が破裂する脳溢血は高血圧と密接な関係を持っているからだ。

 禮次郎より少し年上の薬局長は禮次郎の肩に手を置き、彼を励ます。


「良く保った方だよ。君が責任を感じる必要は無い。遺言で君に葬儀に来て欲しいと遺していたそうだけど、どうする?」

「俺がですか?」

「無理にとは言わないよ。ただ君自身、気持ちに整理をつける為にも行ってみたらどうだい? 平日なら有給使っても良いよ」

「良いんですか?」

「かまわないさ。君は気持ちの整理ができる。僕は部下に有給を消化してもらえる。良いこと尽くめだろ?」

「あはは……まあ、確かに」


 薬局長は周囲に人が居ないことを確認してから禮次郎に耳打ちする。


「それに、なにやら佐藤さんから君に渡したいものが有るらしいしね。有給使って私人として行って、それを受け取るって話ならうちも介入できないから。行ってきなよ、こっそり」

「マジっすか。良いんですか」

「気にせず行っておいで」

「分かりました。それでは遠慮無く……いえ、恩に着ます」

「この薬局の数少ない男同士だろ。気にするなよ。それじゃあ本日も業務頑張っていこうか!」


 薬局長はそう言って、禮次郎を元気づけるように、にっこりと笑った。


     *


 葬儀を終えて、帰るかどうしようか迷っていた禮次郎に、妙齢の女性が声をかけてきた。


「香食さん、来てくださったのですね?」


 禮次郎は深く頭を下げる。


「勿論です。この度はご愁傷様でした」


 禮次郎は知っている。この女性は喜膳の後妻である。

 もう四十は超えている筈なのだが、そうと思わせない美貌の持ち主だ。


「わざわざ来て頂きありがとうございました。故人も喜ぶと思います」

「もったいないお言葉です」

「来ていただいていきなり申し訳ないのですが、うちの喜膳が貴方にお見せしたい物があるそうで……ちょっと一緒に来てくださらないかしら?」

「見せたい物?」

「金庫に隠してあって、弁護士さんしか番号を知らないのです」

「で、弁護士は俺が来るまで開けられない……といったところですか」

「はい、仰る通りで」


 喜膳の後妻は弱った表情の裏に苛立ちを隠しているのが見て取れた。

 後妻の背後には、喜膳の息子や娘と思しき人々。

 どちらが後妻の子で、どちらが先妻の子かは分からないが、一つだけはっきりしていることが有る。

 ――どいつもこいつも殺気立った面してやがる。

 ヤクザ稼業で出会う本職程ではないが、遺産を狙って誰も彼もが殺気立っている。

 ――しかし家族を相手にこんな面ができるとは、どっちがヤクザだか分かったもんじゃねえな。

 禮次郎は内心呆れ返りながらも、柔和な笑みを保ったまま彼等に一礼した。


「それでは金庫までご案内しますね」


 禮次郎は喜膳の後妻と弁護士に案内されて金庫へと向かうことになった。


     *


「それでは金庫を開けさせていただきます」


 弁護士が金庫を開け、喜膳の後妻が俺と一緒に中身を確認する。

 

「日記ですね」

「日記ですわね」

「遺言によれば禮次郎様に読んで、受け取って欲しいとのことでした」

「俺にですか?」


 ――もしこの中身が未発表原稿かなにかだったりした場合、とんでもない価値になるんじゃないか。

 禮次郎は恐怖に震える。

 思い出の品や少額の金品ならば良い。

 ――あまり貴重な品を渡されたら、奴らの殺意が全部俺に向く!

 禮次郎はそれが怖かった。

 喜膳の後妻は既に険しい表情を隠しもしなくなっている。


「……では、読みます」


 俺は意を決して故人の日記に手を付けることにした。


     *


 禮次郎がざっと斜め読みしてみたところ、日記の内容は至って単純で、彼が生まれてから死ぬまでの出来事を簡単に書いている。

 言うなれば自伝だ。


「すごい、ですね。これ」

「何がです?」

「読みやすいんですよ。喜膳さんの人生が面白おかしく生き生きと躍動していて、まるで自分が喜膳さんになったような感覚を覚えました。こんなものを読ませていただけるなんて、俺は幸せものです」

「は、はぁ……? それは、旦那も喜んでいると思いますが……」


 禮次郎の言う通り、その自伝は実に読みやすく、また面白かった。

 さすがの名人芸というべきか、禮次郎はその“大作家の自伝”に引き込まれ、後妻と弁護士の目も気にせずに日記を読みふけってしまう。

 

「ちょっと待ちなさいよ!」


 だが、禮次郎の至福の時間はそこまで長くない。

 金庫の有る部屋に、吊り目の若い女性が入ってくる。

 彼女は禮次郎から喜膳の日記を奪い取ると、自分のバッグにしまい込む。

 付けすぎの香水の匂いがツンと鼻をつく。


「ああっ!?」


 日記を奪われた禮次郎は悲鳴を上げる。

 楽しい読書の時間を中断させられた時、人間は容易く絶望する。


「どうしたんですかいきなり!?」


 だが、禮次郎は思わず叫び声をあげてしまったことで我に帰った。

 ――患者の家で俺は何をやっているんだ。

 ――あの本の面白さのあまり、俺はどうかしていたみたいだな。

 

「いきなりじゃないわよ! これお父さんの残した原稿なんでしょう? 金目の物は全部家族に渡したって言っておきながら何よ! やっぱり財産を隠してたんじゃない! 最低よあの男!」

「そんな……」


 禮次郎は娘の言葉に開いた口が塞がらない。

 ――確かにその男は親として最低だが、人間としてお前なんぞより余程社会に貢献しているぞ。

 と危うく言ってしまうところだった。


「ともかく! これは親族で分けなきゃ駄目じゃない! んだから!」


 喚く娘を見て、禮次郎はさっさと家から帰ることを決意した。

 禮次郎も思うところが無いではないが、既に死んだ喜膳に対して義理立てをして、そのせいで薬局に迷惑をかける訳にはいかない。

 それに娘が騒いだことで待っていた他の親族も次々に部屋に入ってくる。

 ――長居してたらそれだけトラブルに巻き込まれそうだ。


「そ、それでは俺は失礼させていただきます!」


 禮次郎はペコリと頭を下げるとそそくさと部屋を出る。

 背後からは親族同士がああでもないこうでもないと揉めて、詰り合い、騒ぐ声が聞こえる。

 薬剤師とヤクザの二つの仕事のお陰で、特に金に困ったことのない禮次郎には、まったく理解できない世界が広がっていた。

 ――ヤクザなんてもんじゃねえ。

 ――あんなの、化け物よりも化け物だぜ。

 禮次郎は這々ほうほうていで葬式の会場となっていた佐藤邸を抜け出した。


     *


 翌日、土曜日の休みということで禮次郎は午後からクチナシと喫茶店に来ていた。

 札幌大通りのすぐ近くにある隠れ家的喫茶店で、和風のテイストが効いた内装と抹茶風コーヒーが通の間では有名な店だ。

 ここを禮次郎が使うようになったのは、喜膳老人から教えられてからだ。

 二人はカウンターに座りながら、コーヒーカップを傾ける。


「……あ゛ー、むかつく」

「機嫌直しなよ禮次郎。確かに災難だったけど、そんな風になるのなんて分かりきってるじゃん」

「クチナシ、お前随分とまた知ったような事を言うじゃないか」

「昼ドラで勉強した!」

「そっかーうーんえらいなー、ところでお前学校とか行って一般常識勉強してくるつもりない? 学力的には問題無いんだし」

「そんなに制服着てホシイの?」

「あー、ちょっと何言っているか分からねえわ」

「何処の制服が良いの?」

「やめろやめろ。警察が来る」

「すいませんお兄さん。お隣失礼してもいいかしら?」


 二人がとりとめもない話をしていると、禮次郎の背後に、何時の間にか眼鏡の女性が立っていた。

 ベージュのセーターとデニムのスカート、そして眼鏡。その女性は人目を引くような美人でこそないものの、清楚な雰囲気を漂わせ、誰が見ても好ましいと答えるような女性だった。

 口には出さないが、禮次郎の琴線にも触れる容姿だ。

 警戒して一瞬沈黙した禮次郎だったが、すぐににこやかに微笑んで椅子を引いた。


「どうぞ」


 女性は禮次郎に向けて微笑み、彼の隣の椅子に腰掛ける。

 そして彼女は店主にカプチーノを頼んだ。

 ちなみにこのやり取りの間、クチナシはキッと禮次郎を睨んでいる。

 鋭く鋭く睨んでいる。


「先日は娘が失礼しました。今日はお詫びに伺ったんです」


 女性はそう言って禮次郎に頭を下げる。


「娘?」

「私、ああいえあの馬鹿のことですよ」


 禮次郎は何を言われているのか理解できず、しばらく目の前の女性の顔をまじまじと見つめる。

 しばらく見ていると、その女性が何となく見た事があるような気がしてきた。


「ん……?」


 女性はその大人しげな雰囲気をガラリと変えてガハハと笑い、親しげに禮次郎の肩を叩く。


だよ。

「あ……!」


 禮次郎は思わず叫びそうになる。

 目の前に居たのは、昨日彼から日記を引ったくった佐藤喜膳の娘だったからだ。


「どうしたの禮次郎? その人誰?」

「仕事の話さ。まあちょっと話し込むから、何か好きな飲み物でもパフェでも頼んでここで待っていてくれ」

「ふーん……まあ良いけど」


 禮次郎に近づく美人が気に入らない年頃のクチナシだが、禮次郎を困らせるつもりはない。彼女はジャンボパフェと引き換えに大人しくしていることを選択した。


「マスター、ちょいと商談なんだ。席移って良いかい?」

「ええ、あちらの席へどうぞ」

「あら、随分店に通ってるのね?」

「気に入っているんだ。なにせ品が良い」


 禮次郎はマスターに頼んで、店の奥に有る小さな席へと女性を連れ込む。


「さてと……貴方、昨日と随分雰囲気が違いますね?」

「昨日お前さんが帰った後に、こいつわたしの日記を読んでな。一度読みだしたら読みふけっちまって、違う、私はお父さんじゃない……私は私。俺の生涯最高の作品でな。やめて、なんで……まあこんな感じで、あの日記を熟読したせいで自分が佐藤喜膳じゃないかって思い始めている」

「あの……一体何を言っているんですか?」

「兄ちゃんが男なら、バトル漫画を見た後に自分が主人公になったような気分にならないかい?」

「ま、まあ有りますけど……ドラゴンボールを見たらかめはめ波の練習とかしましたし」


 禮次郎の前の女性は嬉しそうに頷く。


「そうだよ。それだ。本当に優れた物語ってのは人間の記憶と心に強く刻まれる。違う、お父さんの作品なんて一度も読んだことが、だから本当に優れた小説ってのは人間を変える。やめて、やめて、やめて、ごめんなさい、助けて……謝るから……嫌だよぅ……。しかし此処までうまくいくとはな。本を読まないバカの方が耐性無いのかもしれねーわ……ううん、この喋り方なんかしっくりこねえ」

「確認させて下さい。貴方は自らが佐藤喜膳だと仰るんですか?」

「違っ……いねえな」


 禮次郎の向かいの席に座る女性はニヤリと笑う。

 それは生前の佐藤喜膳と寸分たがわぬ表情だ。


「違いねえ。俺、私が佐藤喜膳です。ええ、そうね。女性の身体だと、やはり女性的に振る舞う方がしっくり来るみたい。同性の身体に転写しないとどうしても自我が歪むのかしら? それとも転写自体に無理が? まあ今後研究を重ねないと駄目ね」


 禮次郎は思案する。

 ――今、彼等の記憶は身体を巡って奪い合っている。

 ヤクザとして思案する。

 ――父と娘、どちらに恩を売るべきか。

 薬剤師として思案する。

 ――父と娘、どちらの命を優先すべきか。

 禮次郎の答えはあっさりと決まった。


「……そうですか。では。幾つか質問をさせてもらいたいのですが、良いでしょうか?」

「あら、その名前で呼んでくださるのね? 良いわ、自分が喜膳って感覚がしてくるもの。やめて、私は、私は――」

「――申し訳ないのですが、医療者オレはあくまで患者が第一です。それに……」


 禮次郎は冷たい表情で女に告げる。


「……破落戸オレはお前に義理も恩もねえんだわ」


 の瞳から涙が溢れる。

 禮次郎はそれを無視して煙草に火を点け、紫煙をくゆらせながら窓の外を眺める。


「まあそれはさておき、。どうして俺に会いにいらっしゃったのですか? 真っ当な話じゃあないでしょう?」


 はニコリと微笑む。


「簡単よ。私、本当は貴方にあの日記を読ませるつもりだったの。生まれ変わるなら、若くて健康な人間になりたいもの。だけど失敗しちゃった。だからせめて貴方にあの自伝の感想を聞きたかったの」

「ふふっ……人を殺しかけておいて、随分と肝が太いことで」

「話したくない?」

「……まあ、それを話すのにやぶさかではないのですが……」

「謝れと言われれば謝るわ。私にできることならばなんでもする。お礼だって用意しているの。ほら」


 喜膳はヴィトンのバッグの中から小切手を取り出して無造作に渡す。

 其処には二足のわらじを履いて金を稼ぐ禮次郎にとっても、決して少なくない額が書かれていた。

 しかし禮次郎は即座に小切手を突き返す。


「金は不要です」

「あら、じゃあ交渉決裂かしら?」

「いいえ。俺は貴方の腕が欲しいんです」

「私の腕? 嬉しいこと言ってくれるじゃないの。どういうこと?」


 喜膳の表情が輝く。

 禮次郎の心の中の悪魔もまた、静かに微笑む。


「喜膳さん。貴方は、怪物になった人間を元に戻す原稿は書けますか?」

「魔術師共みたいな事言うのね? まあ、あいつらは人を神にしろとか言ってたけど……」

「できるのですか?」

「できるわよ。怪物と言わず、神だろうと、一度読んだなら凡人に叩き落とす物語がね」


 それを聞いた禮次郎は口の端を吊り上げ、悪魔のように微笑んだ。


「じゃあ一つ、頼みたい仕事が有る」

 

【第6話 老作家の渡せない遺産 終】

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