第15話 ニャルラトホテプの微笑
布団の上に寝そべる禮次郎。
禮次郎の上に寝転がるクチナシ。
「んにゅ……どう思う禮次郎?」
「そうだな……」
二人は緑郎の原稿を読み終えて、そのまま感想会を始める。
「ひねってて面白いが、なんだろうな……一味足りないな」
「一味足りない?」
禮次郎は緑郎の原稿を枕元に置く。
クチナシはその手に上から手を添えて、掴んだり離したりしながら禮次郎の大きな掌を自由に弄ぶ。
「どこどこ? どこなの?」
「んー、正直言って、喜膳さんの作品程面白いとは思えない。いや捻りが効いて上手いんだ。だけど、俺に向けて書いた話だとは思えないんだよな。むしろこう……小説を書いている人とか、有葉緑郎やあいつの作家仲間ならニヤリとできるだろうけど、小説家じゃない俺が読んでもな……」
「成る程。確かに僕も微妙だったな。多分これ、アマチュアの頃に書いた作品とかじゃないかな?」
クチナシは寝返りを打って禮次郎の身体から降りる。
そしてもぞもぞと禮次郎の腕の上に頭を置く。
「しかし……」
「禮次郎の考えていることは分かるよ。じゃあ、どうしてそんな物を渡したのか……だよね?」
「クチナシには分かるか?」
「ううん……あの人って禮次郎に怨みが有ったりする?」
「有るなら馬鹿正直にこの本を届けたりはしない」
そう言って禮次郎は先程渡された本を見せびらかす。
クチナシは本を見て顔をしかめる。
「ああ、その悪趣味な装丁の本?」
「良いだろう? オーダーメイドだ」
「僕は好きじゃないけどなあ」
「この本にはな、人外を人間にする力が有る」
「……本当?」
クチナシは興味深そうに本を見つめる。
「かの有名な大作家・佐藤喜膳に作らせた作品だ。とはいえ、無理を言って急いで書かせたから、効果は保証できないけどな」
禮次郎は本を枕元に置いてクチナシを抱き寄せる。
「何時か完成版を送ってもらう……まずはこれを受け取ってくれるか」
「……でも、僕は禮次郎を……」
「あの夜、俺を殺したことなんてどうでも良い。忘れろ」
「僕は……」
「どうしても気になるって言うなら、一生かけて俺に償え」
抱き寄せた禮次郎の腕へ、クチナシの心臓の鼓動が伝わる。
「……うん、良いよ。でも」
「どうした?」
「無事に札幌に戻ってからで良い?」
そう言ってクチナシはもう一度寝返りを打ち、禮次郎の胸の中に顔を埋めた。
「ああ、札幌に帰ったらお前がこれを使え」
禮次郎はクチナシの頭を優しく撫でた。
「髪がグシャグシャになっちゃうよ」
クチナシは嬉しそうに、そして何処か艶っぽく、禮次郎に微笑んでみせた。
禮次郎はそのまま朝日が登るまで、腕の中に伝わる少し高い体温と、シャンプーの甘い香りに身を任せていた。
*
「香食さん! おはようございます!」
「おはようございます!」
「おはよござっす!」
朝、ホテルのロビー。
禮次郎とクチナシがエレベーターで降りてくると、禮次郎の部下達が並んでいた。
禮次郎は五人の青少年の前に立つと彼等に問う。
「存分に飲んだか」
「「「「「うっす!」」」」」
「存分に食ったか」
「「「「「うっす!」」」」」
「存分に遊んだか」
「「「「「うっす!」」」」」
「なら良い。今晩は俺の馴染みの店に連れて行ってやる。函館で一番美味い寿司を出す店だ。そして思い切り食って、飲んで、成功を祝おう。行くぞ」
禮次郎はそう言って微笑むと、クチナシと彼等五人を連れて外へと向かう。
しかし禮次郎が丁度ホテルの自動ドアから外に出ようとした時だった。
「あら、禮次郎君」
「マリア!?」
聞き覚えのある女性の声にぎょっとして振り向く禮次郎。
「逃げろと言ったのに遊びに来てくれたのね。大好きよ、私の大事なお馬鹿さん」
だが、声の主、阿僧祇マリアの姿は見えない。
「どうしたんですか禮次郎さん?」
部下の一人が、急に足を止めた禮次郎に対して訝しげに声をかける。
「いや、なんでも……なに?」
禮次郎がその部下の方を見ると、その部下の姿が消えている。
いや、その部下だけではない。
クチナシも、ホテルのロビーに居た他の人々も、皆が居なくなっている。
「また会ったな、香食禮次郎」
ロビーでたった一人茶をすする有葉緑郎を除いて。
*
「有葉先生、あんたなんでこんな所に居る」
「何故此処に居ると思う?」
「俺に読ませた原稿に何かの仕込みをしたんだろう」
「少し違うな。確かに空間を繋げる“門”を作る為の触媒として使ったが、あれそのものは只の手書き原稿だ。俺は魔術師としても物書きとしても半端でな。組み合わせねばとてもじゃないが実用レベルにはならんのだよ。今回は俺自身の自我の所在を曖昧にするタイプの短編小説を用いて己の存在確率を操作し、未熟な魔術で作られた不完全な“門”でも通れるように……ああいや、魔術師でもない人間に説明なんぞしても気味が悪いだけだな」
緑郎は白い中折帽子をテーブルの上に置いて禮次郎を手招きする。
「まあ座れよ、香食禮次郎。お前は俺の話くらいは聞いても良いはずだ。ほら、俺の友人を殺したことについて思うところは無いのか?」
禮次郎は迷ったが、他にどうすることも出来ないと見て大人しく緑郎の前に座る。
「……奴は怪物だ。怪物を殺すことの何が悪い」
「そうだな、別に俺も咎めるつもりはない。茶は要るか? 二人分用意させたが」
「要らん」
「じゃあ俺が飲もう」
「俺はこれから仕事なんだ。彼等の居る場所に戻る方法を知らないか?」
緑郎は禮次郎の話を無視して勝手に話し始める。
「小説家というのは本をよく読む生き物だ」
「急に何の話だ」
「香食禮次郎。詞隈良太郎の手記を持っているな」
「詞隈? 良太郎? 誰だそれは?」
「誤魔化すなよ」
緑郎は底冷えのする鋭い瞳で禮次郎を睨む。
「……」
「言い逃れできない言い方をしてやろう。あのクチナシという少女の父親だ。彼の書いた手記が俺は欲しい」
「あれか」
「そうだ。俺はあれが欲しい」
緑郎は禮次郎のスーツの裏ポケットの有る位置を見てニヤニヤと笑う。
そこに手記が有ると知っていることを示すように。
「あれを出したら此処から逃がす。とでも言うつもりか?」
「話が早いな。そうだ」
「此処から出られる保証は?」
「無い」
「話にならんな」
「だが力を合わせれば出られるかもしれない。あの手記を俺に渡すと約束してくれるならば、俺がお前を手伝おうというのだ。決して損な取引ではないぞ」
「……待て」
「どうした?」
「お前も閉じ込められているのか?」
「ふっ、何を言うかと思えば――」
緑郎は緑茶を飲み干してホテルの外の風景を眺める。
窓から覗く一面の浜辺はとても穏やかで、鴎一匹居やしない。
「――そうだが?」
「……おい、有葉」
――駄目だこいつ。
そう思った禮次郎だったが、その考えは次の緑郎の台詞で覆されることになる。
「やれやれ、こんなことなら喜膳先生に義理を通す為に阿僧祇マリアと敵対すべきではなかったな」
「……奴を知っているのか?」
「ああ、外なる神シュブ=ニグラスの化身にして、結界の形成を得意とする魔術師だ。この空間も恐らく奴の仕込みだろう」
「シュブ=ニグラス……またそいつか」
「知っているのか? 只のヤクザではないようだな」
「そういうあんたもな、有葉先生」
――そう言えばあの本が使えるかもしれない。
禮次郎は懐から
それを見て緑郎が一瞬だけ目を輝かせた。
その僅かな様子の変化を禮次郎は見逃さなかった。
「香食禮次郎。そいつを何処で手に入れた」
「ススキノにある教会。そう言えば分かるか?」
「シュブ=ニグラスの信奉者から奪ったのか……やはり喜膳先生の仰る通り、只の薬剤師ではないな」
「こいつの価値は分かっているようだな、有葉先生」
「それがあれば、また良い原稿が書けるな」
「それだけか?」
「原稿は全てに優先する。俺としては最上の褒め言葉のつもりだが?」
「じゃあ例の手記の代わりにこいつをくれてやる。代わりに俺をここから出してクチナシの居る所に連れて行け」
禮次郎は
緑郎はそれを受け取ると自らの懐に入れる。
「良いだろう、取引成立だ。だが、それにしても……ふふ、面白い」
「何がおかしい?」
「いや、あの娘の何がお前を掻き立てるのか気になってな」
「それをお前に話す必要は無い」
「知っているか?
禮次郎は椅子から立ち上がる。
「――なに!? どういうことだ! 俺が此処に閉じ込められている間に何か有ったのか!?」
そしてものすごい剣幕で緑郎に詰め寄る。
「ま、まあ待て! 落ち着け! お前のクチナシは無事だ。単純に詞隈良太郎の娘は数年前に死んでいるという話をしただけだ」
「……慌てさせやがって」
禮次郎は舌打ちをして椅子に座る。
「あの手記には死体を蘇らせたと書いてあった筈だ。魔術だか何だか知らないが、一度死んだ人間の身体が再び生命活動を始めるように処理をしたんだろう。神話生物だったかの細胞とやらを使ったと書いてあったことから推測するに、現代の科学では不可能なレベルの高度な再生医療だ。一度代謝を止めた筈の死体を再起動させた点が医療人としては奇妙に見えるが、元々魔術なんてよくわからないものだ。そういうことだってできるんじゃないか?」
緑郎は顔を隠しながら高笑いを始める。
――芝居がかった奴だ。
禮次郎は内心呆れ返っている。
そんな禮次郎の心を知ることもなく、緑郎は芝居がかった調子で語る。
「ああ! そうだったな! 詞隈良太郎はそう思い込んでいたんだ! 旧支配者イタクァに願い娘の亡骸を新鮮なまま凍らせ、奉仕種族ショゴスの肉芽で欠損を補い、そして魔導書ネクロノミコンの断片で不完全な降霊術を行って、奴は娘を取り戻した――かに見えた!」
「何? おいちょっと待て、今の話をもう少し詳しく――」
目を爛々と輝かせ、禮次郎が知らない単語を次々語る緑郎。
禮次郎の制止を聞く様子は無い。
彼は楽しそうに語り続ける。
「良いか香食禮次郎! その手記に書いてあるものは狂人の主観によって語られる酷く歪な悲劇に過ぎない。物語を作る上での取材価値は高いが、魔術的に正確とは限らないのだよ。お前の指摘は正しい。死の寸前で凍らせたと言うならまだしも、一度死んだ者が蘇るなど、魔術の世界でもありえないことなんだよ。かの有名な究極の魔導書・ネクロノミコンの完全版解読者でもない限りな! ちなみに、死体を動かすのは難しくないぞ!」
――まさか?
禮次郎はクチナシが人間らしく振る舞っているだけのゾンビである可能性を考え、すぐにそれを振り払う。
「待て、それでも確かにクチナシは生きている。体温も有る。食事する。抽象的な思考を行い、俺と行動を共に――共にしている!」
だが、そうすることで禮次郎の中で不安は増す。
――この世界には化物がいる。
それを禮次郎は知ったつもりだった。
――クチナシは化物にされた人間だった。
それだって禮次郎は分かっていたつもりだった。
――だから俺は彼女を助けたい。
「そうだな! 死体を動かす云々は少しお前を驚かせたかっただけだ。ほら、読者は退屈を嫌がるからな。ちょっとドキリとさせるのも作家の嗜みだ。安心しろ。今、お前を愛し慈しむ少女は動く死体などではない。さりとて蘇った死者でもない。まず間違いなく生きている」
そう言って緑郎は優しく頷く。それがやけに不気味だった。
まるで香食禮次郎が知る有葉緑郎ではないような気がして。
「なら――なら、一体何だって言うんだ。俺の側に居るクチナシは!」
普段は冷静な禮次郎だったが、ことクチナシに関しては話が別だ。
禮次郎は緑郎の語る話に何時の間にか引き込まれている自分に気づく。
「そう――! かの少女は、人にあらず。さりとて黄泉の国より帰りし異形にもあらず。古代、この地球を支配していた知的生命体によって作られたショゴスと呼ばれる臓器移植用の家畜に過ぎないのだよ。最初は細胞片に過ぎなかったそれが植え付けられた先の“
「馬鹿な」
「馬鹿ではない! 何故貴様が生きているのか考えなかったのか?」
「待て……お前が何を知っている?」
「それを教えるのは契約内容ではないな。読者の想像にまかせるのも作家の嗜みだ。それともあれか? 貴様は愛する女に黙って! 他人の口から! 愛する女の全てを知ろうとでも言うのか! 無粋だろう!」
「……減らない口だ」
舌打ちする禮次郎。
――だが、それを言われては俺も無理に聞けない。
――慌てることはない。
――今慌ててこいつから聞くべき情報じゃない。
禮次郎は沈黙して、自らの思考を整理し、気持ちを落ち着ける。
「さて香食禮次郎! 俺の話は分かりにくかったか?」
「……いや、よくわかったよ」
「そうか! それは何より! また一つお前は狂気の世界に近づいたな!」
緑郎は禮次郎を嘲笑する。
「確認させろ」
「今の話についてか? 構わん。聞かせろ」
禮次郎は溜息混じりで自分なりの解釈を口にする。
それが自分の思考を整理する為に良いと思ったからだ。
「自己保存本能を持つ幹細胞塊が、生存のためにクチナシの身体を取り込みながら成長した。幹細胞塊はクチナシの肉体を喰って取り込むと同時に、元の構造を模倣して、類似の神経回路を作ることで擬似的に記憶まで再現した。こういうことだな有葉先生?」
「そうだ。それで合っている。補足をすれば、そうなるように魔術を使ってショゴスを誘導したのはクチナシの父親である良太郎だ。最も奴は得られた結果に満足できなかったようだがなあ! フハハハハハハハ! アハハハハッ……ひい……ひぃ……」
緑郎は呵々大笑する。
笑って、笑って、腹を抱え足をバタつかせる。
「外道が……」
――クチナシの親父も、この有葉緑郎も、魔術師ってのにろくなやつは居ねえ。
禮次郎は自らの持つ手記を怒りに任せてギリギリと握りしめる。
禮次郎の表情に気がついた緑郎は口元をほんの僅かに吊り上げる。
楽しげだ。
「どうした香食禮次郎? 怒ったか?」
「なあ、有葉先生」
「どうした?」
禮次郎は怒りと動揺を内に飲み込み、緑郎に問いかける。
此処で怒りに我を失えば、それは目の前のこの男の思う壺だと禮次郎は分かっていた。
「何故、そこまで詳しく知っている? 手記を欲しがっているみたいだったが、そこまで知っているなら要らないんじゃないか?」
禮次郎の指摘に、緑郎は虚を突かれて呆けた表情を見せる。
だがすぐに表情を変え、冷たい瞳で禮次郎を値踏みするように見つめる。
しばらくの沈黙の後、禮次郎の目の前に居る緑郎だった筈の男は穏やかに微笑む。
「……クールですね香食禮次郎。怒って冷静さを失うかと思っていたのですが……。少し見直しました。やはり代理人を立てて話すのはやめです」
「代理人?」
「ああ、有葉緑郎は凡百の魔術師に過ぎません。師の佐藤喜膳は、私の目から見ても傑物ですが」
「どういうことだ?」
「貴方は聞きましたね? 何故そこまで詳しく知っているのか、と」
――こいつは有葉緑郎じゃない。
禮次郎は直感した。
「そんなの――」
有葉緑郎の姿をしたナニカは目を爛々と輝かせ、高らかに告げる。
「――私が全て用意したからに決まっています」
そう言った瞬間、緑郎だったナニカの全身が真っ赤な炎に包まれ、彼の全身は瞬く間に灰と化す。
立ち上がって慌てて後ろに飛び退く禮次郎。
炎の中から黄色く輝く三つの眼が現れ、禮次郎の視界がひび割れ、目に映る全てがガラス細工のように崩れ落ちる。
「お前は――!?」
禮次郎の周囲は漆黒に包まれ、何一つ見えなくなる。
ただその暗闇の中で、無限に落下していくような感覚だけがあった。
落ちていく暗闇の中、肌を何かが掠める。
耳元で息遣いが聞こえる。
遠くから単調な太鼓とフルートの音色が聞こえる。
何も見えない筈なのに、何かが自分を見ているような、そんな怖気を禮次郎は覚えた。
空間そのものが生きているような、少し手を伸ばせば自分の知る世界が一瞬で消え去っていくような、そんな冒涜的な錯覚を覚える。
本能に刻まれた恐怖、まだ人類の祖先が無数の類人猿の一種にすぎなかった頃の恐怖が、禮次郎の脳で叫び声になる。
禮次郎はギリギリのところでそれを飲み込み、沈黙を保つ。
目を閉じ、歯を食いしばり、耳をふさぐ。
だが声は、彼の脳内に直接響く。
「道化芝居の礼に教えましょう。我が名は
闇の中に響く哄笑、嘲笑。
禮次郎の意識は闇の中へと深く深く溶けていった。
*
「此処は……」
気づくと、禮次郎はホテルのエントランスに立っていた。
隣にはクチナシ、そして背後には五人の部下。
「どうしたの禮次郎?」
クチナシが心配そうに禮次郎の顔を見上げる。
「……なんでもない」
禮次郎はホテルの外に向けて歩きだす。
今度は、阿僧祇マリアの声はしなかった。
【第十五話
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます