第34話 邪神残侠伝・破②~夜が来る、日々が狂う~

「親分、あいつらすっかり見なくなりましたね」

「ああ……しばらくはこのあたりをうろついていた筈なんだがな」


 すすきのでの一件が有ってからしばらく、龍之介の周囲は驚く程平和だった。

 手下には拳銃で武装させていたものの、それを知ってか怪しげな男が居ても手出しをしてくることが無い。

 

「やっぱりあれじゃないですか。愚連隊のガキと揉めて、この辺りをうろつくのも危ないと思うようになったんじゃないですかね」

「かもな。まあともかく警戒は続けろ。パチンコだろうと煙草だろうと一人で行くな。お前もだぞ?」

「分かってますよ親分」


 龍之介は改めて部下に強く言い聞かせる。

 かくいう龍之介も一人では動かないように強く意識していた。

 ――つよしの奴、調べるなとは言っていたが……。

 龍之介は溜息をつく。

 ――令也、調べなきゃいけないのは分かるが、あまり深入りしてくれるなよ。

 そして祈るように事務所の天上を仰いだ。


「帰ったぜ……兄貴」


 そんな時、龍之介の部屋の扉が開いて令也が入ってくる。心なしか疲れている。

 令也が龍之介から借りていた二人の手下も顔が青い。


「帰ったか令也。調査の首尾は……いや、待て。お前ら何が有った?」


 そう聞かれると令也に従っていた二人の手下は頷く。


「化物です。熊の化物だ……令也の兄貴が居なきゃ俺達は今頃……」

「龍之介さん、なんだったんですかあれは」

「分かった。お前らは無理に話さなくて良い。俺も詳しくはねえが……」


 二人が怯えながら口々に言うのを聞いて、龍之介は令也を睨みつける。

 珍しくバツの悪そうな顔をした令也は、これまた珍しく大人しく頭を下げる。


「悪い……俺の方が見張られていたみたいでな。調べている内に奴らに襲撃された。生きて帰ってこれたのも運が良かったからだ」

「ったく……お前ら、しばらく俺と令也の二人きりにしろ」


 手下達を部屋の外に控えさせ、龍之介と令也は二人きりになる。


「……ところで吸うか」


 龍之介は煙草を取り出して、令也にも差し出す。

 令也はそれを受けとると、まず龍之介の煙草に火を点けてから自分の煙草に火を点ける。


「……兄貴。不味いことが分かった」

「不味いこと?」

「俺がこの前、大学の人間から請け負った依頼が有るだろう。どうもあれが絡んでいるみたいだ。今回は完全に俺のへまだ」


 令也はうなだれる。龍之介は溜息を吐く。


「んなのはどうだって良い。それよか俺達の店の前で揉めていた連中の正体はわかったのか?」

「ああ……分かった。兄貴、あんたは肝盗村の出身だったな? だったら、眞守まもり……あるいはマーシュって名前に聞き覚えは無いか?」

「眞守ってのは聞いたことが有るな。萬川神社って神社を管理している一族だ。村長も何人か出ている」

「どうにもその連中の部下らしい。あの日、東京から来たビジネスパートナーと揉めていたんだとよ」

「どうやって調べた?」

「襲われたから返り討ちにして、後はしこたま殴って吐かせた」

「成る程……だがそれだけならお前さんがヘマしたとも思えないぜ?」


 龍之介は努めて笑顔で令也の肩を叩く。


「どうもその……この前自殺したって奴がその眞守一族の一員だったらしい。図書館でそう書かれている家系図を手に入れたんだ。これで俺達の店の前で揉め事を起こしていた連中と自殺の調査が無関係じゃなくなっちまった。だから俺は困っている。これは思ったよりもややこしいんじゃないかって」

「ああ、そういうことか……確かにややこしいな。一つ謎を解いたと思ったらまた謎ってか」


 ――剛からもあまり深入りするなと言われたしな。藪蛇になるのが一番不味いな。

 龍之介はしばらく煙草の煙を蒸した後、決断する。


「兄弟、悪いことは言わねえ。この一件から手を引こう。お前さんの方に来ていた調査の依頼は断って、あとは大人しくうちの人間を守っているのが一番だ」

「……そうだよな」

「眞守一族については気になるが、俺ももう村には帰れない人間だ。幸い、奴らの部下と思しき妙な連中は俺達が群れて動いているのもあって警戒して手を出してこねえ。引き際は此処だろう」

「ああ……まったくだ。依頼人には俺から話しておくよ」


 そう答える令也の表情は暗い。

 ――やっぱり何か隠してやがるな?

 龍之介は令也の気配からそれを察する。


「待てよ令也、俺も行く。今のお前さんを一人にさせたくない」

「済まねえ。頼むよ兄貴。丁度今日の夜にあいつと会う用事が有ったんだ」


 そう言って令也は力無く笑った。


     *


「失礼するぜ」


 その晩遅く、龍之介と令也は再び北大農学部を訪れていた。


「……何かおかしいぞ」


 龍之介は呟く。

 令也が指定された研究室の扉を開けた時、其処には誰も居なかったのだ。

 電気をつけて眺めてみても、並んでいるのは実験用の机と試薬棚ばかりだ。

 

「便所に寄ったって雰囲気じゃねえな。電気も消えていたし」


 令也は聞き耳を立てるが物音一つしない。

 しかしその代わりに、彼らの鼻がかすかな異臭を捉える。


「……血の匂いだ。逃げるぞ兄弟。俺達は嵌められたかもしれない」


 龍之介の判断は早い。

 一方で令也は戸惑っていた。


「待て兄貴、じゃあ……あいつが殺されたのか?」

「そんなの知るかよ。少なくとも今此処に残るのは不味い……この部屋の何処かに死体だって残っているかもしれない。流石に死体が見つかれば警察も動く。俺達が関わったなどと思われたら、揃って逮捕パクられることになるぞ」

「くそっ、だが、だとしたらあいつが殺されたのは俺の……!」

「考えるのは後だ」


 そう言って龍之介が令也を力づくで研究室から引っ張り出した丁度その時だ。

 丁度令也が立っていた場所に、大量の真っ赤な粘液が降ってきた。それは一度床に広がってから、まるで風船の中にでも入っているかのように、直径2mほどの球体に形を変える。


「テケリ・リ――テケリ・リ」


 鈴の鳴くような音色で、粘液が鳴いた。

 二人の背筋に寒気が走る。


「――うっ!」


 遅れてむせ返るような血の匂い。

 何より、その粘液の中には人間の骨と眼鏡が浮かんでいる。


「ああ……ああ!」


 令也は何時になく取り乱して震え始める。

 その理由が龍之介には分かった。

 粘液の中で浮かぶ眼鏡は、龍之介も数日前に会った令也の友人――今回の仕事の依頼人のものだ。


「畜生が!」


 令也は突如スーツから拳銃を取り出すと、滅多矢鱈に撃ちまくる。

 だがその弾丸は全て粘液に吸い込まれて溶かされる。効いている気配は無い。


「馬鹿やってないで来い! 死ぬぞ!」


 龍之介は慌てて令也を引っ張り研究室を逃げ出す。

 粘液はリノリウムの床を這いずりながら、逃げ出した二人を追いかける。


「畜生……! 畜生……なんで……!」

「良いから逃げるぞ! 冗談じゃねえ……あんなの戦いようがねえ、銃弾が通じないんじゃどうしろっていうんだ」

「銃弾が……銃弾が効かないか」

「おい兄弟? 何考えてる?」


 その時、突如として令也が立ち止まり、龍之介の腕を掴む。

 二人の前方に、ローブ姿の男が立っていた。

 男は龍之介達を追いかけていた赤い粘液と良く似た透明な粘液塊を従えて、彼らの逃げ道を塞いでいた。

 ――逃げ道を塞がれた。

 下に降りる階段への道は、ローブ姿の男を排除することでしか開けない。

 だが男はあの得体の知れない存在を従えている。

 龍之介は打つ手を無くして凍りつく。


「兄貴、こっちだ!」


 令也はそう叫んで龍之介の手を引き、すぐ近くにあった学生用の実験室に飛び込み、内側から鍵を締める。

 扉の向こうでは、二匹の怪物が音を立てて扉に体を打ちつけている。


「やっぱり鍵かけてなかったか……助かった」

「兄弟、どうしてこんなところを?」

「俺も元々学生だったからな。何処に何が有るかくらいは知っているさ」

「しかしお前、大学の研究室ってのは管理が厳しいんじゃないのか?」

「案外ゆるいぞ。特に今回は、この前と同じようにあいつらが人払いをしているせいか、鍵をかける間もなく姿を消してくれたみたいだしな」


 令也はそう言って研究室の中の薬品棚を指差す。

 鍵もかけずに開けっ放しである。

 それだけではない。実験に使ったと思しき薬品の瓶が口を開けたままで実験台の上に置いてある。

 令也はゴム手袋を嵌めると手早い作業で試薬棚から瓶を取り出し、薬同士を混ぜ合わせ始める。


「何だそれ? 何をするつもりだ?」

「最近注目されたばかりのジメチルスルホキシドって薬だ」

「毒薬か?」

が前に大学で話してくれていたんだ。木材から採取される薬品でな……なんでも溶かしてくれるとか」

「溶かす? あの化物も溶かせるのか?」

「ああ、説明の仕方が悪かったな……これを別の毒薬と混ぜてあの化物に食らわせる。恐らく一撃だ。二つ作ったから一つ預けるぜ」


 そう言って禮次郎は蓋をしたフラスコを龍之介に渡す。

 中には令也が咄嗟に調合した毒薬が満ちている。


「成る程、良いアイディアだ」


 龍之介がそう言った瞬間、扉が吹き飛んで向こう側から赤い粘液と透明な粘液が飛び込んでくる。龍之介と令也は咄嗟にフラスコを投げつける。フラスコはそれぞれ粘液の中に取り込まれた。


「兄貴!」

「おう!」


 龍之介と令也は同時に懐から拳銃を出す。

 銃声が夜の研究室に鳴り響く。

 粘液の内側に取り込まれつつ有ったフラスコが割れる。

 令也が咄嗟に作り上げた毒液は、瞬く間に粘液の中に溶け込んでいく。

 すると龍之介達を襲っていた赤と透明の粘液は動きを止め、あぶくを立てながらゆっくりと身を震わせ始める。


「がああああああああああああ!」


 それからすぐに部屋の外から悲鳴が聞こえる。

 同時に、粘液も苦しげにのたうち回り、龍之介達の居る部屋から逃げ出す。


「おい、兄貴!? 逃げるんじゃないのか!」


 龍之介は令也の制止も聞かずに部屋から飛び出す。

 彼が見たのは、二つの粘液塊がローブ姿の男を襲う姿だった。


「た、助け――」


 龍之介に向けて手を伸ばすローブ姿の男。

 だがそれは間に合わない。

 二つの粘液塊はその中央に人間のものと良く似た口を形成し、ローブ姿の男に齧りつく。

 ひときわ大きな悲鳴を上げるローブ姿の男。

 透明だった方の粘液塊も赤く染まる。


「どきやがれ!」


 龍之介が拳銃の引き金を引くと、粘液塊は慌てて窓の外へと飛び出す。

 それは何処か怯えているようにも見えた。

 龍之介は首と片腕を齧られた男から、ローブを剥ぎ取る。


「……剛、お前だったのか」

「ごめん、ごめんよ龍ちゃん……俺が始末しないと駄目だって眞守の奴らに言われて……逆らえなかったんだよ……」

「研究室で俺達を待っていた奴を殺したのもお前か」


 前にあった時よりもなお魚面に近づいていた剛は、息も絶え絶えに頷く。


「それも命令か?」


 剛はもう一度頷き、それからゆっくりと目を閉じる。

 龍之介がいくら揺すっても返事は無い。


「畜生……なんで、こんな……」


 うなだれる龍之介の背後に令也が立つ。


「その化物……まさか兄貴の知り合いか?」

「……昔のダチだ。同じ村の出身だよ」

「そうか……悪いことを言った。訂正するよ」

「気にするな。俺達にはどうしようもなかった……だが」

「どうした?」


 龍之介は顔を上げて、拳を握りしめる。阿修羅の形相である。


「この落とし前はつけに行くぞ」


 それを聞いた令也は頷く。


「流石兄弟、任侠じゃねえか。勿論俺も連れてってくれるよな? 俺もダチを殺られた。部活の後輩だったんだ」


 彼は剛の亡骸に嵌めてあった黒い宝石のついた指輪を外すと、それを龍之介に見せる。


「ところで兄貴、こいつはこんな指輪をつけるタイプか?」

「なんだそれ? この前会った時は付けていなかったな……」


 龍之介は首を傾げる。


「ふむ……何か価値のあるものとかじゃないのか? 眞守の一族とか、肝盗村とかで……」

「覚えがねえよ。戦争行く前にはもう寄り付かなくなっていたからな……」

「これ、使かもしれねえな」


 令也は鮫のような笑みを浮かべる。


「使える?」


 龍之介の声も耳に入っていないかのように、令也はその黒い指輪を見つめ続けていた。

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