第29話 逃げねえよ

 禮次郎は自宅のマンションで、クチナシの淹れるコーヒーを飲んでいた。

 地元新聞を隅から隅まで読んで、怪しげな事件ビジネスタネは無いかと鵜の目鷹の目だ。

 最近はインターネットを導入して、最近生まれたばかりの匿名掲示板などもチェックするようになった。

 情報ソースは多ければ多い程良い。


「最近、ダゴン秘密教団絡みの事件が多い」

「そうだね」

「清水会も、知り合いの魔術師連中も、ダゴン秘密教団絡みで何やら動いている」

「確証は有るの?」

「それを言われるとな……もしそうなら辻褄が合うってだけだよ」


 禮次郎は気まずそうに頬を掻く。

 スウェット姿のクチナシはコップにミルクを入れてコクコクと飲み干す。


「ぷはー」

「呑気だなお前は」

「カリカリしてても仕方がないよ。まずどうすべきだって考えてるの? それが一番最初にあるべきだって禮次郎が言っていたことでしょう?」

「全くだな……いやまあ単刀直入に言えばダゴン秘密教団についてこちらも追いかけるべきじゃないかって話な訳だが」

「もう、最初からそう言えば良いのに」

「お前はどうすべきだと思う?」

「僕もそう思う」

「やっぱりそうか」

「逃げても隠れても、駄目な時はもう世界ごと駄目になっちゃう。そう言う相手と戦っているんだよ?」

「ああ、俺やお前がこれから南の島に逃げたところで、この星ごと飲み込んで叩き潰す相手を向こうに回しちまっている。阿僧祇マリアの聖母教会を叩いた時点で、もうこれはどうしようもない」

「僕達の力が必要な時には清水会か、佐々さんか、もしくは思いもしない誰かから依頼が来ると思うんだよね」

「だったら必要とされる力を蓄えておく。その一つが情報……そうだな?」

「うん。僕と禮次郎ならその情報を最大限活かして自由に立ち回ることができる。フリーランスだからね」

「個人的には佐々先生の思惑通りって感じがして好きじゃないけどな」


 禮次郎は久しぶりに詞隈良太郎の手記を開く。

 クチナシの父である彼が独自に集めた古今東西の神々にまつわる知識をまとめた手記の中から、禮次郎はダゴン秘密教団に関係する記載を見つけ出していた。


     *


 1990/6/15

 深きものどもに関する情報を集めていく中で、興味深いカルト集団と接触した。彼らは自らを“ダゴン秘密教団日本支部”と名乗り、北海道土着の深きものどもとは別の勢力圏を独自に築きつつある。話によれば機を見てこちらでも勢力を拡大するつもりだそうだ。

 彼らは研究の協力と引き換えに、私に深きものどものグループのある高貴な女性との婚姻を結ぶように提案してきたが、私は娘と同じように妻を愛している。そのような悍ましい誘いに乗る訳にはいかない。


     *


「……とはいえ、これだけなんだよなあ」

「なになに? どんな情報が載ってたの?」


 禮次郎は手記を隠す。

 ――もうクチナシに父親の話は見せたくないしな。


「現時点で二つの勢力が確認できる」

「どういうこと?」

「北海道土着の深きものども、そしてダゴン秘密教団日本支部。こいつらが何処まで協力しているのか、あるいは反目しているのか。そしてこの北海道に潜む邪教団体が彼らをどう考えているのか。其処がポイントになってきそうだな」

「禮次郎の見立てでは、そのダゴン秘密教団はどの程度まで浸透してきているの?」

「まだ致命的なレベルじゃないだろうな。外側から切り崩しに行っているレベル。だが積極的な攻撃があるのは間違いない。ただそれだけだと佐々先生が自ら動くかもなんて言うにはちょっと遠い気がするんだよ」

「あの人、いかにも私がクロマクですって顔してるもんねえ」

「それこそ子供が攫われでもしないと動かねえだろあの人」

「うちの父親とは違いますねえ全く。僕は羨ましいよ、邪神世界のベストファーザー賞って感じィ?」

「なんだかんだそういうのが見えるから、俺はあの人と縁を切れないのかもしれないな」

「あはは、禮次郎ったら可愛いところあるんだね」

「お前だってなんだかんだ親みたいなのを求めてるんじゃないか?」

「いいや、僕は今で充分。沈みゆくだけの日々だけど、あなたが居るならそれも良しってね」

「やっぱりそう思うか」

「そう言えばこの前、猫殺さなかったよね。七代祟るって聞いて怖くなっちゃった? 僕と禮次郎の未来とかももしかして考えちゃってたりする? でもきっと駄目だよ、駄目駄目。僕達はきっと何時かどうしようもなく――」

「別にそういう訳じゃないさ。あれが佐々先生の言う蠱毒ならば、あの中の存在も殺せば宿業に巻き込まれる。俺が背負う命は――」


 禮次郎の暗い瞼の裏に蘇る。

 ――この目の光を奪った女。

 自ら殺した彼女のことを、人間として死んだ彼女のことを、禮次郎は忘れられていない。

 ――けど、あれはもう居ない女だ。今俺が背負うべきは――


「――そう、お前だけで良い」

「禮次郎、今、僕を見てた?」


 クチナシの責め立てるような口調に禮次郎は内心ドキリとする。


「定山渓で会った御坊が俺の瞳は心についていると言っていた。なら俺を見ているのは何時だってお前だろう。心配することはない」

「あの人もなんだか色々知ってそうだよねえ」

「定山渓でもう一度色々調べてみるか? 依頼人には仕事以外で会いに行かないのがルールだから、あまり大げさな動きはできないが」

「それも悪くないかもね。だけどさ」

「どうした?」

「駄目だろうけど、偶に禮次郎ともっと幸せになってみたいと思う時も有るんだよ。僕はね」

「…………」

「禮次郎はどうなの?」

「俺ぁ……もうそこまでまっすぐな年頃じゃあねえからな」


 煙草を取り出して火をつけようとする禮次郎。

 だがそんな朝の静寂はインターフォンで破られる。


「香食さん、いらっしゃいますよね? 香食禮次郎さん?」


 扉の向こうから直接聞こえる女性と思しき声。

 顔を見合わせる禮次郎とクチナシ。

 ――マンションにある玄関のオートロックをすり抜けて来たのか。

 ――もしくはマンション内の住人?

 二人とも聞き覚えが無い声というのも怪しさを倍増させる。


「禮次郎、僕も……」

「クチナシ、お前は逃げる準備をしていろ。こういう事は俺がやる」


 そう言って禮次郎が拳銃を構えた瞬間。

 轟音と爆炎が部屋の中を吹き飛ばす。


「え゛っ」

「はっ?」


 魔術の気配は無い。つまり近代兵器の類だ。

 本来、街中で振るうようなものではない。

 驚く禮次郎とクチナシの前に、黒服の男たちが乗り込んでくる。


「お前ら、一体……」


 禮次郎がそう問いかける間も無く、首筋にスタンガンを当てられる。

 身体が動かなくなった間に注射をうたれ、禮次郎の意識は闇の中へと消えていった。


     *


「……此処は?」


 禮次郎は目を開け、周囲を見回す。彼はコンクリート張りの部屋で座らされていた。

 上半身の衣服は脱がされ、手首には部屋の天井とつながる鎖、周囲には見ているだけで目が痛くなる非ユークリッド幾何学的図形がチョークで描かれている。

 床からはコンクリの冷気が伝わってくる。

 ――クチナシは何処だ。

 禮次郎の思考はそればかりだった。


「やっと目が覚めましたねえ」


 先程マンションの部屋で聞いた覚えがある声。顔をあげると、いつの間にか、禮次郎の目の前に女装をした男が居た。

 青い瞳、拘束具に似た赤いコート、緑がかった黒髪。

 手には短剣。柄頭に赤い宝石が埋め込まれている。魔術儀礼に使われる品だ。


「おい、こいつは……」


 男は禮次郎の話を聞くこともなく、禮次郎の胸板を浅く短剣で引っ掻く。

 灼けるような痛みと、脳を震わせる痺れ、そして胸から流れ外気に触れて急速に冷えていく赤い血潮。


「…………!」


 禮次郎は歯を食いしばったまま、男を睨む。

 すると男は禮次郎の頬を叩き、ハイヒールで彼の顔面を蹴り飛ばす。


「気に入りませんねえ。その目」

「クチナシを何処にやった」

「他人の大切な人をさんざん奪っておいて、自分が奪われると人間らしく心配するんですねえ……気に入りません」


 禮次郎の胸の傷口をハイヒールの先端でえぐりながら睨みつける男。

 だが禮次郎は悲鳴一つ挙げずに睨み返す。


「なんだ。俺の作った薬で家族でも死んだか? ご愁傷様だな」


 一瞬だけ、へらへらと笑っていた女装の男の顔から笑みが消える。

 そして短剣が禮次郎の右眼を抉る。

 プツリという音がして潰れる眼球。短剣とすれてゴリゴリ音を鳴らす骨。


「――っ!」


 これには流石の禮次郎も耐えきれず、呼吸を荒げて悶え苦しむ。

 男は楽しむように禮次郎の目から短剣を引き抜くと、禮次郎を見下ろしてケラケラと笑う。


「これで気を失わないんですか! いや失えないのか? 頑丈ですねえ貴方!」

「悪趣味なカマ野郎が……」


 禮次郎の胸の傷は既に塞がり、ほぼ完璧に治りかけている。

 同様に今えぐられた目の傷も、すぐさま血が止まり、過度の興奮も有って痛みさえ次第に薄れている。

 禮次郎がその事実に驚くことはない。既に正気ではないのだから。


「いやはや、実に人間離れした身体だ。あまり遊ぶなと言われていたのですが、つい実験してみたくなって……本当に人間の意識を持ったままなんですねえ」

「……なに?」

「いえ、こちらの話。貴方をお呼びしたのは、清水会と佐々総介……それにダゴン秘密教団北海道支部について聞きたかったからです」

「なんだ……北海道支部のことか。ってことはあれか、日本支部の連中か?」


 禮次郎は流れるように出まかせを言う。

 男はまさか禮次郎が何も知らないとは思わずに、ニヤリと笑ってそれに答える。


「残念、もっと上ですよ。インスマウスのものです」

「その割には魚臭くないな?」

「そこまで詳しく答える義理はありません」

「阿僧祇マリアに率いられていた聖母教会の残党ってところか?」


 それは禮次郎が当てずっぽうで言っただけの言葉だった。

 だが、それを聞いた瞬間、男の目の色が変わる。

 その変化を見逃す禮次郎ではない。


「仇討ちの為にわざわざここまでご苦労さんだ」


 男の表情が憎悪で歪む。

 そして男は、近くにおいてあった漏斗を手に取った。


「おいおいおい、何をするつも――もがごっ!?」


 男はものも言わずに禮次郎の口に漏斗を差し込む。

 そして灰色のどろどろとした流体をバケツ一杯に持ってくる。


「生コンですよぉ生コン。沈める時に重しをつける手間が省けるでしょう?」


 さすがの禮次郎も焦る。

 ニヘラニヘラと笑いながら男は虫だらけのタッパーを取り出して禮次郎の目と鼻の先に近づける。


「なにをするつもりだって顔ですね? コンクリの前にちょっと遊ぼうかと思いまして」


 禮次郎は必死でもがくが鎖は外れない。


「ムカデ、ゴキブリ、ゴミムシ、サソリ、毛虫、色々詰め合わせているんですがどうですかねえ? 気に入ってもらえますかぁ? 」


 そう言って男がタッパーの蓋を開けようとした時だった。

 

「んー……まるで気に入らんな。悪趣味極まりない」

「なにっ!?」


 潮の香りが禮次郎の鼻腔を通り抜ける。

 室内の筈なのに吹き抜けた潮風、そして聞き覚えの有る声。

 禮次郎の足元に突如として海そのものが現れて、その中から生えた巨大な蛸の足が女装をした男を一撃で薙ぎ払う。


「がぁ……有葉緑郎!」

「久しぶりだなシモン! 本日この時を以てダゴン秘密教団北海道支部は、数々の介入行為や地元住民と形成した合意を無視した行動への報復として、本部の指揮下より離脱、同時に宣戦布告を行う! 挨拶ついでにこの男は頂いていくぞ!」


 部屋に突如として現れた有葉緑郎は中折帽子のつばを持ち上げて笑う。

 それと同時に禮次郎の両腕を縛っていた鎖が外れる。


「有葉……助かった。お前の知り合いか?」


 禮次郎は即座に立ち上がり、右目を抑えながら歩き出す。


「話は後だ。クチナシ嬢は確保した。ついてこい。此処を出る」

「恩に着る」

「じゃないと君、一緒に来てくれないだろ?」

「まあな」

「待て! 逃すか!」


 シモンと呼ばれた男は、短剣を手に取り、一瞬で緑郎の前に移動する。

 だが、禮次郎はそれが予想できていたかのように緑郎の前に飛び出し、シモンの首を捕まえる。


「ガッ……あ゛……! こう゛じぎ……!」


 禮次郎は小柄なシモンを軽々と持ち上げる。シモンは刃物を振り回して禮次郎の腕や顔を滅多刺しにするが、禮次郎は気にする素振りも無く彼を地面に叩きつける。

 そして禮次郎は足元に転がっていた拷問用の金属バットを手に取り、振り上げる。


「ふざけんな。逃げねえよ」


 禮次郎は乾いた声で呟くと、シモンへバットを振り下ろした。

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