極彩色虚言泡沫絵巻~夢まぼろしは江戸の華~

彩宮菜夏

序章

その一 雫、ショックを受ける

 しずくが放課後になって何気なく下駄箱の蓋を開けると、靴の上には小ぶりで可愛らしい封筒が、ちょこんと載せられていた。表には丸っこい文字で、こう書いてある。


「愛しの御剣みつるぎ雫様へ!」


 手に取るなりがくりと肩を落とし、雫は深々とため息をついた。トレードマークの長いポニーテールが、頭の後ろでくたりと垂れる。

「まただ……」

 やるせない気持ちで一杯の雫がそうして肩を落としたまま脱力していると、急にどこからか、脳天気な声が飛んできた。


「しーずくっ。何見てーんの」

 そうしてどこからともなく現れたクラスメイトの八倉やくら亜里砂ありさは、雫の背後から覗き込むなり、素早くその封筒を奪う。

 そして遠慮会釈もなく吹き出した。


「また一年生からラヴレターもらったの? これ何通目?」

「今月で四通目……」

「もう諦めて付き合ったら?」

「四通とも相手が違うの。それに、私も、相手も、女」

「だからその辺も含めてそろそろ諦めたら」

「……まだ中二なのに諦めたくない!」


 決然とそう言い放つと、雫は素早く封筒を奪い返す。そして竹刀と鞄を肩にかけ、校舎の外へ颯爽と駆け出した。

 校庭からはブラスバンドの練習する音、野球部の掛け声が響いてくる。雫の青々としたセーラー服のスカートは、吹き抜ける風を受けて、まるで若桜のように輝かしくなびいた。


 まだ早春、うららかな日差しが心地よい時分のことである。



「二年生にして女子剣道部主将で、男っ気ゼロの清潔感溢れる凛々しい顔立ち、さらに生真面目かつ成績優秀な優等生と来たら、そらあうら若き乙女たちが惚れても仕方ないって。ていうかアタシがいただきたいくらいだもん。うへへ」

「……冗談でもやめて。教室でもヘンな視線感じるんだから」


 ――建て売りの家々が連なる、郊外の素っ気ない町並みの中。


 兄からのお下がりである古ぼけた自転車を漕ぎながら、雫は苦々しく顔を顰めて身震いをした。げんなりする。いつものように悪友の亜里砂と帰る途中であるが、今日はこの後、ちょっと寄るところがあった。


 雫のそんな言葉を聞いて、亜里砂は隣で可笑しそうに肩を揺らした。

「だから、そう言うんだったら彼氏ぐらい作ったらいいじゃない。大体雫って、男から見たら近寄りがたいんだって。ただでさえそんじょそこらの男じゃ敵わないくらい完璧超人なのに、その上廊下歩いてても険しい顔で背筋伸ばしてキビキビして、ほとんど侍」

「険しい……かな」


「どこぞの暗殺者かっていうくらい険しい。髪も地味なピンで留めておでこ出して、後ろはゴムで一本結び? ホントに侍じゃん」

「だって鬱陶しいから」


「もっとさー、ニコッてしたらいいんだって。ニコッと可愛く。男子なんてそれだけで簡単に喜ぶの。そして騙されるの。ね? 雫は素材はいいんだからさー」


 笑顔笑顔、とお気楽な声を上げると、亜里砂はハンドルから両手を放した。波打つアスファルトに揺さ振られて、荷台の鞄がガタゴトと音を立てる。


「うー……じゃあ、はい、笑顔」

 雫は少し考えると、亜里砂に向かって渾身の笑顔を作って見せた。


 静かな時間が流れた。


 亜里砂は、切なげな目付きをした。

「……また今度にしようか」

「はい……」


 そうして二人はしばらく、黙ったままで自転車を走らせていた。

 春の薫りのする柔らかな風が、二人の間をふわりと抜けていく。



 やがて、錆び付いた踏切の前まで辿り着くと、雫は急に自転車を止めた。傍らで驚いた亜里砂は、何事かと雫の顔を見る。


「え、どしたの?」

「ごめん、ちょっと私、今日はお祖父ちゃんの手伝いがあって」

「あーあの美術館の? よくやるねー。あたしだったら無視して逃げ出してるけど。んで、今日は何の用なの?」


「よく知らないけど、また新しく絵巻物を手に入れたから、それを展示する手伝いをしてほしいって……」


「またぁ!? てかそーだよね、雫ってお金持ちのお嬢様でもあるんだよね。お祖父ちゃんが個人美術館やってるんだから。色々と凄すぎて忘れてたわ。そしてそれなのにイヤミがないっていうのが、あんたの一番いいところだ、うん。まあ、頑張って。あたしは手伝わないから」


「別に期待してない。手伝いって言っても、ほとんどお祖父ちゃんの長話聴くのが仕事みたいなもんなんだけど」

 そう言って肩を竦める雫に、亜里砂は頬を引きつらせるとゲーッと舌を出した。


「えーあれでしょ? これの由来は何でござい、あれの作者は誰でござい、って。前連れてってもらったとき来世分まで堪能したけど。あれ孫相手にもおんなじことするの? 大した爺さまだわ……」


「んー、でも、私も嫌いじゃないから」


「あそっか、雫日本史凄いもんねー、先生が雫にお伺い立てるくらいなんだから。あれもお祖父さんのおかげなんだ。さすがだねー偉い偉い」

 そんな亜里砂の言葉を聞いて、照れた雫は頭を掻いた。


 しかし同時に、何やら不自然なようにも感じた。普段の亜里砂なら、もっとやたらに毒づいているはずである。それに大体どれもこれも、亜里砂ならとっくに知っていることばかりだった。さっきから必要以上に、雫のことを持ち上げてくる。


 そうして怪訝な顔をする雫をよそに、亜里砂はほんじゃあたしはもう行くわー、と言って、ニコニコと笑った。やたらとニコニコしている。やけに上機嫌である。そして、亜里砂が上機嫌なときにはろくな事がない。

 雫は厭な予感がした。


 にんまりと笑んだ亜里砂は、じゃあね、と言った。

「また明日ねー……あ、そうそう」

「何?」


「いや、いつ言おうかってずっと思ってたんだけどさ」

「うん」

「言いにくいことなんだけど……あのね」


 ひどく深刻そうな顔つきでそんなことを言って、亜里砂は雫の耳元にそっと口を寄せた。何かあったのかと不安になった雫は、そのまま黙って、次の言葉を待った。

 存分に溜めた亜里砂は、最後にこう言い放った。


「……あたし、Aカップ同盟抜けるわ。んじゃね」


「……う、裏切り者ぉおおおお!」


 突然の告白に一瞬固まった雫だったが、ハッと気がつくなり急いでそう叫んだ。それを尻目にワハハハハハと豪快に笑いながら、悠々と亜里砂は走り去っていった。

 わなわなと震える雫は、何も出来ずに彼女の後姿を見送った。


 ――こうして、同盟の構成員は一名になった。


 後に残された雫は、とりあえず繰り返し深呼吸をして、何とか心の動揺を静めた。それからおもむろに、自分の胸をさわさわと撫でてみる。万が一ということもある。

 そうして再び、腹の底から深々とため息を漏らした。


 トリプルAの雫が卒業する日は遠い。

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