その十九 雫、不安になる

 颯太や桜が頻りに「将軍様」と云って当代将軍の名を告げないのも、要は此処がどの時代でもないからである。


 元禄でも寛政でも享保でもなく、家康でも家光でも綱吉でも吉宗でも慶喜でもない。定まらぬ漠然とした「江戸」を描いた夢物語なのだから、そもそも将軍様の名は、判ってはならぬのだ。


 それに、先程から見て廻っている江戸の町の様子も、最初から何処かおかしかった。


 詰まるところ――細細とした意匠に、時代の整合性がないのである。


 建物の様式、名の知れた店屋の位置、人人の衣服、文化、流行りもの、暮らし振り。長い江戸時代に於いて、そうした物事は僅かにとはいえ確実に転変している。

 しかし、雫の眼で見ても、今周囲に広がる町並みは、微細な点であちこち矛盾していた。様々な時代の事物が、混在しているのである。


 のみならず、颯太に連れられて入った読本屋や浮世絵屋。あれらも、置いている品物が明らかにおかしかった。作風筆調が、江戸期全般に渡って万遍なく、取り揃えられているのである。


 びようしやぼん合巻ごうかん読本よみほん、時期によって流行り廃り取り締まりがあったはずのそれらが、いずれも同じように、並べて置かれていた。

 浮世絵も、雫の知る限りありとあらゆる画家の作品が、余すところなく並んでいた。本来ならば有り得るはずもない光景である。


 そしてそうした奇妙な点の一つ一つが――祖父から聞いた泡沫絵巻の内容と、ぴたり一致するのである。


 稀代の趣味人、江戸きっての娯楽好みの歌方雅楽が自在に描いた、極彩色虚言泡沫絵巻。祖父と共に眺めていたあの僅かな間にも、数え切れぬほどの「誤り」が見て取れた。思うがまま、好き放題に描かれていて、云ってみれば、時代考証がなっていなかったのだ。


 そして今――。

 雫は、そんな世界の最中に、立っている。


「じわりじわりと市中にまで入り込んだ妖怪あやかしどもは、人を襲うて内側から江戸の町を喰い破ろうとしております。昼日中はまだよいので御座いますが、黄昏刻たそがれどきを過ぎた頃には、魑魅魍魎が動き出すのです。私のような女子おなごは、出歩くことすらままなりません。見越入道に襲われた、鴉天狗が降りてきた、火車が天を駆けていった。そんな妖異怪奇の噂ばかり、耳にいたします。私はもう、恐ろしゅうてかないません――」


「おい雫、聞いているのか」

 颯太に咎められても、雫は上の空のままだった。


 しかし、そうなると、


 一体自分はどうやって、この世界から抜け出せばよいのか――。

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