その二十 雫、「邪鬼」に首を傾げる

「――雫ッ」


 颯太に肩を揺さぶられて、やっと雫は我に返った。


「どうしたのだ。雫らしくもない。聞いていたのか」

「え? ああ、うん。聞いてたよ……」


 辛うじて雫が頷くと、戸惑いながらも桜は話を続ける。


「それで――このままでは如何いかんともぎよし難いと、将軍様の命を受けたお奉行様方が、数多の古典漢籍を当たられたので御座います。そうしてようやっと判ったことには、何でも妖怪あやかしどもの大本には、『じや』なるものがいるのだそうで」


「じゃき?」

 雫は首を傾げる。


 やけに唐突な、聞いたこともない言葉である。颯太も同様の顔をしていたところからして、これは知らぬのであろう。桜はこくりと肯った。


「はい。よこしまなる鬼と書きます。これがために、妖怪あやかしの大群は江戸に押し寄せております」

「ほう。するとその邪鬼が妖怪あやかしの勧進元なのか。その鬼を打ち倒せば――」


「いえ、それはどうやら、そうした性質たちのものではないようなのです」

 簡単に済ませようとする颯太に、桜は首を振った。


「『邪鬼』とはしっかとかたちを取る妖物ではなく、云ってみれば、すだまのようなもの。妖怪あやかしの邪なる魂魄こんぱくを、総じて称するものと聞き及びます。万物に満ちる気の如く、邪鬼の魅は世のありとあらゆる悪しき妖しきものごとに充ち満ちて、力を与え、心を歪め、禍禍しき姿を顕わにする。云い換えれば、数多あまた妖怪あやかしどもが須く、邪鬼そのものなので御座います――」


 立て板に水と云った調子で桜は語る。

 感心して聞いていた雫は、最後に云った。


「詳しいね、桜ちゃん」

「いえ――」

 ただの噂に御座います、と桜は羞じらうように顔を背けた。


「しかしそれでは――如何いかに将軍様が軍勢を差し向けても無駄、ということではないのか」

 颯太が首を捻る。確かに話を聞く限りでは、そんな茫漠たるものなど倒しようがないように思える。


 しかし桜は、そうとは限りません、と応えた。


「人の躰にも、気の流れの集まるところに急所が御座いましょう。それと同じように、邪鬼の強く深くこごところがある、というお話で。そこを狙い澄まして叩けば、妖怪あやかしどもも取り敢えずは消え、去っていくのではないか、と――云われてはいるのですが」


 此処まで話して不意に言葉を濁すと、桜は少し、不安げな表情を浮かべた。雫は首を傾げる。


「どうか……したの?」

「いえ。これも、聞いた話に御座いますが――どうもこのところ、お武家様のお屋敷や、千代田のお城の様子がおかしい、と」

「江戸城が?」


 雫がつい大きな声を出すと、御剣様っ、と桜が焦った。


「あまり大きなお声を出されませぬよう――」

「え、ああ、ゴメン……」


 町人がお上の噂など、往来でおいそれと口に出すものではないのだろう。

 周りを行く人人に気取られないよう恐る恐る、囁くように桜は云った。


「何やらお屋敷にひとがないとか、奇妙な物音がしたとか、入ったきり人が出てこないとか――そればかりか、町の外で妖怪あやかしに立ち向かう軍勢にも、近頃めっきり将軍様からの命が届かぬようになった、と。まさかとは思うのですが――」


 桜は言葉を切った。雫にも、この娘が何を云いたいのかは判った。

 既に武家屋敷や江戸城の内にまで、妖怪あやかしどもがひそかに入り込んでいるのではないか――ということであろう。 


 妖しき邪鬼のすだまが、ずるりずるりと、江戸の町を侵していく。


 暗く澱んだ陰気の立ち籠める、町の行く末を雫は想像した。


 厭な光景だった。


 ――だが、そうなると。

 姫様と呼ばれていた、あの美しき娘。


 彼女が真実まつこと何処かの姫君ならば、そうした武家の屋敷から逃げ来たる身と云うことになろう。それが市井の旅籠に身を隠すとは、この江戸の大事に、何かしらの関わりがあるのだろうか。


 しかし――己の日常と余りにかけ離れた物事が続きすぎて、雫はどうやって考えを巡らしたものか、未だに見当も付かなかった。

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